クロとシロの囲い屋敷
八月七日


八月七日
「何かご質問は?」
「はあ……」
問いかける男に対し、つい気の抜けた言葉を返してしまう。
リアクションが気にくわないのか、男はくいっと眼鏡を持ち上げた。銀縁眼鏡にグレーのスーツ、胸元には天秤をモチーフにしたバッジが光っている。気まずさを感じた僕は、額の汗をぬぐいながら、テーブルの隅に置いた名刺へと視線を逸らした。
『久遠法律事務所 久遠昭午』。
僕は顔を上げて、再び男──昭午の顔を見た。
年齢は四十代後半くらい、と思うが自信はない。スーツという鎧は年齢や個性をも打ち消すものなのだろうか。それとも、弁護士というカタガキがそう思わせるのか。目の前にいるにも関わらず、その存在はどこか現実味に乏しかった。
この暑さの中、スーツの上着を脱ぐどころか、汗粒ひとつ顔に浮かべていない。先程からけして暑さのせいだけではない、嫌な汗をぬぐい続けている僕とは、あまりに対照的だ。
「……何か?」
眼鏡の縁がきらりと光る。
「あ、いえ……久遠さん、これは……冗談か何かですか? それとも」
「詐欺ではないか? ということを仰りたいのでしょうが、あなたを騙して、私に何の得があるとお思いで?」
事務的な口調だが、どこかとげのある言い方だ。
「むしろ私があなたにお伺いしたい。芦屋家と縁もゆかりもないあなたの名が、どうしてここに記されているのかを」
彼は、いかにも神経質そうな人差し指の先をトンとテーブルの上の書類に置いた。
その書類──遺言書はあまりにも奇妙な内容だった。
『平成二十四年八月十二日までに、芦屋家長男・犀一郎とその妻沙希、次男・犒次、長女・犁、三男・牽三、横浜在住の作家・竜崎縁、外神田の便利屋・迎玄人と素人を我が屋敷に招集せよ。数多の血と屍の中で沙希が新たな命を産み落とせし時、真の遺産が明らかになる。
昭和五十八年一月八日 芦屋済』
「やっぱり、冗談としか思えないんですが……」
「冗談などではありません。これは芦屋家先代当主・済氏の真筆です」
あくまで事務的な口調で、彼は念を押す。
だからと言って、はいそうですかと納得できる訳がない。
偽造でも悪戯でもないならば、この遺言書は昭和五十八年に記されたことになる。
昭和五十八年──今からちょうど三十年前。
僕が小説家になるどころか、この世にすら存在していなかった頃。
それだけではなく、「平成」という年号まで記載されている。
「遺言書と言うよりは、まるで予言書ですよね?」
口にしてみたが、昭午は何の反応も示さなかった。
僕の名前があることに疑念を抱く彼が、遺言書の信憑性すら覆しかねない箇所を無視するだろうか?
それとも、彼の中ではそれらの箇所は解決済み、だとでも言うのだろうか。
もしかしたら、年号のことは何らかの説明が付くのかも知れない。
だけど……。
「それに、数多の血と屍の中でとか、真の遺産とか、あまりに物騒じゃないですか?」
この一文はどう考えてもおかしい。
遺言書を認めた芦屋済なる人物が、よほどの悪戯好きだとしても、悪趣味すぎる。
その点について、昭午の解釈が聞きたかった。
しかし彼は呆れたような、冷ややかな視線をこちらに向けてきた。
「……何を仰っているんですか?」
「何を、って……」
「血だの屍だの真の遺産だの、そんなことがどこに書かれていますか?」
「どこって、ほら、ここに……あれっ?」
慌てて説明しようとしたが、文面を辿っていた指先が止まった。
あの一節が、どこにもなかった。
『平成二十四年八月十二日までに、芦屋家長男・犀一郎とその妻沙希、次男・犒次、長女・犁、三男・牽三、横浜在住の作家・竜崎縁、外神田の便利屋・迎玄人と素人を我が屋敷に招集し、十二日に遺言書を開示せよ。
昭和五十八年一月八日 芦屋済』
何度読み返しても文面は同じだった。
「竜崎様、あなたは確か、ホラー作家を生業にしているそうですね?」
「ええ、まあ……」
「日頃から構想を練られておられるのでしょう。この奇妙な遺言書を見せられて、想像力が働くのも無理はありませんが……」
また、とげのある言い方だ。
ただ、あの奇妙な一節が存在しなかったことは、覆しようがない事実だった。
「まあいいでしょう。それより、そろそろ……」
彼は腕時計に視線を落とし、次に周囲を見回した。
空席だらけだったテーブルには、いつの間にか親子連れが何組か座っている。ここは担当編集と話を詰めるときや、気分転換などに利用しているファミレスだ。
場所が場所だけに、ランチタイムは賑やかになる。ドリンクバーには夏休み中の子供たちが群がり、席に座る母親たちは、子供そっちのけで愚痴大会を始めている。そして、喫煙席では作業服の男たちが煙草を吹かしながら、ひとときの涼を満喫していた。
その中で、僕たちはあきらかに浮いていた。
昭午はその違いを気にしているのではなく、衆人環視の状況で、遺言書の件を話すことを避けたいのだろう。
僕はそれよりも、このシチュエーションに怯んでいた。平和平凡きわまりない周囲とのギャップが余計に息苦しさを倍増している。
自分でこの場を選んだのだけれど、今はそれを激しく後悔していた。
それに、結局は二択の問題なのだ。
遺言書通りに招待を受けるか、それとも断るか。
今日は八月七日。期限は短い。
だからといって、ぽんと結論を出せるほど簡単な話でもない。
「済様より事前に支度金も預かっております」
彼は内ポケットから封筒を取り出し、テーブルの上に置いた。
無造作に置かれたそれは、ぱんぱんに膨らんでいた。
ごくりと喉を鳴らさなかっただけ、まだ僕の理性は保たれていたのかもしれない。
「もしあなたが拒否された場合でも、これはお渡しするようにと指示されております」
つまり、どっちに転んでも損はないから早く決めろ、という催促だ。
「あの、いや、その……」
窓越しに聞こえてくる蝉の音が、やけに大きく聞こえた。
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