【急募】オオカミ社長の週末花嫁~子作りするとは聞いてません!!~

麻生ミカリ

第一章 恋が始まるその前に (1)


   第一章 恋が始まるその前に


 冷泉来実(れいせんくるみ)の朝は早い。
 五時半に、枕元で充電しているスマートフォンがアラームを鳴らすと、のろのろとした動作で起き上がる。早起きだからといって、寝起きがいいわけではない。
 三月も終わりになろうとしているのに、寒がりの来実はムートン仕様のルームシューズを履いて、なんとか洗面所へ向かう。低血圧とは二十八年のつきあいだ。いい加減、慣れてきたと言いたいところなのだが、できることなら克服したい。
 ひとり暮らしのマンションの、お世辞にも広いとは言いがたい洗面所に到着すると、鏡に映った、鳥の巣に泥棒が入ったあととしか形容できない寝癖満載の寝ぼけ顔がこちらを見つめている。
 色白と言えば聞こえはいいが、血色が悪く青ざめた肌。少し大きすぎる目は、二十八歳という年齢よりも来実を幼く見せる。顎の細さに対して、頬がふっくらしているのも一因だろう。
「……おはよう、ございます…………」
 鏡に映る自分に一礼すると、来実はおもむろに歯ブラシを手にして蛇口をひねった。
 シャコシャコと歯を磨く音を聞きながら、次第に目が覚めていく。
 朝が早いからといって、睡眠時間が足りないわけではない。来実は毎晩、二十二時にはベッドに入ることにしている。この習慣は、八年前にマガミフーズに入社して以来、ほぼ毎日続いていた。
 裏を返せば、二十歳から二十八歳までの八年間、来実には一緒に夜更かしをする恋人のひとりもいなかったことの証明である。
 客観的に見て、来実は際立った美人でもなければ、愛くるしい顔立ちをしているわけでもない──とは、あくまで来実自身の判断だ。
 特筆するほど美しくもないが、さりとて目を背けるほどの醜い顔でもなく、しいて言うなら『ギリギリ及第点の顔』。そう来実を評したのが、実の父親だというのはなんとも残念なことだったが、その言い分はわからなくもない。
 各パーツの配置は悪くないし、それぞれのパーツもよく見れば形良いのだけれど、どこかパッとしないのだ。それは、来実自身の性格が表れているのが原因かもしれないけれど。
 冷泉来実は、凡庸な人間である。
 平均的な身長と、平均的な体重、平均的な偏差値の高校を十年前に卒業して、平均的な学費の専門学校へ入学し、平均よりやや上の給与をもらえる飲食店経営企業の秘書室に勤めている。
 歯磨きを終えた来実は、念入りにうがいをしてから顔を洗い、再度鏡のなかの自分と向き合った。
「平均的じゃないのは、恋愛経験だけかなあ」
 そして、彼女自身が認めるかどうかは別として、家庭環境もあまり平均的とは言いがたい。
 来実の父は、若いころから奔放(ほんぽう)な性格だったらしい。らしいというのは、それを語ったのが父本人ではなく、母だったことによるものだ。
 放浪癖のある父親は、その癖ゆえにひとつの仕事を長く続けることができなかった。あるときふらりと帰ってこなくなり、会社に問い合わせると一週間前に退職したという。当然ながら雀の涙ほどの退職金さえも、家族には残してくれない。それらは父の旅の路銀と成り果てる。
 来実が小学校を卒業するまでに三度、中学高校の間に四度の失踪を重ねてなお、父は平然と戸建てのオンボロ借家へ帰ってくる。それはひとえに、母が父に一途な愛を注いでいたからだろう。
 二歳下の弟は、不在がちな父親とお嬢さま育ちの母親に反発してか、非常に自立心の強いところがあった。けれど、高い理想と裏腹に、弟の(たつき)は姉の贔屓目(ひいきめ)にも頭がよろしくなかったのである。
 高校時代には、彼女と同棲すると言い出し、その費用を捻出するため、アルバイトにアルバイトを重ね、出席日数不足で留年になった。当然と言ってはなんだが、遊ぶ時間もなければ同級生でもなくなった樹を、当時の彼女は簡単にフったという。
 四年かかって高校を卒業したと思えば、今度は詐欺まがいの絵画販売の職に就き、似合わない高級スーツを着て出かけては、札束を持って帰ってきた。父譲りの飽きっぽさが功を奏し、半年でその仕事は辞めたものの、金遣いの荒さだけが残された。
 その後もなんやかやと職を転々とし、ときにパチプロになると言っては仕事もせずにせっせとパチンコ店へ通い、ときに映画監督になると言っては借金して機材を買い込み、あるときはなんの影響だというのか、「俺は石油王になる!」と言い出して母をハラハラさせた。
 そんな弟ではあるけれど、二年前、突然恋人を連れて家に戻り、
「俺はこのひとと結婚する。反対しても無駄だ。十月には子どもが生まれるから」
 と宣言したことが、もっとも家族を驚かせた。別段、誰も樹の結婚に反対するつもりはなかったけれど、狭い借家に弟一家が戻ってきては部屋数が足りない。来実は仕方なしに実家を出た。
 普通なら怒っても当然のことだ、と友人から言われたりもしたのだが、来実は樹の破天荒ぶりに慣れていたのか、あるいは元来の性格によるものか、なんら腹が立つことはなかった。
 ひとり暮らしも悪くない。
 それまで、家族のトラブルで慌ただしく生きてきた身としては、平穏に不満を言う気はまったく起こらなかったのである。
 何より、実家にいたころは給料のほとんどを家族の生活費に充てていたが、今は月十万の仕送りだけで済む。八年間働いて、やっと貯めた貯金は四百万円。
 いずれは結婚したい。
 漠然と思う気持ちはあったが、繰り返される父の失踪と弟の暴挙に振り回され、恋愛すらしたことがない二十八歳だなんて、今から恋の機会があるのだろうか。
 昨年末に会ったときは「オレ、最近ミュージシャンを目指してるんだよね」なんて言っていた樹だが、実際には小学生のための音楽教材制作をしている会社で使い走りをしていたはずだ。
 とりあえず、働いてくれるならそれでいい。
 二十六歳の男性に対して、あまりにゆるい評価ではあるけれど、最近は父も腰を落ち着けているようだし、一歳の甥はかわいいし、来実はやっと自分の人生を考えられるようになってきた。
 顔を洗い、化粧水をつけ、薄く化粧をする。鏡のなかの眠そうな顔が、少しだけはっきりしてくる。
 寝癖を直すのに十五分、着替えに十分、冷蔵庫からミネラルウォーターを出して、グラスに注ぐ。時計の針が六時三十分になるのを確認すると、使い終えたグラスを洗って家を出る。
 稲城(いなぎ)市と川崎(かわさき)市の入り組んだ住宅地に、来実の住む小さなアパートは建っている。築三十五年の古い建物は、外階段が()びていた。
 八王子(はちおうじ)の実家を出るときに、稲城市を選んだのは単なる消去法によるものだった。
 職場は山手線の田町(たまち)駅。理想としては二十三区内、できれば山手線への乗り継ぎが楽な場所に住みたかったけれど、そんな贅沢はできない。
 一カ月の家賃が五万円以内の物件を探し続けた結果、私鉄沿線にある今の部屋が見つかった。古いは古いが、そのぶん収納は多い。バス・トイレ別なのも嬉しいし、何より台所の使い勝手が良い。
「よし、今日も頑張っていきますか」
 ひとり暮らしを初めてから、ひとり言が多くなったけれど、それもまた楽しい。
 駅まで徒歩十分の道のりを、今日もまた来実は歩きはじめる。平穏で平坦で平静で平安。平たく言って、来実は特に刺激のない毎日を愛していた。

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