暁の恋歌~花嫁は聖夜に奏でられる~
第一章 琥珀の夢 (3)
グレースは黒ずんだオークの梁が独特の芳香を発する酒場を奥へ歩いていった。顔を上げた父が、薪を抱えた娘を見て不思議そうな顔になる。
「空耳かな? 薪を割っている音がするようだが……」
「泊まり客が来たの。宿賃が足りない分を労働で払ってくれるそうよ」
暖炉脇の籠が薪でいっぱいになると、ワット・ブルワーは嬉しそうに顔をほころばせた。
「そいつはいい取り引きだ。この際、ありったけの薪を割ってもらおう」
「個室のほうがいいんだって。あの一番狭い部屋にしようと思うんだけど、いいかしら?」
「広い部屋も空いとるぞ? ああ、宿賃が足りないんだったな」
「十二夜の翌日まで馬を預かってほしいそうよ。馬の預かり賃を前払いしてもらうと、個室の追加料金を払うのが厳しいらしいの。――あ、馬が捻挫してるんだわ。母さんはどこ? お手製の打ち身に効く軟膏、使わせてほしいんだけど」
「台所でパンを捏ねとるよ。行商人かね、お客さんは。値の張る品物でも扱ってるのかな」
「吟遊詩人だそうよ。今夜、村人たちの前で歌ってくれるって。労働に御祝儀も足して、不足分にあてるって言ってたわ」
グレースが説明しながら厨房へ回ると、父は暖炉の縁に掴まりながら身を起こした。
「吟遊詩人か……。吟遊詩人が立ち寄るのは、ずいぶん久しぶりだ。村の衆も喜ぶぞ。どれ、手伝ってこよう。手にケガでもしたらいかん」
片足を軽く引きながら出て行く父の後ろ姿に、いつもながらグレースはうら悲しい気分になった。
(ごめんね、父さん。わたしのせいで……)
「――グレース? そこにいるのかい?」
母の声が聞こえ、グレースは急いで厨房へ入った。ネルダ・ブルワーは鼻唄を歌いながら機嫌よくパン生地を捏ねていた。
「ひょっとしてお客さんが来た?」
「ええ、母さん。吟遊詩人なの。宿賃の足しに歌ってくれるそうよ」
「それは楽しみだね! きっとその人もダービー城へ行くんだよ。今年のクリスマスは、あの城に王様がご滞在になるそうだから」
「そうだったわね」
グレースは村の噂を思い出して頷いた。
ダービー城の現在の城主は国王の妹君だ。グレースが生まれた頃から、この国では国王と古参の大貴族との対立が深刻化していた。近辺ではないが、小規模な戦争も何度かあった。
小競り合いを挟みながら粘り強く交渉を続けた結果、貴族たちを率いる侯爵は矛先を収め、国王に改めて忠誠を誓った。騒乱が鎮静化したのはようやくこの夏も終わる頃のことだ。
「ずーっと外国に避難してたお世継ぎの王子様も来られるそうだよ。お祝いと挨拶で、お城には貴族がいっぱい集まるはずだろ? うちの泊まり客も増えるかと思ったんだけどねぇ」
パン生地を台に叩きつけながら、残念そうにネルダが嘆息する。
「みんな手前にある〈王冠と猪〉亭に泊まるみたいね」
控えめにグレースが言うと、ネルダは盛大に鼻を鳴らした。
「なーにが〈王冠と猪〉亭だ。去年までは〈豚足〉亭だったくせに」
「豚足じゃなくて〈俊足猪〉亭よ」
「ふん! 王様の勝ちが決まったとたんに看板を替えてさ。ダービー城へ行くならうちに泊まったほうがずっと便利なのに。馬車なら朝はゆっくりできて、午後のちょうどよい時間にお城に着ける。料理だってエールだって、〈泉の騎士〉亭のほうがずーっと上だよ!」
どすん、と派手な音をたてて生地が台に叩きつけられる。盛大に粉が舞い上がった。
「もちろん、母さんの作る料理とエールは絶品だって、みんな言ってるわ」
「そうともさ! だから、貴重なお客さんは赤字覚悟でもてなさにゃ。吟遊詩人なら、きっと素敵な口上でうちを宣伝してくれるだろうからね」
グレースは苦笑して、そうねと頷いた。
「母さん、打ち身用の軟膏を貸してくれる? 吟遊詩人さんの馬が捻挫してるの。……馬にも効くわよね?」
「馬だろうが牛だろうがばっちり効くともさ。そこの棚にあるよ」
軟膏の容器を手に急いで引き返し、グレースは目を丸くした。薪割りをしているアランを、父が丸太に腰掛けて眺めている。よく聞こえないが、ふたりは楽しそうな様子でお喋りをしていた。
斧を振るっているうちに暑くなったのだろう。アランはチュニックを脱いで上半身裸で薪割りをしていた。
ほっそりと優美に見えたアランは、意外に逞しかった。しっかりと鍛えられた筋肉が身体を動かすたびに躍動する。薄日が射して、なめらかな皮膚に浮かんだ汗の珠が輝いていた。
グレースは息を詰めてアランを見つめた。薪割りをする男の姿など珍しいものではないのに、何故だか目を逸らせない。
やがてアランが手を止めて振り向いた。こちらを見てにこりと笑う。
グレースは赤くなった。じろじろ見ていたせいで気付かれたのかもしれないと思うとひどくきまりが悪い。
その時になってグレースは、見物人が父と自分だけでないことに気付いた。
村の子どもたちがずいぶん集まっている。通りすがりにアランに気付き、物珍しさから足を止めたのだろう。
その類稀な美貌だけでなく、村の若い男とはまったく異なる雰囲気をアランはまとっていた。子どもたちは敏感にそれを察したに違いない。
(このぶんだと、村中の女も集まってきそうだわ)
息子や弟たちは、いったい何をそんなに熱心に眺めているのかと、女たちが宿屋の庭を覗き込むのは時間の問題だ。
グレースは軟膏の容器をぎゅっと握りしめ、できるだけ平静に歩きだした。何気なさは装えても、頬の熱さを抑えるのは難しい。
「……軟膏を持ってきました。一緒に来ていただけますか。知らない人に痛いところを触られるのは、馬がいやがると思うので」
「そうだね。イスートはちょっと気難しいところがある」
父のワットはアランの視線を受けて微笑んだ。
「ごらん、グレース。こんなにたくさん割ってもらったぞ。これならしばらくもちそうだ」
「あの、お怪我はないですか」
「平気だよ。薪割りは久しぶりだったけど、すぐに勘を取り戻したから」
にこっとアランは笑った。ざっと汗を拭いてチュニックを引っかける。逞しい腕や胸が隠れてしまったのをひそかに残念がっている自分に気付き、グレースは顔を赤らめた。
(変だわ、わたし。赤くなってばかり……)
冴えない田舎娘だと、アランに笑われてしまいそう。そう思うとますますいたたまれなくなった。
(ばかね。一泊したら去ってしまう旅人なのに、何をそんなに気にしてるの)
グレースが薬を塗るあいだ、アランはイスートの鼻面を優しく撫でながら穏やかに話しかけていた。そのおかげか、イスートはおとなしく足を持ち上げていてくれて、蹴飛ばされないかとひやひやせずにすんだ。
消毒作用のある薬草を張って包帯を巻き、グレースは馬房から出た。
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