若き皇帝は虜の新妻を溺愛する

麻生ミカリ

第一章 (3)

 ──お父さまが、わたしを……

 見捨てたのだ。父は自分を見限った。

 国を守るため、王女としての務めを果たせない不肖の娘を差し出す程度で済むのなら、ランバートとしては一石二鳥だったというのか。

「心配はいりませんわ、エレインさま。ニライヤドの殿方は皆紳士とお見受けいたしましてよ。十八歳にもなって離宮に閉じこもっているあなたでも、国のために役立てるのですから、安心してニライヤド帝国へお向かいなさいね」

 沈黙を破ったのは、継母だった。

 なさぬ仲の娘が人質として大国へ送られることを、彼女は喜んでいるとしか思えない。さすがに王の表情が厳しくなる。

 エレインは、父が何かを言う前に慌てて口を開いた。

「おさま、ありがとうございます。おつしやるとおり、わたしでも国のためにできることがあるのでしたら、謹んでニライヤド帝国へ参らせていただきます」

 ほんとうは怖い。

 縁談ではないかとわずかばかり胸をときめかせたのもつか、今の自分は人質として国を出る羽目になったのだ。怖くないはずがないだろう。

 生まれ育った国を出る日が来るとすれば、それは他国の王族との結婚のときだと思っていた。こんな事態を想像したことなどなかった。

 だが。

 ──わたしがお受けすることで、ヘリウォードの民は救われる。ニライヤドと争うことになれば、多くの者が命を失うのだわ。そんなことになるくらいならば……

 感情が表情に出にくいことを、今ほど感謝したことはない。いつもは、もっと明るい女性になりたいと願っていたものだが、今日は無表情な自分が役に立つ。

「トバイアス殿下」

 まっすぐに黒髪の傲慢そうな男を見つめ、エレインはその名を呼んだ。

「なんだ、泣き言は聞かんぞ」

「此度は皇帝夫妻の不幸、心よりお悔やみ申しあげます」

 静かに頭を下げたエレインのきぬれの音に、謁見の間に集まった者たちは息をむ。

 こんな局面に置かれた十八歳の王女が、泣きも怯えもせずに落ち着いた声音で話す姿は物珍しかったのだろう。

 室内に静寂が満ちていく。

 エレインは、トバイアスを凝視したままで続きを口にした。

「ヘリウォード王国第一王女として、わたくしが貴国へ参ります。よろしゅうございますか?」

 ぜんとした態度に、彼女が病弱ゆえ離宮に暮らしているなど誰も思わない。無論、ヘリウォード王国側の人間は皆知っていることだ。だが、ニライヤド帝国から来た兵士たちの目には、凛とした王女の姿が映っていた。

 あるいは、気の強い女性に見えていたかもしれない。実際のエレインは、今にも逃げ出したいほどに目の前の男をおそれていたのだが。

 ──わたしが、行かなくては。

 彼女を突き動かすのは、第一王女としての矜持ではない。もしも自分では相応ふさわしくないと判断された場合、異母妹のリリーが人質にとられる可能性がある。否、リリーならばまだ良い。王家唯一の男児であるカナンをよこせと言われたら、国は次期王を失う。

 だから、エレインは自分が宮殿から半ば追い出された状態の王女だと気づかれないためにも、王女らしい態度を心がけた。

「……構わん。すぐに準備をさせよ。レナルド、王女を馬車に」

 トバイアスは、彼女のまっすぐなまなざしを受け止めて、若干不快そうに片眉をゆがめる。

「はっ、かしこまりました」

 レナルドと呼ばれた兵が、エレインのそばへ歩み寄った。

「王女殿下、こちらへ」

 その言葉に、今さらながらエレインは言葉を失う。

 人質としてニライヤドへ行く決意はできているが、彼らはこのままエレインを連れていくつもりなのだろうか。

 ──そんな、まだなんの準備もできていないわ。それに別れの挨拶だってしていないのに。

 けれど、絶対帝国ニライヤドの皇帝夫妻をしいぎやくした反逆軍にヘリウォード王国の者が関わっていたとなれば、ことは重大である。こちらから「あと数日後に行くわ」などと言える状況ではない。

 黙したエレインは、兵の案内に従って到着したばかりの宮殿をあとにする。わずかばかりの温情は、侍女長のメリルがニライヤド帝国へ同行してくれること。

 別れの挨拶もなければ、達者で暮らせのひと言もなく、家族と抱き合うどころか異母妹と異母弟の顔さえ見ることなしに、エレイン・ヘリウォードは生まれ育った国を出た。


    ◆ ◆ ◆


 生国を出てから一カ月が過ぎた。

 それは、塔に閉じ込められて暮らす日々が一カ月過ぎたことにほかならない。

 エレインは、窓からニライヤド宮殿のせんとうを眺めて小さくため息をつく。

 通称、惑わずの塔と呼ばれる塔に幽閉されて過ごす毎日は、離宮での暮らしより孤独だった。

 地上七階の惑わずの塔は、円柱型の建物である。ニライヤド帝国の西に位置する宮殿敷地内にありながら、宮殿からは驚くほどに離れていた。惑わずの塔と宮殿の間には、うつそうしげった森がある。そのため、窓から見えるのはわずかに尖塔の先ばかり。

 窓際の椅子に腰かけて、エレインは下ろしたままの黒髪を静かにくしけずる。

 つややかな黒髪は、幽閉生活にあっても何ら変わらず、むしろ少し痩せた白いほおを彩っていっそう美しくさえあった。

「……人質というのは、存外暇を持て余すものなのね」

 ひとりごち、小さく息を吐く。

 離宮に隔離されていたころは、限られた世界に生きていたとはいえそれなりの自由があった。書物を読むこともできたし、中庭に出ることも可能だった。

 けれど、今は。

 この塔の六階と七階だけが、エレインの世界。

 惑わずの塔とは、そもそもが攻め入られたときに王族が逃げ込むための施設として作られたものだという。籠城を目的として建てられた塔は、一階の入り口以外に出入りできないよう、五階までは窓がない。エレインが使用している六階と七階は、室内に階段があってつながっているが、それより下の階は建物の中央にあるせん階段でしか移動できないようになっている。

 しかし、籠城目的に作られた塔はもとの目的のために使われたことはなかったという。

 朝夕の食事を運んできてくれるメリルが教えてくれたことには、実際に惑わずの塔が使用されたのは罪を犯した王族を幽閉する場合のみだったらしい。

 王に反旗を翻した王族は、この塔に幽閉されて宮殿の尖塔を見つめる生活のなか、次第に壊れていく。ここから出られるのは、死してのちだというのだから、自分にも同じ運命が待ち受けているのだろうか。

 エレイン自身は罪人ではない。

 だが、ヘリウォード王国の民が、ニライヤド皇帝夫妻暗殺にかかわっていた場合、その責任は父である王にある。国が、民が、そして父や継母、異母妹、異母弟が、離宮に残してきた使用人たちがニライヤドの軍勢に攻撃される姿など、エレインは見たくなかった。

 ──もとより、わたしは王家のあぶれ者なのだから、ここにいるだけで皆の暮らしを守ることができると思えば、退屈とて痛苦ではないわ。

 あの日。

 ニライヤド帝国に到着するやいなや、エレインはこの塔へ案内された。否、正しくは連れてこられたというべきだろう。

 亡き王の甥であるというトバイアスとは、ヘリウォードの中央宮殿で会って以来、顔を合わせることもなかった。

 弑逆されたニライヤド皇帝には、エレインよりも年下の息子がいたと記憶している。けれど、この緊急時を考えれば皇帝に着任するのはトバイアスかもしれない。

 ──眼光の鋭いひとだった。さぞ名のある騎士なのでしょうね。

 ふう、ともう一度息を吐いて、エレインは椅子から立ち上がった。手にしたくしを窓際の棚に置く。

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