くろねこルーシー ~はじめての子育て~
第一章 黒猫と占い師 (1)



鴨志田賢は薄暗い夜道を歩いていた。
仕事場のショッピングモールから家までの間にある、一軒家の並ぶ狭い路地だ。仕事道具が詰まったバッグを右手に提げ、街灯の下を通り抜けていく。
「──うおっ」
表通りの手前まで来たところで、思わず鴨志田は足を止めた。
黒猫が脇道から顔をのぞかせていた。いまはぴたりと動きを止め、鴨志田のほうをじっと見つめている。どうやら反対側の脇道へ入ろうとしていたらしい。
ただそれだけのことだが、鴨志田にとっては一大事だった。
「横切るな……横切っちゃダメ」
バッグを腋に抱え、手のひらを黒猫のほうへ向ける。
黒猫が横切ると、不吉なことが起こる──。
こうした言い伝えの数々を、鴨志田は昔から強く信じていた。信じて当然だと思う。そこにいくばくかの真実が含まれていなければ、人々の間で広まり、長年にわたって語り継がれたりするわけがない。
「動くなよ……そのまま……」
黒猫は鴨志田のほうを警戒し、わずかに身を低くしている。薄暗がりの中で二つの目が光っている。
いまなら大丈夫だ。
そう思い、鴨志田はそろそろと足を上げた。
直後、黒猫がいきなり動きだした。鴨志田の目の前を素早く横切り、向かいの脇道へと飛びこんでいく。
一瞬の出来事だった。
黒猫の姿は脇道の闇にまぎれ、あっという間に見えなくなってしまう。
──最悪だ。
きっと近いうちに不幸が訪れるだろう。
鴨志田は額に手を当て、天を仰いだ。
「──夫はいらないって言うんですけど、私ももう三十八ですし。ラストチャンスかと思って」
厚化粧の中年女性が目を伏せながら話す。
彼女の肩越しにフードコートの賑わいが見えた。そこそこ混み合っているようだ。昼時なので当然だろう。
それに引きかえ、鴨志田が店を出している占いコーナーは閑散としたものだった。目の前の女性が今日初めての客だ。
「三十八ですか」
鴨志田はうなずき、少しでも心の距離を近づけようと考えて言った。
「僕も同い年です」
「この年までくると、慎重になるじゃないですか」
女性はじっと机の表面を見つめていた。
「石橋は叩きたくなりますからね」
おそらく高齢出産に踏み切るべきか否か、という悩みだろう。たしかに軽々しく決められることではない。
「ここで七カ所目なんです。占ってもらうの」
「叩きましたね、石橋」
それにしても迷いすぎではないか、と思わなくもないが、それだけ本人は深刻ということだ。
女性が話を続ける。
「西洋占星術とか四柱推命とか、タロットカードとか。──あ、あと易者さんも」
「フルコースですね」
古今東西、あらゆる占いに手を伸ばしてみたらしい。
短く息をついたかと思うと、女性は机の上で手を握り締めた。目を見開き、身を乗り出してくる。
「最初から決めてたんです。七つ目の所で言われた通りにしようって」
「まあ、七は縁起がいいと言いますし」
女性の迫力に、思わず身をのけぞらせてしまう。
「それで、こちらはどういった……?」
女性がブース内を舐めるように見まわす。だがこの場には紙とペンが用意されているだけだ。
彼女は鴨志田のほうへ目を戻し、上へ向けた手を差し出してきた。
「手相とか?」
「いや、あの……」
いつもこの段階で苦労する。メジャーな占いではないので、説明してもなかなか理解してもらえないのだ。
「簡単に言うとですね。お話を聞いて──」
「はい?」
「お客さんの気持ちになって、一緒に考える占いです」
「はぁ」
女性はあいまいに相づちを打った。明らかに理解も納得もできていない様子だが、だからといって鴨志田には手相を見ることもタロットを使うこともできない。
咳払いを一つ、口を開いた。
「まずは、お子さんをお作りになるにあたってですが」
「あの」
女性がすかさず言葉をはさんでくる。
「お子さんってなんですか?」
「はい?」
そう聞き返した鴨志田に、女性がいぶかしそうに言う。
「相談、家を買うかどうかなんですけど」
「え……」
一瞬、なにを言われているのか理解できなかった。
「あ、あー……そうですよね。そうですとも」
必死で頭を回転させ、先ほどまでの女性の発言と「家の購入」とをなんとか結びつけた。
鴨志田は冷や汗を拭いながら言った。
「だけど家を買うにしたって子供のことを考えたり、なんというかですね……ずっと二人かどうかはわからないですし。えっと──」
「なんか、ないですね」
女性がぽつりとつぶやいた。
「あの、ないとおっしゃいますと?」
「オーラとか」
「オーラはちょっと、いまは持ちあわせてませんね……」
ははは、と愛想笑いをしてみせる。
だが女性はにこりともせず、むしろ深く息をついた。
視線を上げて、先ほどよりもさらに硬い声で言う。
「もうけっこうです。いまのは、なかったことにしますから」
「え、あの──」
とっさに引き留めようと思うが、ふさわしい言葉が思いつかない。
女性は机に占い代を置くと、さっさと立ち去ってしまった。
客がまばらになったフードコートをぼうっと眺めながら、鴨志田は今日何度目かのため息をついた。どうしても先ほどの失敗のことを考えてしまう。
できれば次の客で挽回したいところだが、その客が来ないのでは話にならない。
途方にくれていると、隣のブースからドン! と机を叩く音が聞こえてきた。
「だからそうじゃないって言ってるでしょ!?」
声の主は明らかだ。隣のブースで「パソコン占い」なるものをやっている女性で、占い師としての名前はガリンシャ。
彼女はいつも皺だらけの肌に薄紫のファンデーションを分厚く塗りたくり、銀色のカツラをかぶっている。年齢は秘密とのことだが、鴨志田はひそかに自分の母親世代ではないか、と思っていた。
「あのね、このコンピュータの中には一億人ぶんのデータが蓄積されてるの。おばあちゃん、一億人も知り合いいる?」
いがらっぽい声がまた聞こえてくる。
鴨志田はこっそり腰を浮かせて、間仕切りの上から隣のブースをのぞいてみた。
客は杖をたずさえた高齢の女性だった。机に置かれたノートパソコンを見つめる目は、ほとんど開いていないように見える。
「一億には、ちょっと足りないと思うけど」
女性が手を震わせ、ゆっくりと指を折って数えはじめる。
ガリンシャはますますいきり立った。
「ちょっとで済むわけないでしょ? いい? 知り合いが百人いても、その何十万倍もこの箱の中に入ってるの」
ガリンシャがパソコンのディスプレイを何度も指差すが、相変わらず女性の反応は薄い。
「人が、そこに」
「いや、データよ? もちろん人そのものじゃないわよ?」
「アラジンの魔法のランプみたいに──」
「ならないから。願い事叶えないから!」
ガリンシャは頭を掻きむしりそうな勢いだ。
一方の女性は終始、穏やかな口調で話している。
「で、その一億人はなんて?」
「こたえはこう!」
ガリンシャがまたディスプレイを指し示す。
ほとんど閉じた目をさらに細め、高齢の女性はささやくような声で言った。
「……エックス」
「バツだから。バンド名じゃないから! その人はやめといたほうがいいって。片想いのままが一番」
なるほど、客の女性は恋愛の相談に訪れているらしい。ようやく鴨志田にも理解できた。
女性が相変わらずゆったりとした調子で反論する。
「でも、いい人だから」
「一億人がやめとけって言ってるの。もっといい人に出会えるって」
「もういくらも生きないから」
「あのねえ」
ガリンシャは力強く息を吸いこみ、きっぱりと言った。
「出会いはあの世でもあるの」
従業員用の通路に自販機と吸い殻入れ、それに合成皮革がところどころ剥がれた古いベンチが置かれている。
そのベンチに腰掛け、缶コーヒーを口へ運びながら、鴨志田は隣に立つガリンシャを見上げた。
彼女は煙草の煙を長く吐きだし、満足げに目を細めている。