御曹司と偽装結婚はじめます!

佐倉伊織

子猫と一緒に拾われました (3)

「あっ、いえ……。すみません、お願いします……」

 彼の大きすぎるジャージでは、とても外を歩けない。

「その前に、ほら。猫も大事だけど、雨宮さんも水分を取っておいたほうがいいよ。まぁ、人間なら診られるけどね」

 香川さんはキッチンに行って、ミネラルウォーターを私に取ってきてくれた。

 そして今度は別の部屋に行き、救急箱を持ってすぐに戻ってくる。

「そこに座って」

 大きな革張りのソファを指差した彼は、私を座らせるとすぐに膝を確認している。

「傷は浅そうだ。すぐに治るだろうけど、念のために消毒するよ」

 彼にそう言われひどくしみることを覚悟したのに、それほど痛くはなかった。

「あとはこれを貼っておくといい」

「ありがとうございます」

 彼は私にばんそうこうを貼ると、すぐに立ち上がった。

「他に痛いところは?」

「ありません」

 ケガは膝だけで済んだようだ。

「それじゃ行ってくる」

「よろしくお願いします」

 彼は私の手の中の子猫の頭を撫でてから、出ていった。

 会ったばかりの人の家に転がり込むなんて……とは思ったけれど、香川さんはとても優しい人だった。

「いい人に出会えたね」

 彼と出会えなければ、この子を抱いておうおうしていたところだ。

 ちょっと元気のない子猫を抱きしめて温めていると、張りつめていた気持ちが緩んで、どっと疲れが出てきた。

「ちょっとだけ……」

 子猫を抱いたまま、ソファに横たわる。彼を買い物に行かせておいて失礼だとは思ったものの、疲れにはかなわなかった。


「……あっ」

 そのままウトウトしてしまった私は、「ミャー」という猫の鳴き声で飛び起きた。

 手の中にいたはずの子猫がいなくなって慌てていると、「寝ててもいいよ」と香川さんの声がする。体にかけられていた毛布も、彼が用意してくれたのだろう。

「いえ、すみません」

 床にあぐらをかいて子猫にミルクを与えている彼の横に慌てて行った。

「飲んでる!」

「猫用のミルクを買ってきた。元気になって食べられるようになるまでは、これを飲ませるといいらしい」

 小さな哺乳瓶からおいしそうにミルクを飲む子猫が、もっととせがむように、ときどき前足を出してくるのがたまらなくかわいくて幸せな気分になる。

「雨宮さんも、あげてみる?」

 香川さんはそう言うと、子猫を私に抱かせてくれた。

「かわいい……」

「とりあえず動物病院に連れていくのがいいそうだ。日曜日でも診てくれる病院を聞いてきたから、明日、連れていかないとね」

 なにからなにまで……本当に申し訳ない。

 ひとりではこんなにテキパキとできなかった。香川さんがいてくれてよかった。

「雨宮さんは家族と住んでるの?」

「いえ、就職してからはひとり暮らしです」

「そっか。それじゃあ、今日は泊まっていく?」

 彼のひと言に頭が真っ白になる。

「どうせコイツが心配で眠れないだろ?」

 彼は子猫の頭を撫でながらそう言う。

 たしかにその通りだけど、猫だけじゃなく私までというのはさすがに気が引ける。

「でも、申し訳ないので……」

「車のシートが濡れているから送ってやれないんだ。明日には乾くだろうから……」

「送っていただくだなんて、そんな」

 そんなことまで気にしてくれている彼に驚きつつ声を上げると……。

「さすがにこんな夜にそんな格好の女の子をひとりで放り出せない。それに明日病院に行くだろ?」

「はい」

 もちろん、子猫を拾ったのは私なんだから、私が連れていくつもりだ。

「明日、仕事が休みだし一緒に行くから」

「いいんですか?」

 彼は私の手から哺乳瓶を取り上げ、「もう寝そうだ」とつぶやく。

「ホントだ」

 お腹が満たされて眠くなったのか、子猫はすでに目を閉じている。

「コイツ、かわいいしね」

 彼がそう言いながら子猫の顔を覗き込むと、私との距離が自ずと縮まり、ドキドキしてしまう。

「ここに寝かせよう」

 彼は私から子猫を受け取り寝室に連れていくと、その片隅にブランケットを敷いて子猫をそっと下ろした。十畳以上は軽くあるかと思われる寝室の真ん中には、クイーンサイズくらいの大きなベッドが置かれていた。

 子猫は一旦目を開きかけたものの、余程疲れているのか再び目を閉じる。

「ここなら、なにかあったらすぐに気づける」

「すみません、よろしくお願いします」

 私はソファでも借りて……と思っていると、彼が首を振る。

「雨宮さんがここで寝るんだ。俺は昨日の夜からさっきまでずっと働きづめでぐっすり寝ちまいそうだから、コイツの異変に気づかないかもしれない」

「そんなことできません。私はソファをお借りします。この子も連れていきますから」

 慌てて子猫を抱き上げようとすると、彼に止められてしまった。

「顔色が悪い。風邪のひき始めかもしれない」

 だから、私をベッドに寝かそうとしてくれているの?

「医者の言うことは、もちろん聞くよね」

 彼は突然を強めたものの、その言葉には優しさが詰まっていた。そう言われれば、私がここで眠るしかなくなるからだろう。

「でも……」

「『でも』じゃない。あとひとつ、忠告。男は基本オオカミだ。知らない男の家にホイホイついていかないほうがいいよ」

 彼はそう言い残して、部屋を出ていってしまった。

 彼の言葉に頭を殴られたような気がしたけれど、その通りだ。香川さんがいい人でなければ、私は今頃……。

 友達によく『雛子は恋愛経験値がまったく足りてない』と言われるけれど、こういうことも含まれるんだろうな。

 猫を助けてくれようとした時点で、彼を信じてしまった。いや、実際いい人だったけど……。

 フカフカのベッドに座り、反省タイム。私はどうもすぐに人を信じすぎるらしい。

 社会人になってすぐ、取引先の男の人に『母親が入院していてお金が必要なんだ。来月必ず返すから』と言われてそれを信じた私は、お金を貸しそうになった。寸前で借金の噂を耳にして回避できたけど、まさかそれが嘘だなんて思ってもみなかった。

 恐らく、今日の披露宴のときのように男の人とうまく話せないのも、信じる信じないの境界線をどこで引いたらいいのかわからないからだと思う。本当は疑ったりしたくない。でも、悪意を持って近づいてくる人がいることも知ってしまった今、ビクビクして相手の話が終わるのを待つだけになってしまった。

 それなのに、香川さんの子猫を見る目があんまり優しかったから、なにも考えずにまた信じてしまった。今回は結果としていい人だったから助かっただけだ。

 ちっとも成長できない自分に溜め息が出る。

 こんな私も、いつか博美みたいに愛する人とゴールインできるんだろうか。

 今日の博美は本当に幸せそうだった。旦那さまとときどきアイコンタクトをして気持ちを通わせていた姿は、うらやましいとしか言いようがなかった。

「ねぇ、私どうしたらいいのかな……」

 子猫には難しすぎる質問に、耳をピクッと動かして返事をするので、笑ってしまう。

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