国王陛下の溺愛王妃

麻生ミカリ

第一章 (3)

 ──出迎えてくれた大臣たちも、大司祭も、それに侍女たちや騎士たちだって、皆とてもよくしてくれている。だけど……

「コーデリアさまのために、こんなに美しいお部屋を準備してくださるのですから、エランゼ国王はきっとすばらしい男性に違いありません。ああ、結婚式までお会いできないだなんて、残念でたまらないです!」

「……ハンナったら」

 道中、あれほど涙を流して夫となるヒューバートを悪く言っていたはずが、まだ当人を見てもいないというのに、ハンナはすっかり考えを変えてしまったようだ。

 侍女のそういうところは、嫌いではない。コーデリアからすると、ハンナは己の心にとても素直なだけだと感じる。

 問題は、与えられた居室があまりにもコーデリアのためだけの空間だったことだ。

 たしかに、今はまだコーデリアはヒューバートの婚約者でしかないけれど、二日後には結婚式を挙げる。その後も、互いの居室が別となるのは珍しいことではない。コーデリアの両親も、宮殿には国王と王妃のための寝室のほかに、父母それぞれの居室と寝室があった。

 そう、これは当たり前のことでしかない。けれど、夫の姿も見ぬままに過ごす日々を想像すると、言い知れない孤独が胸を締めつける。

 気持ちを変えようとコーデリアは、運び込まれた荷物のなかから、蓋付きのレターボックスを出してくれるようハンナに頼んだ。

「ありがとう、ハンナ。あなたも長旅で疲れたでしょう? 夕方まで、わたしも休ませていただきます。下がってだいじょうぶですよ」

 侍女が部屋を辞したのち、コーデリアは長椅子に腰を下ろし、レターボックスの蓋をそっとでる。

 東洋細工の職人が作ったレターボックスは、この大陸では珍しい造りになっている。手紙を差すのではなく箱のなかに置くデザインで、もとはばこと呼ばれるそうだ。

 エキゾチックな文様の刻まれた木の蓋を開けると、嫁入りに当たって母から贈られた一冊の本が目に入る。

 本といっても、それにはタイトルもなければ作者の名もない。母がステーリア王国へ嫁いでくる際、コーデリアの祖母──母の母が準備した本を模したものだ。

 これを手にするとき、コーデリアはかすかな背徳感と高揚感を覚える。紫色の表紙に、金色の縁取り。ステーリアの王立図書館でも決して手に入らない、秘密の指南書だ。

『コーデリア、あなたは今までステーリア王室のすばらしい王女でした。しかし、王女とは娘であることを意味します。エランゼ王に嫁いだのち、あなたは娘ではなく妻となり母とならなければいけません』

 正式に縁談がまとまった日の午後、母はコーデリアを自室に招いてそう言った。

『はい、お母さま。わたしはエランゼ王国の王妃となり、陛下の妻となり、国民の母となれるよう尽力いたします』

 真剣なまなざしで答えた娘を見て、母は頬を緩める。そして、差し出してきたのがこの指南書である。

『十七歳の娘は知らずとも良いことですが、年齢にかかわらず妻となれば夜の作法も知っておく必要があります。これからは、この指南書を読んで勉強をなさい。夜の作法については、夫となるひと以外と学んではいけないものです。けれど、最低限の予習をしておくことも淑女のたしなみ。エランゼ王から愛される后となり、幸せな日々を送ることを祈っていますよ』

 指南書は、原則としてひとりで読むこと。また、見せる相手は夫に限ること。いつか、コーデリアの娘が嫁ぐときには、職人を雇って同じ内容の本を作らせること。

 その三点を命じて、母はコーデリアの手を握った。

 今も、指南書を手にすると母のぬくもりを思い出す。同時に、秘められてきた寝室での夫婦の営みを知る日が近いことを感じて、コーデリアの心臓が小さく跳ねた。

 ──このなかには、夫婦のするべきことが書かれているのね……

 淑女たれ、王女に相応しくあれ、と育てられたコーデリアは、挨拶以外のキスすらしたことがない。三姉妹の末妹で、特に姉ふたりとは歳が離れていたこともあり、周囲に同年代の友人もなく暮らしてきた。侍女たちは、時に恋愛にまつわる話をしていることもあったけれど、娘に余計な性知識が入ることを嫌った王妃が、側仕えには修道院から来た侍女だけをつけさせていた。

 結果、王女としては有能だが、女性として恋愛やそれにまつわる知識をまったく持ち合わせぬまま、コーデリアは結婚することになったのである。

 それどころか、指南書を読むことさえ背徳的に感じるほど、コーデリアは潔癖な娘だった。

 そして、同時に強い罪悪感も覚える。

 性にまつわることを背徳的と思うのに、好奇心を抑えることができないのだ。

 愛するとは、愛されるとは、いったいどんな行為につながるのだろう。考えると、心臓がどくんどくんと大きな音を立てる。淑女たるもの、閨事に関心を持つべきではないとわかっていても、心がはやる。

 十七歳の少女が、性に敏感になるのはごく自然なことなのだが、それが当たり前だということさえ、コーデリアは知らなかった。だからこそ、手にした指南書のページをめくろうとするだけで、自分がいけないことをしている気持ちになってしまう。

 ──いいえ、これはいけないことではないはずだわ。だって、わたしは結婚するのだもの。結婚前の娘が、親に隠れて悪いことをするのとは意味が違う。

 厚紙の表紙に指先をわせ、自分に言い聞かせる。

 意を決して開いた本の一ページ目には、細いペン先でつづられた文字が並んでいた。

 ──我が最愛の娘、コーデリアが幸せな結婚生活を送ることを祈って──

 おもむろにページをめくれば、裸体の男女が並んで立つ絵が描かれている。丸みを帯びた女性の裸身はまだしも、がっしりとした筋肉質の男性の姿に、考えるより早く、両手が指南書を閉じた。

「っっ……! こ、このくらい、結婚するのだから当たり前のこと……!」

 そうは言っても、コーデリアの頬は熟したイチゴのように真っ赤になっている。それもそのはず、大人の男性の裸身など、一度たりとて見たことがない。騎士たちが訓練中に上半身をはだけているのはまだしも、下半身がどうなっているのか、考えるだけで罪深いことだと思って生きてきた。

 ──男女の体は造りが違うというのは知っていたけれど、まさかあれほどだとは……

 一瞬だけ見てしまった裸身絵が、脳裏にしっかり刻み込まれている。乳房がないだけではなく、女性にはない器官が股間から生えていた。

 ──あれを、どうするというの?

 はしたないと思いつつも、少女の好奇心は再度ページをめくるのをとめられない。高潔な王女として育ったコーデリアも、ひとりの女性として肉体は成熟してきている。かすかに下腹部が熱くなったような気がしたが、それがなんの反応を示すかを知らぬまま、指先が未知の世界へとページをかした。

 描かれていたのは白い花。見覚えがある。これは──

「……そう、そういうことなのね」

 羽のある虫は、花蜜を求める。蜜を得ようとすれば、虫の体には花粉がつく。そして、さらなる蜜を求めて花から花へ移動を繰り返すうちに、虫は虫媒花の受粉を行うこととなる。

 ステーリアは、果物の栽培が盛んな温暖な気候の土地が多い。王女といえど、コーデリアは果実の育て方も学んできた。果実とは、たいていの場合が種を残すための媒体である。その果実がなるためには、雄しべから雌しべへの受粉が必要だというのはステーリアの地では子どもたちも知っていることだ。

 ──つまり、人間の夫婦は雄しべと雌しべだということ。先ほど見た不思議な器官が、雄しべだとしたら……

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