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覚醒兵士アレックス・ハンター クウォトアンの生贄

グレッグ・ベック

第一章


   第一章


     現在 南極大陸


 まぎれもなく北米で最も裕福なホテル経営者のひとりであるジョン・〝バック〟・バニオンは、激突する数秒前にU字型のそうじゅうかんから手を離し、金文字で〝バック〟としゅうされたボマージャケットの胸で太い腕を組んだ。エンジンの再始動に失敗し、予備システムの全ランプが立て続けに消えるのを見た瞬間、死を覚悟した。もう一度再始動を試みる時間はないし、この天候で機から空中脱出するなどジョークに等しい。コックピットの表示画面が真っ白になったのを見て鼻を鳴らし、地表が目前に迫っていると高度計が告げているのを知ると、彼は操縦席で最後の「くそったれファックイット」をつぶやいた。

 バニオンは経営幹部たちを慰労するために妻や恋人同伴で南オーストラリアから南極大陸へ向かう日帰り飛行に招待し、プライベートジェット機〈ペルセウス〉を飛ばしてきた。単独飛行はすでに何度か経験している。今回の旅では、バック・バニオンにとって金もうけや十八時間労働以上に心かれるものがあることを、やり手の部下たちに見せたかった。ここにはしょうでエキゾティックな美が存在する。ペンギンなどは動物園に行けば見ることができるが、眼下の大陸には地球上のひと握りの人間しか目にできないものがあるのだ。太陽が水平線上に何時間もとどまって氷原と空のあいだにエメラルドの帯を輝かせる夕景。静止した大気が作り出すしんろうによってあたかも上空百メートルに浮いているように見える氷山群。

 南極大陸と恋に落ちたら最後、いつか手ひどく痛めつけられる──そのことをちゃんとわきまえておくべきだった。大事なことをすっかり忘れていた。彼女はことのほか美しいが、一方で何をしでかすか予測できない相手なのだ。出発前に気象情報サービスを入念にチェックしたにもかかわらず、バニオンは途方もないカタバ風によって不意をつかれた。氷におおわれた大陸はそれを山々と深いクレバスの背後に隠しておき、こちらが十分に接近したところで、いきなり高さ千メートルにまで立ちのぼる風雪の壁として見せつけてきた。

 先ほどまで全方位にわたって数百キロメートル先まで明瞭な視界が確保されていたのに、突如として光が乱れ、雪と氷が吹き荒れる。てつくホワイトアウトがもたらされ、そこでは空と大地がこんぜん一体となって、もはや地平線は存在しない。ほんの数秒で気温が五十度も急降下し、風もにわかに激しさを増した。ホワイトアウトにつかまった場合の対処法を教えてくれるマニュアルなど存在しない。ただ避けるよりほかに方法はないのだ。ひとたび閉じこめられたら、航空機は機能停止するしかない。

 機内にいる十名の乗客はバックほど冷静でいられず、いずれも半狂乱状態だった。客室に響く耳ざわりな音は、ダンテの『地獄篇』で描かれている何かに似ていた。乗客たちは速度と急激な傾斜によって座席に押しつけられ、せっかく摂取したマティーニやカクテルをベルベットのシートに放出している。全長二十一メートルの白い矢は時速八百キロという絶望的な速度で南極大陸の氷床めがけて落下していく。小型だが強力なターボファンエンジンは、白一色の上空に押し寄せる冷気によって停止した。荒涼とした氷原に真っ逆さまに落ちるとき、ほとんど静寂に包まれていた。聞こえるのは、群れからはぐれたユキドリが仲間を呼び寄せる鳴き声と聞きちがえるような高周波音だけ。しかし、それも金属でできた流線型の鳥の表面を激しくたたく暴風の叫びにかき消されてしまった。

 最初の衝撃が来たとき、硬い地表に十四トンの金属のかたまりが激突したというより、寝乱れたベッドに巨大な枕をたたきつけたような音がした。雪と氷の煙が高さ三十メートルまで噴き上がったあと、つややかなジェット機はついに頑丈な岩にぶつかってうつろな衝突音を発し、岩くずや金属破片を空中にばらまいた。機体はガラスに撃ちこんだ銃弾のように氷の大地を突き抜け、地中百メートルの深さに存在していた地下洞窟までいびつで巨大な穴を貫通させた。墜落のごうおんは洞窟の壁や天井に反響しながら、岩から岩へと地下深くまで何キロメートルも伝搬していった。

 地下世界にふたたび静寂が戻った。だが、それはほんのつかの間だった。


 その生き物は水中から身を持ち上げ、大気を探ってみた。洞窟の上のほうから伝わってきた震動によって何世代にもわたって眠っていた種の記憶を呼び覚まされ、混乱を覚えながらも本来のから出てきたのだ。暗黒の世界では静寂に慣らされてきたが、頭上の洞窟から伝わってきた音と震動は興奮をもたらした。生き物はぬかるみが泡立つような音をさせながら、突き動かされるように上部の洞窟へと急いだ。

 音の発生源に到達するにはまだ多くの時間を要するだろう。だが、生き物はすでにかすかなにおいを感知していた。溶融した金属、燃料、それから別の何か──同じ種のほかの個体が数千年のあいだ感じたことのない何か。生き物は大量の粘液におおわれた巨体をすばやく前に動かした。前進を駆り立てているのは飢えによる渇望だった。

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