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御曹司の溺愛エスコート

若菜モモ

第一章 懐かしい場所 (3)

 日本に来たことを思い出し、弾かれたように起き上がった。

「どうしてわざわざ……?」

「一応医者なんでね。具合の悪い者がいたら、ずにはいられないだろう」

「具合は悪くないです」

 立っている蒼真に見下ろされる形で落ち着かなくなり、緩慢な動作で立ち上がった。だが、肩を押されて簡単にベッドに座らされる。

「きゃっ」

 驚いている桜の手首に、蒼真の指が当てられる。腕時計を見ながら、彼女の脈拍を確認している。

「脈は少し速いが、具合が悪くないのなら下で夕食をとれるな」

「蒼真兄さま……聞いてほしいの。あのときのことを……」

 冷たい瞳を向ける蒼真に、桜は衝動的に懇願した。

「やめてくれ、忘れたいんだ」

 三年前、蒼真の弟、のぞみは別荘のきゅうしゃで死んだ。燃え盛る炎の中で。

「でもっ!」

 そのとき、一緒にいたのは桜だった。

「やめろ! 聞きたくない」

「でも聞いてほしいのっ!」

 悲痛な思いで、桜は大きな声を出していた。

「桜、シカゴに行ってから変わったね? 昔は従順だったのに。それに、そんな大きな声も出さなかった」

 桜の唇に、蒼真の指が触れる。

 ただそれだけなのに、桜は木の葉のように身体が小刻みに震えてしまうのを止められない。

「やめてください……」

 彼の指を避けようと、顔を背ける。

「桜……」

 蒼真は桜の髪に手を伸ばした。

 桜が自分で切ったせいで、今の髪形は少し雑だ。そこを見られているようで、桜は恥ずかしくなる。

「夕食はいりません……出ていってください……」

(あのときの話を聞いてくれないのなら、ここにいてほしくない)

 三年前、望が亡くなるときまで、蒼真と桜のふたりは恋人同士だった。二十六歳の蒼真。十八歳の桜。そして同じく十八歳の望。

 年の離れたふたりの恋は、誰にも内緒だった。ふんわりとした甘酸っぱい恋。

 しかし、秘密にしていたのに、あるとき望に知られてしまう。

 望がふたりのことを知ったのは、蒼真がオーストラリアへの出張を翌日に控えた夜。事故の一週間前だった。

 明日オーストラリアに飛ぶ蒼真との別れが寂しくて、居心地のいい彼の部屋から、なかなか自室に戻れなかった桜。唇に触れるだけのキスを交わしたり、抱き合ったりしていたふたりを、望は見てしまったのだ。

 そしてあの事故の日、桜を好きだった望は、彼女の身体を奪おうとした。

 桜が望に別荘へ誘われたのは、蒼真を見送ったあとで、喜んで了承した。蒼真がいない東京は寂しくて、別荘へ行けば気が紛れると思った。

「……三年経ったというのに、お前はあの頃と同じだ。いや……あの頃のほうが大人びて見えた」

「話を聞いてくれないのなら、出ていってください」

「脈がさっきより速くなった」

 桜の手首はもう一度、蒼真の手にそっと握られていた。

 脈が速くなるのは当たり前だ。桜は今でも蒼真のことが好きなのだから。

(シカゴにいる間、どれだけ会いたかったか……)

 けれど今、会う機会ができたのは、蒼真の婚約披露パーティー。

 美沙子は、ふたりのお互いの気持ちを知っていた。望が知ったようにではなく、ふたりの雰囲気を見て勘づいた。蒼真が桜をわいがる様子は、いとこへの感情を超えているように見えたのだ。

 事故後。日本に一時帰国していた蒼真は、葬儀を終えオーストラリアへ戻った。向こうで担当した患者の体調を診てから、またすぐ日本へ帰る予定で。

 しかしその不在中に、桜がシカゴへ行ってしまったと知ったときは『なぜ行かせた』と怒りをあらわにした。そのあと、桜を忘れようと、休みも取らず仕事に打ち込んでいたのも、美沙子は母親としてわかっていた。

 美沙子に冷たい目で見られようが、意地悪されようが、桜が今回日本へ来たのは蒼真を吹っ切るためだった。

「手を離してください」

 ブルーグレーの瞳が冷たく見えるように、蒼真をにらむ。

「桜、お前が帰ってこなければよかった……」

「私も帰ってきたくなかった」

 想いを断ち切るために、はるばる日本へやってきたのだが、彼への恋心は消えない。

(大好きな人の婚約をのこのこと祝いに来るなんて、バカだった……これ以上、顔を合わせていられない)

 桜は蒼真の手を振りほどくと、横をすり抜けてバスルームに入り、鍵をかけた。

 涙にかすむ目で、鏡に映る自分を見る。

(なんてみじめな顔をしているんだろう……蒼真兄さまの言う通り、帰ってこなければよかった……。日本に戻ってきて、余計につらくなった)

 シカゴで生活するだけで精いっぱいの桜。親しい友人もいるが、心の隙間を埋めてはくれない。

(もはや私と蒼真兄さまの生活は差がありすぎる。ここにいたくない……幸せなふたりを見たくない……明日帰ろう)

 幸いなことに、美沙子から送られてきた航空券は、席が空いていればいつでも乗れるものだった。

 涙でれた顔を冷たい水でバシャバシャと洗い、バスルームから出た。

 部屋に戻ると蒼真はいなかった。もちろん、いてほしくなかったが。

 ふとベッドの枕元に光るものを見つけた。

 小さなクリスタルガラス製の、桜の好きな動物だった。

「コアラ……」

 それは手のひらにコロンと乗るほど小さいものだ。

 三年前の事故の前日、オーストラリアに出張する蒼真に『お土産みやげはなにがいいか?』と聞かれ、桜は『コアラ』と答えた。あのとき、彼は笑って『本物は持ってこられないな』と言った。

 過去を思い出してしまった桜の目から、せっかく止まった涙が再びあふれだす。

 小さなコアラを握り、力なくベッドの上に倒れ込む。

 シカゴのアパートメントに飾られている数点のクリスタルガラス製の置き物は、すべて蒼真からのプレゼントだ。

(あのときのお土産を置いていくなんて、ずるい……)

 時差ボケのせいか、蒼真のせいか、そのあと桜に眠気は訪れなかった。


 屋敷内で働くメイドたちの足音が聞こえてきた。

 今は朝の五時。眠れない一夜を過ごした桜は、これ以上ベッドの中にいられず、ニットのアンサンブルとスカートに着替えた。

(少し歩いてこよう)

 シカゴに帰る前に、思い出の街を歩きたくなったのだ。

 一階に下りると、南条が新聞にアイロンをかけ、綺麗に折りたたんでいた。

「桜さま、おはようございます。お早いですね?」

 彼が優しい笑みを浮かべる。

「はい。目が覚めてしまって」

 赤くなり少し腫れた桜の瞼を見ても、南条はなにも言わなかった。

「お屋敷のまわりを歩いてきます」

「おひとりで大丈夫でございますか? この近辺はマンションなどが建ったので、三年前とは変わっておりますよ?」

「ちょっとぐらい様変わりしていても大丈夫です」

 心配する南条に桜はにっこり笑うと、ショルダーバッグを斜めにかけて出ていった。

 都内の一等地にある秋月家の敷地は広い。邸宅から少し離れた場所に、住み込みのメイドのための別棟も有している。

 玄関を出て歩くと、大きな門がある。その横の通用門を開けた桜は、辺りを見ながらゆっくり歩き始めた。

(この道は、部活で遅くなったときに迎えに来てくれた蒼真兄さまと歩いた道。……どこを見ても蒼真兄さまのことを考えちゃう。シカゴにいれば、たまに思い出すだけで済んだのに……)

 日本へ着いてから、常に蒼真に心を囚われている自分が弱くて嫌だ。

 ――プップー!

 クラクションの音にハッとして端に退くと、車が桜の横を通っていった。

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