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元帥皇帝に捧げられた花嫁

芹名りせ

第一章 (1)


第一章


 漆喰(しつくい)の壁をくりぬいて造られた大きな暖炉で、赤々とした炎を上げて燃えさかる(まき)が、ぱしりと乾いた音を響かせて()ぜる。しんと張りつめた部屋の空気が引き裂かれ、毛足の長い絨毯(じゆうたん)の上に呆然(ぼうぜん)と座りこんでいた娘は、(はじ)かれたように背後をふり返った。
「あ……!」
 青空のように澄んだ瞳で見つめる先には、精緻な彫刻を施された重々しい木製の扉がある。その扉を開けて誰かが部屋へ入ってきたのではないことを確認し、緊張に上がっていた華奢(きやしや)な肩からすっと力が抜けた。
(よかった……)
 薄いドレスの上を滑り、輝く黄金色の長い髪が身体の前面に落ちてくる。ドレスの下で大きく上下を続ける胸の奥では、焦る心臓がいまだに早鐘のような速度で脈打っていた。
(まだみたい。まだ……)
 自分自身に言い聞かせるかのように何度心の中でくり返しても、この広い部屋にたった一人で置き去りにされてからの長い時間、細い指先は緊張のあまり体温を失ったままだ。ドレスの上に重ねたローブの胸もとをかきあわせ、震える手できつく握りしめる。
(まだ大丈夫)
 暖炉の前にいても背後から寒さが迫りくるような季節。
 窓の外では冷たい北風が吹き始めているというのに、娘が身に着けているのは美しい光沢を放つドレスと、その上に羽織ったローブのみ。透けるほどに薄いドレスの下、初々しさを感じさせる若い肢体が、これからそれを征服する予定の来訪者を待ち、恐れに震えている。
 それは彼女の役目であり、決して逃げ出すことはできない定めだ。
「……よし」
 己の気持ちを奮い立たせるため、娘は声を発して決意を新たにし、長く座りこんでいた絨毯の上から立ち上がった。この部屋に連れてこられる前に、数人の女官たちの手によって念入りに洗われた長い髪もすっかり乾いてしまった。身じろぎすると、全身に塗りこまれた謎の液体の甘ったるい香りが鼻をつく。
 つい半月ほど前までは目にしたこともなかったような、手触りのいい布で(あつら)えられたドレスはおそらく最上級のものだろう。うっすらと化粧を施した愛らしい顔も、陶器のように白い肌も実に美しくよく映える。今宵(こよい)の身支度を手伝ってくれた女官たちは口を(そろ)えて
「素晴らしい贈り物だ」と彼女を褒めそやした。
 そう。娘はこれから贈り物としてとある人物に(ささ)げられる。
 人物の名はアラル皇帝――隣国リィクセン帝国の最高指導者であり、たび重なる侵攻で長くこのカドレラ王国に脅威をもたらしてきた人物。
 長引く防戦で貧困する祖国を救うため、清らかで美しいその身を投げ打って和睦を交渉することが、娘の今宵の役目だった。
「…………」
 娘は両腕で自分の身体を抱きしめた格好のまま、暖炉前の丸テーブルの上に置かれた二つ折りの羊皮紙を見つめる。皮革製の立派な表紙がついたそれは、先刻この国の王妃であるリュドミーラ王妃が、自ら彼女へ託していったものだ。和平の条件が記されており、それにサインを(もら)うようにと言い渡された。
 交換条件の一つとして、娘がアラル皇帝の七番目の妻となることが明記されているらしい。国家間の取り決めとして、彼女はまだ恋も知らない清らかな身を、(よわい)五十を過ぎても、男としても為政者としても(いま)だ衰えを感じさせない残虐非道な独裁者へと捧げるのだ。
(怖い……)
 武力によって併合した国々から戦利品のように集めた美しい女性たちを、王宮内に囲っているらしい(うわさ)はこれまでにも聞いたことがあったが、まさか自分がその中の一人になるなどとは考えたこともなかった。自分の行動に国の行く末を委ねられる未来などこれまで想像したこともなかったし、実際彼女はそういう立場にもなかったからだ。
 しかし今は違う。住む場所も服装も実はこうなのだと提示された身分も、半月前と今とでは雲泥の差だ。
 それに伴う責任を果たすため、今宵隣国の皇帝の七番目の妃となる――。
(それが私の役目)
 諦めにも似た緊張の思いで長く待っていたが、真夜中を過ぎてもその部屋には誰も訪れることはなかった。


 どれほどの時間が過ぎたのだろう。長椅子にもたれたままうとうとと眠りこんでいた娘は背後で扉の開く音を聞き、慌てて居住まいを正した。
(いよいよ……!)
 リィクセン帝国の皇帝が現われたのだと身体と気持ちに緊張が走ったが、どれだけ待っても扉から誰かが入ってくる気配がしない。ふり向いてもいいものかと、ちらりと少しだけ背後に視線を送ったつもりだったが、その少しが少しでは済まなくなった。
「えっ…………?」
 開け放たれた扉の向こう、廊下とは思えないほどの広い空間に、部屋への出入りを阻害するかのように背の高い彫像が立っている。
「あ……」
 しかし目を凝らしてよく見れば、彫像だと思ったそれが生身の人間であることがすぐにわかる。それでも視線を引き寄せられるように目を奪われたまま、その人影から目を離すことができなかった。
 金の肩章や飾緒が目立つ襟の高い漆黒の服は、リィクセン帝国軍の軍服だ。細いズボンもベルトも膝の下まである長靴も、両手に()めた白い手袋以外は全て黒色で、まるで影のようにひそやかな()()ちであるが、それが尚更(なおさら)、その人物の肩幅が広く均整の取れた体つきであることを際立たせている。
 ほっそりとした顔つきに、長めの髪。首の後ろで結わえた髪は(はがね)色のようだが、背後で燭台(しよくだい)(あか)りが揺れるたびに光の当たり方が変わり、微妙に色あいも変化した。真一文字に切り込まれたような眉の下に、眼光鋭い切れ長の目。紫紺の瞳が放つ光は人間離れして美しく、作り物めいて見える。
 年の頃は二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。どう見ても五十歳をとうに越えているはずのリィクセン帝国皇帝ではないと判断し、娘は恐る恐る口を開いた。
「あの……どなたでしょうか?」
 色つき硝子(がらす)のような瞳がかすかに見開かれ、固く引き結ばれていた口元がゆっくりと動きだす。
「お前……人間なのか?」
「…………え?」
 ほんの少し前、彼の姿を見て彼女自身も同じことを考えていたため、思わず気安い声を発してしまった。青年は娘が首を(かし)げた姿を見て、わずかに崩れた表情をまた氷のような無表情に戻し、部屋の中へと入ってくる。
「いや、何でもない。気にするな」
「あの……」
 今宵この部屋ではリィクセン帝国の皇帝を迎える予定であり、軽い夜食や就寝前の酒が用意され、カドレラ王国においては貴重な花が惜しげもなく飾られていた。皇帝が現われる前にそれらを他の者に供与するわけにはいかない。
 しかも娘は皇帝とベッドを共にすることだけが目的と言わんばかりに、生地の薄いドレスを着せられ、全身から魅惑的な香りを漂わせている。幸い青年は彼女のことなどもうまったく見ていないが、緞子(どんす)のカーテンが幾重にも垂れ下がったベッドをこれみよがしに据えられている部屋で、見知らぬ男と二人きりになることはためらわれた。
「あの、困ります……」
 勝手に目の前のソファーに腰を下ろしてしまった青年に話しかけると、ちらりと射るような視線を向けられる。彫刻と見間違えてしまうほどに顔の造作がよく整っているため、(にら)まれると心臓が止まりそうに怖い。それでも懸命に、娘は訴える。

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