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背徳の婚姻

浅見茉莉

第一章 (1)


第一章


「く、苦しいわ、カロリーヌ。もう少し(ゆる)めて」
 薄桃(うすもも)色の大理石の柱を(つか)んで、ヴィヴィアンは悲鳴を上げた。
 両手の指で作った輪の中に納まりそうな、貴婦人たちの細いウエストを演出するコルセットが、こんなに過酷(かこく)なものだったとはつい最近知った。
「我慢なさいませ。レディたるもの、美しさの追求を(おこた)ってはなりません」
 フランス人のヴィヴィアン付き侍女(じじよ)はそう言って、容赦(ようしや)なくコルセットのひもを締め上げる。
「せっかくもともと細くていらっしゃるんですから、社交界デビューまでにもう二インチ減らしましょう。ウォーベック侯爵家のご令嬢はミツバチのように細いウエストをしていると、評判になりますわ」
 ひとまず現状に納得したらしいカロリーヌは、コルセットのひもを結ぶと、空色のドレスを手にする。
 ヴィヴィアンは胸元を押さえて深呼吸をした。
「デビューする前に息が止まりそう」
「あら、そんなもったいない。これからどんなすばらしい殿方と(めぐ)り会うか。お嬢さまの人生はこれからですのよ」
 昨年の暮れに十七歳になったヴィヴィアンは、いよいよ今年のシーズンからロンドン社交界にデビューの許しを両親から得た。
 貴族の娘にとって、ロンドン社交界は(あこが)れの場だ。それまでずっと屋敷の中に閉じ込められるようにして暮らす間に、華やかな社交界への興味と憧憬(しようけい)は募る。舞踏会、晩餐会(ばんさんかい)、きれいなイブニングドレス、男性とのダンス――そして、将来の伴侶との出会い。
 どんな輝かしい未来が待ちかまえているのか、際限なく(ふく)らむ夢の入り口がロンドン社交界デビューだった。
 準備も着々と進んでいる。礼儀作法や刺繍(ししゆう)、ピアノなどは、ウォーベック侯爵家の娘として恥ずかしくないようにと、幼いころから教えられてきたが、今年に入ってから外見を整える作業が加わった。このコルセットもそうだ。
 (ゆる)く波打つ金髪も結い上げられ、コテで作られた巻き毛が肩で揺れる感触も、初めは(くすぐ)ったかったけれど、今は心地よい。胸元やウエストにぴたりと沿うドレスは、いかにもおとなの気分になって(ほこ)らしく、心が弾む。
「まあ、よくお似合いですわ。さすがはエイムズですわね。お仕立てもぴったり」
 スカートの膨らみを整えたカロリーヌは、一歩下がってヴィヴィアンの支度を(なが)め、満足げに両手を胸の前で組んだ。
 張りのあるシルクタフタの(そで)はふわりとして、手首と(えり)はフランス製の繊細なレースで縁取られている。絞ったウエストから下はフラウンスが五段もついて、(すそ)にいくに従って大きく広がっていた。
 今、ロンドンで若い貴婦人に人気のドレスメーカーで仕立てたもので、ヴィヴィアンも仕上がりを見てひと目で気に入った。
「舞踏会のドレスはバタイユでと思っていたのに、どうしよう、迷うわ。エイムズもすてきなドレスを作ってくれそうだと思わない?」
 背骨に沿って並んだ金糸レースのリボンを鏡に映しながら、ヴィヴィアンは頭を悩ませる。一生に一度のお披露目(ひろめ)なのだから、やはりここはフランスのデザイナーに任せるべきだろうか。
 自国に対する誇りと自信は揺るぎないイギリス貴族だが、ファッションや日常生活においては、フランス製やフランス仕込みに一目置いている。ヴィヴィアン付きの侍女にフランス人のカロリーヌが選ばれたのも、そのひとつだろう。
「注目を集めるのでしたら、やはりバタイユでしょう。砂糖菓子のようなドレスを作ると聞きます」
「そう! そうなのよ! 去年社交界にデビューしたシャーロットが、バタイユのドレスを見せてくれたのだけれど、本当に触れたら溶けてしまいそうに薄いシフォンが幾重(いくえ)にもなっていて、その色が全部違うから角度によってドレスの色が違って見えたのよ。本当にすてきだったわ!」
 やっぱりバタイユがいい、と叫ぶヴィヴィアンを、カロリーヌは鏡の前のスツールに(うなが)して、肩に化粧ケープをかけた。
「承知いたしました。では、近日中にデザインと採寸をするように、バタイユを呼びましょう。お嬢さまもそれまでに希望をおまとめになってください」
 昨年末、ウォーベック侯爵一家はイギリス南西部の領地から、ロンドンのタウンハウスに移動してクリスマスシーズンを過ごしたが、現在、侯爵夫妻は領地の城に戻っている。
 ヴィヴィアンも本格的な社交シーズンが始まる復活祭が過ぎるまで、ともに帰郷するように言われたのだが、必死に食い下がってロンドンにとどまった。活気のある華やかな街を知ってしまうと、なにもない田舎に帰る気になどなれない。
 幸い兄のアンドリューが味方して、ヴィヴィアンのお目付け役と守護を買って出てくれたので、ロンドン残留の許しが出た。
「本当にお兄さまは信用が厚いのよね。最高のレディになるためにロンドンで準備を続けたいと私が言ったときには、お父さまもお母さまも聞く耳を持たなかったのに、『俺がついている』のひと言でひっくり返ったんですもの」
「若さまは貴公子の鏡のようなお方ですから」
 ヴィヴィアンの髪飾りを留めていたカロリーヌは、鏡を見て微笑した。
「ご友人がたからのお誘いももちろんですけれど、各家のお嬢さまからのお手紙も多くていらっしゃいます」
「そうなの!?
 思わず振り返りそうになったヴィヴィアンの頭を、カロリーヌが押さえる。
「ああ、お動きにならないで。ええ、一応ご当主さまのお名前で送られてきますが、お年ごろのお嬢さまがいらっしゃるお家ばかりですよ」
「まあ……」
 知らなかった。まだ社交界に足を踏み入れられないヴィヴィアンだから、そこでの兄がどのような位置にいるのかは知りようもない。ヴィヴィアンが知るアンドリューは、優しくて物知りで、馬の(あつか)いがとても(うま)い、九歳上の兄だ。
 もちろん見た目が整っていることは、妹の贔屓目(ひいきめ)でなく客観的事実だと思う。長身で胸板が厚く、テイルコートがよく似合う。黒髪に縁取られた目鼻立ちは凜々(りり)しく、母譲りの翡翠(ひすい)色の瞳は見惚(みと)れてしまうほど鮮やかだ。
 イートンからオックスフォードへ進み、教授が卒業を惜しんだという逸話(いつわ)もあるほどだから、頭脳明晰(ずのうめいせき)なのも疑いようがなかった。
 今は父の爵位のひとつであるグルーバー伯爵を名乗っているが、嫡子としていずれはウォーベック侯爵となる。
「そうね……考えてみれば、申し分のない貴公子だわ」
 (うなず)いたヴィヴィアンに、カロリーヌは(あき)れ顔だ。
「お気づきにならなかったことのほうがどうかしています」
「だって兄ですもの。結婚相手としてどうかなんて考えるわけがないでしょ。間違ってもそんなことにならないんだから」
「でも、大好きなお兄さまでいらっしゃいますよね」
「もちろんだわ」
 ヴィヴィアンは即答した。
「嫌う理由がないもの。最高のお兄さまよ。私をいちばん可愛(かわい)がってくれるし――あ、でも結婚してしまったら、そうはいかないのかしら」
 それはちょっと(さび)しいと考え込んだヴィヴィアンに、カロリーヌが苦笑した。
「お嬢さまにもお相手の殿方がおできになりますよ」
「……そうね。そうだったわ」
 クリスタルビーズの髪留めで飾られた横顔を鏡に映して、ヴィヴィアンはスツールから腰を上げた。
「私は私の王子さまと出会うのよね」



 ハムステッドにあるウォーベック侯爵家のタウンハウスは石造りの三階建てで、近隣の建物の倍以上の敷地を持つ。一階には町屋敷としては破格の規模の大広間とサロンがあり、オーランジェリーまで(そな)わっていた。
 そのサロンで、今日はダンスのレッスンがあるはずなのだが、支度を整えたヴィヴィアンが息せききってドアを開けるとダンス教師の姿はなく、ピアノの(かたわ)らでアンドリューが腕組みをしていた。

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