話題のラノベや投稿小説を無料で読むならノベルバ

花嫁はシンデレラ

水島忍

第一章  恩人のために (1)


第一章  恩人のために


「お願いします。お(なか)が空いて死にそうなんです。なんでもしますから……働かせてください!」
 男の服を着たエリン・カールソンは、居酒屋の主人に必死で頼んでいた。
 お金がなくて、昨日から何も食べていない。お腹が空きすぎて身体に力が入らなかったが、何か食べさせてくれるなら、一日中働かされても文句は言わないつもりだった。
「おまえみたいな薄汚い小僧なんか雇ったらメシがまずくなる! 二度とここに近寄るんじゃねえ!」
 エリンは居酒屋の主人に店の外へと突き飛ばされ、地面に倒れ込んだ。主人は腹を立てたように店内に戻り、扉を閉めた。エリンはすぐに起き上がる気力も体力もなかった。
 わたしはこのまま死ぬのかしら。こんなところで、こんなふうに……?
 エリンはロンドンの夜の街にいた。ここは派手な店構えの飲食店や賭博場が建ち並ぶ通りで、お世辞にも治安がいいとは言えない。十八歳の娘が一人でうろつく場所ではなかった。もっとも、今のエリンの姿を見て、『娘』だと思う人はいないかもしれない。
 古着屋で手に入れたズボンとだぶだぶのシャツ、ベストを身に着けている。金色の長い髪をリボンでくくって、大きめの上着の中に隠し、その上、澄んだ青い瞳が隠れるような帽子を目深にかぶっていた。身に着けているものは薄汚れているから、どこかの浮浪児のようにしか見えないはずだ。けれども、女の格好で歩くよりは危険が少ない。
 十日ほど前までは、エリンは住み込みの家庭教師として薄給で働いていた。しかし、あることが原因で追い出されてしまい、紹介状ももらえなかった。そのため、次の仕事が見つからず、次第に手持ちのお金はなくなっていった。
 最初は薄汚れた安宿に泊まっていたのだが、早急に働かなくては寝泊まりするところもなくなる。エリンは自分の服や持ち物を売り、身を守るために男の格好をすることにした。使い走りでもなんでもするつもりだったが、それでも誰も雇ってくれない。昨夜はとうとう路上で寝ることになり、今は空腹のために眩暈(めまい)すらしている。
 居酒屋の主人に突き飛ばされて、エリンはしばらく起き上がることができなかった。
 少し眠ったら、力が出るかしら……。
 凍え死ぬほどの寒さではないが、それにしても道路で眠るわけにはいかない。エリンが身体を起こそうとしたそのとき、男性が声をかけてきた。
「大丈夫か?」
 エリンは彼を見上げた。
 街灯や店の明かりで薄ぼんやりと見える彼は、身なりや品がよく、紳士と言ってもいいような男性だった。居酒屋で酒を飲み、騒いでいるような連中とは違う。彼がどうしてこんなところにいるのか(わか)らないが、賭博場で遊んでいたのかもしれないと思った。
怪我(けが)はないか? 店の主人に突き飛ばされていたようだが」
 彼はそれを目撃していたのだ。エリンは彼が差し出す手にすがり、立ち上がった。だが、ふらついて、彼に抱き留められる。
 見知らぬ紳士の腕に抱かれて、エリンはドキッとする。間近で見る彼の顔は思いがけなく整っていた。年齢は思ったより若い。三十歳くらいだろうか。それに、背が高い。まるで、エリンをすっぽり包めるような高さだった。
 何を馬鹿なことを考えているの……!
 エリンは頬が熱くなるのを感じた。彼にしてみれば、自分は少年だ。しかも、あまり綺麗(きれい)な格好とは言いがたい。彼は自分に対して魅力など一欠片(ひとかけら)も感じていないに違いない。
「あの……ありがとうございました」
 (ささや)くような弱々しい声しか出せない。居酒屋で仕事が欲しいと頼んだことで、最後の力を使い果たしたのか、身体にまるで力が入らなかった。
 彼はまるでエリンの言葉を聞き取ろうとするかのように、顔を寄せてきた。
「なんともないならいいが……。家はどこだ? 送っていこうか?」
 あまりにも親切な申し出で、エリンは涙が出そうになった。仕事先の家から追い出されてから、親切にしてくれた人もいたが、大概は邪険にされた。口汚く罵られたこともあるのだ。それなのに、見ず知らずの紳士がこんなに親切にしてくれようとしている。
「家は……ありません」
「えっ、家はない? 親はどうしたんだ?」
 頭の中がぐるぐると回りだし、上手くものが考えられない。この親切な紳士に説明したいのだが、説明の順序も考えつかなかった。
「お…お腹が空いて……死にそうなんです……」
 やっとのことでエリンはそう告げた。彼が親切なのにつけこんでいるように思えて仕方がなかったが、もう彼にすがるしかすべがないようだった。このままでは、きっと自分は死んでしまうだろう。
「しっかりしろ。震えているじゃないか」
 彼はエリンの身体を抱き上げた。
「すぐ近くに馬車がある。君を僕の屋敷まで連れていくから。何か残り物くらいはあるだろう」
 エリンはお礼を言おうとしたが、言葉にならなかった。目を閉じると、暗黒の闇が迫ってくる。それでも、彼の腕に抱かれていれば大丈夫だと思えた。
 わたし……まだ生きていけるわ。
 子供の頃に亡くなった母の笑顔が、ふと脳裏に浮かぶ。母がにこにこと笑いかけていた。
「どうしたんですか? その子は?」
 気を失いかけていたエリンだったが、その声にはっと目を開けた。気がつくと、黒塗りの馬車の前だった。御者が紳士の腕の中にいるエリンを見て、声をかけてきたのだ。
「拾ったんだ。腹が減りすぎて倒れたみたいだ」
「旦那は子供に親切ですからねえ」
 エリンの胸がぽっと温かくなった。自分は子供ではないが、子供に親切な人ならば、悪人ではない。もちろん、悪人だなんて思ってはいないが、彼がやはり優しい紳士だと判って、(うれ)しかったのだ。
 彼はエリンを抱いたまま馬車に乗り込み、自分の隣に座らせた。肩に腕を回して、しっかりと身体を支えてくれたから、馬車が動き始めても、座席から滑り落ちたりしなかった。
「ありがとうございます……。本当に……」
 ぼそぼそと(つぶや)いたが、馬車の音はうるさくて、彼には聞こえなかったかもしれない。しかし、彼はしっかりとエリンを抱き寄せて言った。
「大丈夫だ。ちゃんと食べれば元気になれるからな」
 なんて親切な人かしら……。
 彼はもう結婚しているのだろうか。子供が何人かいるなら、何か役に立てることがあるかもしれない。
 そう思いながらも、エリンは彼が独身であってほしいと願ってしまった。
 彼が独身であっても、そうでなくても、自分にはなんの関わりもないというのに。
 しかし、彼が美しい女性を妻と呼び、抱き締めているところを想像したくなかった。彼の屋敷では、彼を待っている人がいるだろう。こんな素敵な紳士がいつまでも独身でいるはずがないからだ。
 エリンは馬車に揺られながら、お腹が空いて死にそうだというのに、そんなことを考えている自分に戸惑いを覚えていた。


「花嫁はシンデレラ」を読んでいる人はこの作品も読んでいます