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王子殿下の可愛いお針子 秘め事は塔の上で

秀香穂里

第一章 (3)

 さあ、おなかもふくれたことだし、今度はお店を綺麗にしよう。サロンと玄関は念入りに。

 昨日の仕事が終わった後にきちんと手入れをしているので、朝、慌てることもないのだが、一日の始まりはすがすがしくしたい。

 ほうきでサロン中を掃き清め、今度はぎゅっと絞ったモップで隅々まで拭う。イライザがとてもれいきなので、サロンには糸くずひとつ落ちていない。

 使ったぞうきんをまとめて洗濯室に運んだ。後でこれはまとめておけで洗い、裏手に干す。

 次はお店の玄関を清めるために機嫌よくステンドグラスがはめ込まれた扉を開けて、バケツにたっぷり用意した水を外に向かってえいっと放った──そのときだった。

「──うわっ!?

「え、……っえ、ええええっ!」

 ほぼ同時に声が上がった。まさか、そこにひとが通りかかるとは。

 まだ朝も早く、商店街にやってくる客はいないと思っていたのだ。このへんの店は一様に九時、十時頃から開く。

 もしかして、どこかのお店仲間をずぶれにしてしまったのかと慌て、マリエはマントをかぶっているそのひとの腕を強くつかんだ。

「ごめんなさい! あの! 私がそそっかしくて、まさか濡らしてしまうなんて……」

「……、っ」

 相手は、長身の男性だった。帽子を目深にかぶり、どことなく目をそらしているが、そのマントからは水がぽたぽたとしたたっている。

「中へおいでください。すぐに拭いますから」

「いや、……ぼ、僕はこれぐらい、……平気、だから……」

 その低い声を聞いて、マリエの心臓は大きく跳ね飛んだ。

 なんだろう。この駆ける鼓動はなんなのだろう。

 つややかな黒の絹を思わせる極上の声だった。

 日頃、女性ばかり相手にしているせいで男性に免疫がないマリエは真っ赤になったものの、掴んだ手は離せない。

 自分のうっかりで衣装を台無しにしてしまったのだから、責任を取らねば。

「お願いです。そのままお帰りいただくわけにはいきません。マントを拭うだけも」

 必死に懇願するマリエに、男は困ったふうな顔をしていた。とても背が高いのでひょろりとした印象だが、掴んだ手首はしっかりしている。

 おどおどする男をこのまま帰してしまったら絶対に風邪を引いてしまう。

 素敵なドレスを提供するシュトレン・ドレスには男性物はあいにくないのだが、清潔なタオル類はどっさりある。

「お願い、します。せめて髪だけでも」

 うつむく男の黒い髪が帽子の陰からちらりと見える。それだってやっぱり水をたっぷり含んでいた。

「……じゃあ、……拭う、だけ」

「はい、どうぞこちらへ」

 渋々うなずく男にほっとし、掃除したばかりのサロンへと招き入れ、椅子に座ってもらった。

「まずはお帽子を取りますね。それから、マントも」

 男が目を泳がせながら帽子を取る。それでようやく互いの視線が合い、こんなときなのにマリエの胸はどくんと強く波打つ。

 美しい、ほんとうに美しいアメジストの瞳をしていた彼は、ひどく印象的な目元をしていた。思わず吸い込まれてしまいそうな深い宝石のような両の瞳と、綺麗な鼻筋。物言いたげにかすかに開いたくちびるも形がいい。

 それになにより、彼には気品があった。帽子もマントも、シャツもトラウザーズも黒ずくめなのに、香り立つような気高さが感じられたのだ。

「あ、……あの……」

 もしかして、西側に住む貴族様だろうか。

 領土が狭くても豊かな暮らしが送れるスラシュア国には、代々続く貴族の方々がいる。あまり数は多くないぶん、王家とのつながりが密接で、長い歴史の中ではきさき候補を数人輩出しているほどだ。下町暮らしが肌に染みついているマリエでも、貴族様たちがどれぐらいの権力を有しているか、想像はできる。できるから、青ざめてしまう。

「申し訳ありません。……貴族様、でしょうか? 私がよく見ていなかったから──お許しください……!」

 もし、こんなことでシュトレン・ドレスにまで迷惑がかかってしまったらもうここにはいられない。真っ青になるマリエが深く頭を下げると、男はちいさく、「……いや」と言う。

「……いいんです、……その、僕も注意散漫、だったし……これぐらい、気にしないで」

「でも、……でも。あ、まずはマントを拭いてしまいますね。染みになったら大変」

 なにから始めていいか混乱しっぱなしだが、とにかくここはしっかりしたい。

 男からマントを受け取って作業台に広げ、柔らかなタオルで丁寧に表面を拭く間、手持ちぶさたになってしまう彼のために急いでお茶を淹れた。

「こちらを飲んでお待ちいただけますか。急ぎますので」

「はぁ……」

 男はまだ湿った髪をしながらもぽりぽりと頬をかき、紅茶をすする。

「……しい……」

「ほんとうですか? よかった。お代わりもお持ちしますから」

 品のあるマントは彼の瞳に似た紫の裏打ちがしてある。軽くて、暖かそうだ。思いきり上質な生地を使っていることは指をすべらせればわかる。気持ちのいいマントをいつまでも触っていたいぐらいだけれど、そうもいかない。

 水滴をあらかた拭ったら、トルソーにふんわりとかけて全体を乾かす。

 次は帽子だ。羽根飾りも宝石もついていないシンプルな形だが、男性の美貌をより引き立てている気がする。

 ──素敵なひと……どの貴族様だろう。お名前、聞けるかな。

 ちらりと様子をうかがうと、男もこっちをちょうど見ていた。甲斐甲斐しく働くマリエを物珍しそうに見ている男と目が合うと、相手のほうが先に顔を赤らめた。

 ふわりとそのシャープな頬に赤みが差すのを見たら、なんだか胸が温かくなってしまう。貴族様の服を濡らしてしまったのだから、もっと怒られてもおかしくないのに。

「紅茶、お代わりはいかがですか?」

「あ、う、え、……っと」

 男があわあわとカップを上げかけたときだった。ぐううう、と低い音がマリエの耳に飛び込んできた。

 ──いまの音、なに?

 もしかして、自分のお腹が鳴ってしまったのだろうか。

 急いでお腹に手を当てるのと同時に、男も片手で腹を押さえている。

「……え?」

「あ」

 男とまたも目が合ってしまう。アメジストの瞳がせわしなく動き、恥ずかしそうに伏せられたとたん、マリエは我慢できずに、ふふっと笑っていた。

 バケツの水でびしょ濡れになったばかりなのに、お腹が鳴ってしまう男がなんだかひどく可愛い。

「……う……」

「申し訳ありません、笑ったりして。お腹が空いてらっしゃるなら、ぜひ食べていかれませんか?」

「……い、いや、そこまで世話には……」

「ぜひ。私もさっき食べ終えたばかりです。ご用意できるのは、トースト、たまご料理、フレッシュなサラダにミルクぐらいですけれど」

 またも、ぐううううう、と男の腹が盛大に鳴っている。

 空腹のときに食べ物の名前を列挙されたら誰だってたまらないはずだ。まだ、朝食を食べていないのだろう。だったら、ごちそうしてみたい。

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