くろねこルーシー ~はじめての子育て~
第一章 黒猫と占い師 (2)
何十年も占い師を続けているだけあって、彼女の外見からは相応の貫禄や神秘性が伝わってくる。スーツの上から不格好な黒いマントを羽織っただけの、我ながら貧相としか言いようのない鴨志田とは大違いだ。
──オーラがない、か。
客に言われた言葉を、鴨志田はまた心の中で繰り返した。
「……なによ、さっきから」
ガリンシャが二本目の煙草に火をつけ、挑むような調子で訊いてくる。
鴨志田は先ほどの、彼女と客とのやりとりを思い返した。
「ガリンシャさんって、なんでもはっきり言いますよね」
「あんたね。占い師がはっきり言わなくてどうするの」
「そうなんですけど、なかなか」
相手の気持ちを考えると、思ったことをそのまま口にすることができない。
ガリンシャがあきれたように首を振る。
「もう半年でしょ。師匠に教わらなかったの?」
「お忙しい方ですから」
鴨志田の師匠は占い歴数十年のベテランであり、常に全国各地を駆け巡っている。そういえばこの一ヵ月ほど顔を合わせていない。
鴨志田の気弱な態度が気に障ったのか、ガリンシャは火をつけたばかりの煙草を乱暴にもみ消し、吸い殻入れの中に落とした。
「もっと客に、来てラッキーって思わせなきゃ」
「なるほど、茶柱が立ったみたいな」
吸い殻入れの中で尻を立てた煙草を見下ろしながら言った。
ガリンシャが鼻を鳴らす。
「占いはサービス業なんだから。多少は嘘が混じっても、相手が満足できたほうがいいの。それでお金をもらってるんだから」
「そんなことをしたら、えんま様に舌を抜かれませんかね?」
「あんた、ほんと迷信ばっかりね」
ガリンシャがわざとらしく目をぐるりと回してみせる。
「はぁ」
肩を落とす鴨志田を見かねたのか、ガリンシャが三本目の煙草に火をつけながら言った。
「なんか特徴つけたら?」
「特徴、と言いますと」
「風貌とか雰囲気とか、なにからなにまで普通だもん。もっとキャラ作りなよ」
「キャラ、ですか」
いちおうマントは羽織っているのだが、これでは足りていないということだろう。
「この世界、キャラ立ってナンボよ。あんたも、これでもつけて占い感を出しなさい」
ガリンシャが自分の腕につけていたブレスレットを外し、手渡してくる。
「ありがとうございます」
マントだけのときとそれほど変わらないような気もするが、断るのも悪いので、とりあえず受け取っておいた。
案の定、休憩のあとも客は来なかった。
ショッピングモールに閉店の音楽が流れはじめる。
鴨志田は店を畳み、従業員用のロッカールームへと引き上げた。
「キャラか……」
ロッカーの内側についた姿見を見つめる。剃り残した無精ひげが目立っていた。やはり疲れたサラリーマンにしか見えない。
マントをハンガーにかけつつ、思わず息をついた。
「ため息、やめましょうよ」
「あ、すみません」
背後からの声に、反射的に振り返った。
目の前では茶髪の青年が荷物をまとめている。
「カモさんだけじゃないんですから。悩める個人事業主」
「上条さんもですか」
彼はまだ二十代の半ばらしいが、鴨志田よりも前からショッピングモールで働いている古株だ。小さなスペースで似顔絵コーナーを開いているものの、鴨志田の占いと同じく、お世辞にも流行っているとは言えない。
「恥ずかしながら。──ほら、今日も」
上条は自分のロッカーからスケッチブックを取り出した。ペラペラとページをめくり、中の一枚を鴨志田のほうへ向けてくる。
「これ、わりとうまく描けた自信あったんですけど。素直にやると、なかなか喜ばれないもんです」
ページには中年女性の絵が描かれていた。鼻の下のホクロが印象的で、頬や顎はずいぶんふっくらとしている。おそらく似ているのだろうが、強調すべきでない特徴を強調しすぎた、ということなのだろう。
「どうやったら喜んでもらえるのか、ほんとわかんないです」
上条が首を振りながら言った。
と、廊下へと続く扉が勢いよく開いた。
現れたのはショッピングモールの管理部長、滝沢だ。年齢は鴨志田よりも一回りほど上だろう。今日も茶色いスーツを隙なく着こなしている。
「お疲れ様です」
鴨志田と上条は揃って頭を下げた。賃料を払っているとはいえ、鴨志田たちは「店を出させてもらっている」立場だ。
滝沢は両手をスーツのポケットに突っ込み、鷹揚にうなずいた。
「おっす。今日いくらあがった?」
「……二千五百円です」
思わず目をそらしながら、鴨志田はこたえた。
「一人かよ。あれ、単価三千円だろ?」
「いまキャッシュバックキャンペーンをやってまして……」
少しでも安いほうが客に来てもらえるのではないか。そう考えて導入してみたのだが、いまのところ成果は表れていない。
滝沢がいらだたしげに眉をひそめる。
「バックするほどキャッシュないじゃん。おかしいんだって、サービスのポイント」
「すみません」
「一応、あそこもうちの売り場面積に含まれてんだからさ」
滝沢の視線が上条をとらえる。
「そっちは?」
「うちは、今日は二人……」
「お願いしますよ? ほんと」
滝沢は乱暴に頭を掻きながら出ていった。
扉が強く閉じられると同時に、二人揃って肩を落とした。
空はすっかり夜の暗さに染まっていた。夏の夜風は湿っており、ぬるま湯につかったかのようにまとわりついてくる。
民家からただよってくる料理の匂いを嗅ぎつつ、いつもの路地を歩いた。
と、鴨志田は本能的に足を止めた。薄闇の向こうへ目を凝らす。
思ったとおりだ。街灯が照らす電柱の脇に、きらりと光る二つの点を見つけた。
黒猫は座った状態からのそりと立ち上がった。
「……もう。いい加減にしてよ」
鴨志田はいま来た道を引き返しはじめた。時間はかかるが、また前を横切られるよりはましだ。
「背に腹は代えられないよな」
民家をひとつ回り込み、隣の路地へ移る。
大丈夫、今日はもう不幸なことなんて訪れない──そう心の中で念じながら、鴨志田は夜道を歩きつづけた。
ショッピングモールからバスで十分、さらに徒歩十分ほどの場所に、鴨志田の家はあった。
親から受け継いだ日本家屋だ。庭付き一戸建て、と言えば聞こえはいいが、実際はかなり老朽化が進んでいる。
門に手をかけたところで、荒い息づかいの音に気づいた。見ると、中年の男がきょろきょろと周囲を見まわしながら近づいてくる。
男性は鴨志田の目の前で足を止めた。
「あの、すみません。このあたりで猫を見ませんでしたか?」
「猫?」
「黒猫です。ちょっと太った感じの」
先ほど見かけた黒猫は、言われてみれば太めだったような気がする。
「見ましたよ」
「どこらへんで?」
中年の男性が詰め寄ってくる。かなり切羽詰まっているようだ。
鴨志田は自分が来た道を指し示した。
「あのへんにいたんで、いまちょっと逃げてきて」
「は? 逃げて?」
男性は一瞬、困惑したような表情になったが、またすぐに黒猫のことを思い出したらしい。「あ、ありがとうございました!」と言って頭を下げると、焦った様子で駆けていった。
「ルーシー! おーい、ルーシー!」
どうやらあの黒猫はルーシーという名前らしい。
「ルーシーって……よくあんなもの飼うね」
鴨志田は去っていく男性の背中を見送り、肩をすくめた。
よりによって黒猫を飼うだなんて、自分から不幸を招いているようなものではないか。
引き戸を開けると、包丁がまな板を叩く音が聞こえてきた。玄関にはふだんよりも多くの靴が並んでいる。
妻の幸子と、息子の陽が来ているのだ。
彼女とは半年ほど前から別居している。理由は鴨志田の仕事と収入の少なさだ。
鴨志田が会社をリストラされ、占い師を始めると打ち明けた時点で、彼女は五歳になる息子を連れてさっさと出ていってしまった。いまは息子の陽と二人で、隣町のマンションで暮らしている。
鴨志田は靴を脱いで廊下を進み、台所をのぞきこんだ。