御曹司と偽装結婚はじめます!

佐倉伊織

子猫と一緒に拾われました (1)




御曹司と偽装結婚はじめます!


子猫と一緒に拾われました


「よく降るなぁ」

 土曜の今日は結婚式だった。憧れのジューンブライドではあるものの、この時期は雨が多い。なんとか式の間は降らずに済んだけれど、帰りは大雨になってしまった。

 この日のために購入した濃紺のワンピースは、傘をさしていても降り込んでくる雨に濡れて台無しだ。それだけではない。肩下十センチほどのストレートの髪を、今日は丁寧にコテで巻いてゴージャスにしたのに、この湿気のせいで取れかかったパーマのようにだらしがなくなってしまった。

 二次会の会場から電車に揺られること約一時間。自宅マンションの最寄り駅にたどり着くと、さっきより一層雨足が強くなっていて、思わず大きな溜め息が出た。

「はー」

 今日の花嫁のひろは大学時代からの友達で、大手電機メーカーで私と同じようにいわゆるOLをしていたものの、結婚を機に寿退社するという。

 最近、同級生の結婚が増え、イヤでも〝結婚適齢期〟というものを意識してしまう。二十七歳の誕生日が目前に迫っているというのに、結婚相手どころか男性とまともに付き合ったことすらない私は、焦りを感じ始めていた。

 入院しているおじいちゃんに、花嫁姿を見せてあげたいんだけど……。

「しょうがないか……」

 私が勤める『みやどうさん』の管理業務部にも独身男性はいるものの、皆彼女持ちだ。会社と家との往復だけの毎日には、出会いのチャンスも転がってはいない。

 今日の主役だった博美が、『二次会で新郎側の友達を捕まえたら?』なんて言っていたけれど、男性との会話が得意ではない私はどうやって話しかけたらいいのかすらわからず、挙動不審になってしまうありさまだった。おまけにせっかく話しかけてもらえても、うまく返事を返すことができなくて相手のほうからフェードアウト。

 せっかくのチャンスをものにできなかった私に待ち構えていたのは、この土砂降り。

「あーぁ、ついてない」

 おろしたての九センチヒールの黒いパンプスはもうびしょ濡れ。天気予報では明日の朝まで激しい雨が続くとなっていたので、雨が止むのを待つわけにもいかない。それに、タクシー乗り場には長蛇の列ができていて、いつ乗れるのかもわからない。

 私は仕方なくかさばる引き出物を持ち直し、家へと続く緩やかな坂道を歩き始めた。

 これだけ強く降ると、もはや傘も役に立たない。スカートは濡れて足にまとわりつき、気持ちが悪かった。

 普段は車の往来が激しい通りなのに、この雨のせいかいつもより車も少ない。こうこうと点けられたヘッドライトが、時折雨粒をキラキラと光らせているものの、心の余裕がない私には到底きれいだとは思えなかった。

 ――ミャア。

「ん?」

 バチバチとアスファルトに叩きつける雨音に掻き消されてしまったけれど、今、猫の鳴き声が聞こえた気が……。

 辺りをキョロキョロ見渡しても、その鳴き声がどこから聞こえてきたのかわからない。空耳だったかもしれないと再び歩きだす。

 ――ミャーア。

 やっぱりいる。この甲高い鳴き声は、恐らく子猫だ。

 こんな雨の中どこにいるのだろうと、再び辺りを注意深く探してみる。

 すると、街路樹の下に幹線道路に向かって足を進めている、両手に収まりそうなほど小さな子猫を見つけた。

「ダメッ。そっち行っちゃ、ダメ!」

 この暗い夜道であんなに小さな猫をドライバーが見分けられるはずがない。

 私は傘を放り出して、走った。

「ダメよ。行かないで」

 目の前の車線にヘッドライトが近づいてくるのが見える。それでも諦めきれずに走り、やっと子猫に手を伸ばした瞬間。

 ――キキキーッ。

 車のブレーキ音が辺りに響き、私は派手に転んでしまった。

「大丈夫!?

 誰かにそう聞かれた気がしてゆっくり顔を向けると、男の人が駆け寄ってくる。

 傘もささずにしゃがみ込んだその人は、かなり背が高く、百八十センチは優に超えていそうだ。彼は二重の切れ長の目を私に向けると、優しく抱き起こしてくれた。

「どこか痛む?」

「いえ……。よかった……」

 痛いかどうか考えるよりも先に、胸に抱えた子猫の無事を確認してホッとする。

「は? なにがよかったんだ。なんで飛び出したり……あっ」

 私の両腕の中の子猫に気がついた彼は、驚いたような声を上げた。

「コイツを守りたかったのか」

「……はい」

「だからって、自分が死んだらどうするんだ?」

「ふぅー」と溜め息をついてあきれ声を上げた彼は、「ケガしてる」と私の膝に視線を送る。

「これくらい、大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」

 本当は怖かった。そのときは無我夢中で、子猫の命を救うことしか考えていなかった。でも、彼の言う通り、ブレーキが遅かったら私が死んでいたかもしれない。

「頭を打ってない?」

「はい、大丈夫です」

 私はそう返事をして立ち上がろうとしたものの、車との距離があとほんのわずかだったことを知った瞬間、急に恐怖が襲い、足が震えて立つことができない。

「あれ……」

 必死に何度も立とうと試みたのに、どうしても足が言うことを聞かない。すると、その様子を見た彼が、「仕方ない」と私を軽々と抱き上げ、自分の車に戻っていく。

「あっ、あの……大丈夫ですから」

「大丈夫って、立てないじゃないか。いいから子猫を離さないで」

「……はい」

 彼は自分の服が汚れるのも気にせず、おまけに高そうな車のシートが濡れることすら気にせず、私を助手席に乗せてくれた。

 そして、転がっていた私の荷物を取ってきてくれると、自分も車に乗り込んだ。

「すみません。こんなに濡らしてしまって」

 とっさに飛び出してしまった私が完全に悪い。それなのに彼は親切にしてくれる。

「んー、これしかないけど」

 彼は後部座席に置いてあったハンドタオルを私に渡してくれる。

「すみません。本当にありがとうございます」

 私はそのタオルを受け取り、手の中で震えている子猫を包んだ。

「あっ、はは……」

 すると彼は途端に笑いだす。

「どうかされました?」

 私が首を傾げると「普通、自分を拭くもんだよ」と言われ、ハッとした。

「あっ、ごめんなさい。猫に使ったら失礼ですよね」

 私が慌てて謝ると、彼は再びクスクス笑い「そんなことない」と子猫の頭を撫でる。

 よかった。怒らせてしまったかと思った……。

「家はどこ?」

「もう少し坂を上ったところにあるマンションです。でもペットは禁止で……」

 つい最近も、こっそり猫を飼っていた人が追い出されたばかりだ。

「呆れるな。どうにもならないのに……」

「でも、放っておけないでしょ?」

 思わずムキになってそう言うと、彼は「それもそうか」と同意してくれた。

「それに、その脚……。仕方ないから、とりあえず俺の家に行こう」

「あなたの家に?」

「俺、一応外科医なんだ。家に行けば治療できる」

 お医者さまなの? 改めて隣に座る彼を見つめる。すっかり濡れてしまった髪は少し長めで、ほんの少し茶色がかっている。切れ長の二重にスッと通った鼻筋。薄い唇がそこはかとなくセクシーだった。それに、私を軽々と抱き上げたことからも、かなり鍛えられた体の持ち主なのだろう。

 まるでモデルのような外見のこの人が、お医者さまだとは一見誰も思わないはずだ。

「でも、たいしたことありませんし」

さっしょうを甘く見ちゃダメだ。ちゃんと治療しないとのうする。それに、その猫のほうも気になるしね」

 彼はもう一度子猫を撫でると、車を発進させた。

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