お見合いのち、溺愛~副社長は花嫁を逃がさない~

雨宮れん

第一章 お見合いなんて未経験 (2)

(それが、なんで二股をかけられて振られるかなあ)
 軽く頭を下げて鈴を鳴らす。今日はやけに力を入れて鳴らしてしまった。
 えいやっと財布から取り出したのは、新品の千円札。
 三つに折ったそれを賽銭箱に放り込み、二礼して二度手を(たた)く。
「今度は、誠実な人と出会えますように……本当によろしくお願いします。お願いしますね?」
 手を合わせて、声に出して繰り返す。しんと静まり返った人気のない境内に、沙友里の声がむなしく響いた。
 季節の行事だけではなく、人生の節目に何かとお世話になってきた泉神社。
 受験の時には合格を祈願し、就職シーズンは内定ゲットを祈願した。
 大学は第一志望の大学に無事に合格し、留年することなく卒業。就職活動も苦労はしたけれど、第一志望だった蛯澤(えびざわ)フーズに入社することができた。
 今のところ(かな)わなかったのは──恋愛成就だけ。
 長い間、手を合わせていたけれど、大きく息を()いてからくるりと振り返る。
 真面目にお祈りしていたのは、ちょっとどうかと思いながら──それでも。
 子供の頃からの習慣どおりに行動しただけで、ほんの少し気が楽になる。
(……結婚してから不倫されるより、ましだったよね)
 まだ、拓真のことは両親にも紹介していなかった。そうなる前に彼の本性がわかってよかったのだ、きっと。
 神社を去る沙友里の足取りは、上ってきた時と比べて少しだけ軽くなっていた。

◇ ◇ ◇
 沙友里の勤務先である蛯澤フーズは、飲食店経営を核として、他社のレストラン向けに下ごしらえした食材を卸す事業なども展開している企業だ。
 会社の規模としては中堅どころだが、堅実な経営をしている企業でもあり、業績は順調。
 拓真と中村の浮気現場を目撃してから十日後の月曜日。出勤した沙友里は、いつものとおり、自分の席で仕事をしていた。
 沙友里と中村の所属している総務部は、備品の管理や発注、社内環境の整備などを主な業務としている。沙友里は総務部の中でも、主に福利厚生に関する仕事を担当することが多い。
「中村さん、この書類、これでいい?」
 近くから聞こえてきた馴染(なじ)みのある声に、ぴくりと身体が反応する。
 肩に力が入って、全力で視線を目の前のディスプレイに集中しようとするけれど、無視することができない。顔はディスプレイに向けたまま、ちらりと視線だけを向ける。
 座っている中村の(そば)に立った拓真は、彼女のほうに上半身をかがめていた。
「ああ、保養所の利用申請ですね? ここに課長の印をもらってきてください。あとは大丈夫です」
 中村の()びを含んだ声に、沙友里の心はざわざわとささくれ立つ。
 その気持ちをごまかすように、目にかかりそうになっていた前髪を手で払った。
 今日は寝坊して時間がなかったから、バレッタで一つにまとめてあるだけで、髪型のアレンジはしていない。我ながら、女子力の低下はいなめない。
 それに引き換え、中村のほうは今日もばっちり決めている。
 明るい色合いのニットに、ふわっとした軽やかなスカート。くるんと巻いた髪をシュシュで緩く束ねている。たぶん、退社時には解いて鏡の前で巻き直すのだろう。
 そんなどうでもいいことを考えながら、聞こえてくる拓真と中村の会話に、かすかに眉をひそめた。
(……こっちがいたたまれない気分になるのは、どうかと思うんだけど!)
 なんてぼやいても仕方ない。彼と別れたとはいえ、そこは同じ社内。
 振られてから十日がたつというのに、二人を間近で見るたびに胃のあたりがよじれたような気分になるのだ。
 職場に来れば、どうしたって二人の姿を目撃することになってしまう。
 中村のところに保養所の利用申請書を持ってきた拓真は、書類を手にしたまま立ち話を始めた。聞き耳を立てているつもりはないのに、彼らの声が耳に入ってくる。
「いい時期ですよね。お花も綺麗(きれい)だし」
「先方も楽しみにしてるんだよね。それで、近くの温泉にも入ろうと思っていて」
 妙に二人の距離が近いのも、拓真の手が中村の肩に置かれているのも、沙友里の座っている位置から見えてしまう。
(仕事、仕事!)
 自分に言い聞かせて、強引に視線をディスプレイに戻す。
 沙友里が開いたファイルは、名刺の発注依頼書だ。本社の全員分の名刺を総務部で一括発注しているので、数を間違えないようにしなくてはならない。
 それなのに、取引先の誰を一緒に連れて行くだの、ゴルフをやらない代わりにバーベキューをするつもりだなどと、拓真と中村の声は嫌でも沙友里の席まで聞こえてくるため集中できない。
 営業部所属の拓真はマメに取引先に顔を出し、仕事を越えたところでの交流も積極的に行っている。もちろん先方だって拓真に厚意がなければ、社外でまで友人に近い付き合いをしようとは思わないだろうから、やり手と言えばやり手なのだろうけれど。
(取引先の接待で保養所を使うんだ……。バーベキューの準備、保養所ではやってくれないんだけど、把握(はあく)してるのかな?)
 バーベキューの食材は、地元のスーパーにお願いすれば保養所まで配達してくれるが、食材や飲み物の注文は、自分で行わなければならないのだ。
 付き合っていた頃、そういったこまごまとした仕事に沙友里が手を貸すことも多かった。同じ会社だし、彼氏の役に立てると思えば嬉しかったから。
「やだ、ちょっとしゃべりすぎましたね。じゃあ印をもらって、もう一度提出してください」
 印をもらうのは毎回のことなので、今さら忘れているとも思えない。中村と話をするための口実なんだろう、きっと。あきれた気持ちで、つい視線を向けてしまう。
「悪い。午後に再提出するよ」
 そう言った拓真は、中村のほうにさらに身を寄せ、耳元で何かささやいてから急ぎ足に立ち去る。
 頬を赤らめて拓真の後ろ姿を見送る中村の姿に、沙友里は小さく首を横に振った。
(拓真も中村さんも、ちょっと浮かれすぎなんじゃない)
 中村と沙友里は同期入社だが、沙友里は大学卒業後、そのまま新卒で入社。中村は二年ほど派遣社員を経験してからの入社ということで、彼女のほうが年上だ。
 そのせいか、中村は沙友里を軽んじる傾向にあって、彼女と一緒に仕事をする時には、何かと気を使わなければならない関係でもあった。
「……危なかった」
 二人に気を取られ、危うく名刺を千枚発注するところだった。ゼロ一つで大問題。慌ててゼロを一つ削る。
鍛冶(かじ)さん、ちょっといい?」
 課長の大林(おおばやし)に呼ばれ、返事をして立ち上がる。
 立ち上がりついでに中村へと目をやったら、こちらに向けてわざとらしく口角を上げたところだ。
(やっぱり、無神経だ)
 あの別れの日から何度も同じような光景を見せつけられているので、だいぶ神経を削られている。二人が一緒にいる姿を()の当たりにするたび、心がギシギシと(きし)む音がしていた。
(会社、辞めようかな……)
 そんな考えが、ふと頭に浮かんでしまう。
(別に拓真に未練があるとか、そういうのじゃない……とは思うけど)
 あのまま拓真と付き合い続けていたところで、遅かれ早かれ二股なり浮気なりが原因で別れは訪れていただろう。
 それだけではなく、あの時ぶつけられた「重い」という言葉が、ずっしりと心にのしかかっていた。

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