焦れきゅんプロポーズ~エリート同期との社内同棲事情~

水守恵蓮

サヨナラ (2)

 智美は皮肉たっぷりに言いながら、勇希に負けず、深いため息をつく。無言で彼の横を擦り抜けると、リビングに戻った。

「おい、智美……」

 追いかけてくる声は無視して、リビングを通りすぎ、その奥の寝室に進んでいく。

 大きなクローゼットを開けると、上の棚から旅行用のボストンバッグを引っ張り下ろした。その中に、手あたり次第に服やら下着やらを突っ込み始める。

「智美って」

 後から入ってきた勇希が、慌てたように智美の手を止めた。

「なにやってんだよ」

「実家に帰らせていただきます」

「バカか。お前の実家、ながだろうが。毎日新幹線通勤する気か」

 智美はそれ以上言い返さず、ただ一度、ギロッとした目を勇希に向けた。掴まれた手を振り解き、荷造りを続ける。

「……どこ行くつもりだよ?」

 止めるのはあきらめたのか、勇希は傍らに突っ立ったまま腕組みして、智美を見下ろしていた。

「勇希に関係ない」

「関係なくないだろ」

「勇希はお仕事で毎日忙しいんだから。私の心配なんかしてる暇もないでしょ」

 言葉のすべての揚げ足を取り、頑なに背を向ける智美に、勇希は小さく浅い息を吐く。

「……じゃ、勝手にしろよ」

 ひと言短くつぶやくと、背を向け、寝室から出ていってしまう。

 智美は一度振り返って彼の背を見送ってから、再び手もとに視線を落とした。

(なによ……)

 勇希はきっと、いつものことだと思っているんだろう。

 付き合ってもうすぐ丸六年。こんな喧嘩、最近は日常茶飯事だ。

 だから、ここは一度引いた方がいいとわかっている。

 このまま出ていっても、せいぜい一週間が限界。頃合いを見て勇希が迎えに来て、智美を連れ戻す。

 そうやって今まで、何度も仲直りして、結局ふたりは六年も一緒に居続けた。

 今回も同じパターン。勇希はそう信じて疑いもしないんだろう。

 智美はそれが悔しくて唇を噛んだ。

 いつもいつも……どんなに激しい喧嘩をしても、『どうせ戻ってくる』と高をくくっているのが腹立たしい。

 同じ会社に同期として入社して、その夏から付き合い始めて三年。『一緒に暮らそう』ということになって、さらに三年。

 そうして二十代のほとんどの時間を一緒に過ごし、お互いもうすぐ二十九歳になる。社内恋愛だから一応秘密にしていても、あまりに付き合いが長いせいで、同じ部署の同僚には暗黙の了解で知られている。

 先輩や同期、そして時には後輩も。晴れやかな表情で結婚を報告する同僚を、智美はこれまで何人見てきたか。その誰もが、どこかしらのタイミングで、『潮崎さんは?』と勇希との結婚を探ってきた。智美には急ぐつもりはなかったけれど、少し前から、母親にもチクチクとプレッシャーをかけられるようになっていた。

 家を出てとうきょうで仕事をする娘を心配しているのは、智美にもよくわかる。両親からすれば、もうすぐ三十に手が届くというのに、長年付き合っている彼と結婚もせず、ダラダラと同棲する娘の将来が不安でならないのだろう。

『そろそろ、智美の花嫁姿が見たいわねえ』

『そのうち、そのうちって……もう付き合って何年なのよ』

 ――と、遠回しに探ってきたり、これ見よがしにあきれ果ててみたり、忙しい。

 それをいつも同じ言葉ではぐらかし笑い飛ばし、電話やメールを切り上げるのも、智美は最近、苦痛に感じていた。

 確実に、両親は『そろそろ結婚』を期待している。

 しかし当人同士の間では……〝結婚〟なんて話題に上がるどころか、時間が経つごとに恋人同士という意識が薄れていく、そんな状況なのだ。

 とくに同棲を始めてからは、勇希は『一緒にいるんだからいいだろ』と休日にデートをしたがらなくなった。惰性のように、なんとなく習慣でしていたセックスも、最後にしたのは三ヵ月前だ。

 恋人同士なのに触れ合いもなく、ただの馴れ合いのような関係に成り下がってしまっている。

 ふたりの関係が急速に悪化し始めたのは、半年前、勇希が新しいプロジェクトのリーダーに抜擢されてからだ。

 張り切った彼は、家にも仕事を持ち帰り、話しかけても生返事を繰り返すようになった。ついには智美も声をかけなくなり、ふたりの間の空気は冷え切って、いつの間にかくっきりした溝ができていた。

(来月でもう七年目になるのに。こんな状態で続けても、いいことなんかない)

 ついこの間、電話で母親に言われた言葉が、智美の胸をよぎる。

『いい加減、自分の未来を現実的に考えたら?』

 七年目を迎えようとしている今。まさにそのときなのかもしれない――。

 パンパンに膨れ上がったバッグを提げて、智美はリビングに足を踏み出した。組んだ腕を枕にして、床にゴロンと寝そべる勇希の横を、これ見よがしに通りすぎる。

 廊下に向かいながら、智美は一度ピタッと足を止めた。

 そして、大きく振り返る。

「別れよう。勇希」

 深呼吸して、静かに言った。

 それを聞いた勇希は、寝転んだまま、ピクリと眉を寄せる。

「じゃ。さようなら」

 再び背を向けた智美の背後で、勇希が起き上がった。

「ちょっ……待てよ、智美」

 智美もあまり聞いたことのない焦ったような声色で呼び止めながら、勇希が廊下に出てくる。

「荷物はそのうち取りに来ます」

 そう言って玄関に踏み出す智美の肩を、勇希がうしろからギュッと掴む。

「別れるって。……本気で言ってんのか?」

「サ・ヨ・ナ・ラ!」

 智美は玄関で靴を履きながら、一音ずつ区切って言い放った。肩を掴む勇希の手を、身をよじりながら払いのける。

 絶句している勇希に背を向けたまま、智美はドアを開けて外に出た。しっかりと遮断するように、バタンと大きな音を立ててうしろ手でドアを閉める。

 閉じたドアを一度だけ振り返り、大きく肩で息をした。

 すぐにまっすぐ前を向き、智美はマンションを後にした。


「まったく……。あんたたち、ほんとに喧嘩するの好きだよね~」

 あきれて笑うしかない、というような口調。反論したい気持ちはヤマヤマだったけど、智美はグッと堪えて膝を抱え込んだ。

 マンションを出た智美が転がり込んだのは、こういうときの常宿、同期のしまの部屋。前回転がり込んでから、実に一ヵ月ちょっとしか経っていない。

(喧嘩するのが好きなわけないじゃない。喧嘩なんかしたくないに決まってるじゃない)

 心の中ではそう反論しても、智美が強気に出られるわけがない。なんせこの半年、佳代には迷惑をかけまくりなのだ。

「なんか、もうリピーターみたいだよね。そんなにうちの居心地がいい?」

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