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ネコナデ[小説版]

亀井享

第一章 孤独じゃない男 (2)

 おもの外にあった便所はり式で、ふたを閉めないと枯れ葉や時折、小動物が落ちてしまう危険性があるため、蓋を閉めることを義務づけていた。便所の蓋には「開けっ放しにするべからず」と父親が商工会議所の慰安旅行で買ったという中国の墨で達筆に書いてあった。

 いつもならこの蓋はきちんと閉まっているのだが、父親が酔って帰宅した日に限って蓋が閉まっていないのである。

 子供ながらに理路整然と生きなくてはならないと義務づけられていた私は、はき違えた義務を行使し、両親を前に講釈をたれた。

 居間で両親を前に便所の蓋を持ち、テレビで見た政治家の演説を真似して、いつも開いている便所の蓋について両親を尋問した。蓋に「開けっ放しにするべからず」と書いたのは誰なのか? その規律を作ったのは誰なのか? 自分は決められた約束事は必ず守るのに、それを決めた大人が守らないでどうする、など。小学五年生にしてはませた口調になっていることは、しゃべりながら気付いてはいたものの、正座して押し黙っている両親の前で優越感にひたり、雄弁になっていたことは今思い返すと恥ずかしい。

 私はこの時、両親をしかったばっかりに、常に「ちゃんとした子供」でいなければならなくなった。

 きちんとした子供はやがて、きちんとした青年になり、きちんとした大人になる。きちんとしていることは「きちんとしている」ふりなのか? ふりであるから毎日胃が痛むのだろうか?

 あれ以来誰かを叱っている時、私の脳裏には便所の蓋のイメージが浮かんでくる。


 帰路。

 電車の中の一時間の格闘を終え、自宅に帰る私には日課がある。

 止めどない考え事をすると込み上げてくるこの胃酸を帰宅するまでに治めなければならないのである。家族に胃痛で悩んでいることを悟られれば、我が家族にいらぬ心配をかけてしまう。何が原因かと問われれば、自分の精神の弱さゆえ。自分の信念からすれば、言語道断である。

 私は正露丸とヨーグルト『LG21』を購入するため、自宅近くにあるドラッグストアに立ち寄った。

 この組み合わせの根源は、正露丸は何にでも効くという父親の説に由来する。いわば「おまじない」のようなものだ。

 困ったことがもう一つ。胃痛を治めるために通う行きつけのドラッグストアの店員が、さらに胃を痛める原因なのである。

 彼は一ヵ月ぐらい前から店員として働いている。私と同じぐらいの年齢だろうか、がっしりした体格に似合わないかわいいエプロンをさせられ仕事をしている。どう見てもカタギに見えないそのふうぼうの上、右の小指を包帯で巻いているではないか。明らかに先端は欠落している。

 彼は口数が少なく愛想笑いもしない。何か誰にも言えない事情があってここにいるのではないかと勘ぐってしまう。

 商品をレジの男に渡す。小指をかばいながらレジを打つ男。かわいいエプロンにほかの人が書いたであろうかわいらしい丸文字で「いしぐろ」と名札がついている。

 石黒さんは人見知りなのか、やましいことを抱えているのか、私と目を合わせることはない。多分ほかの客とも目を合わさないのだろう。また、決して客に対し「いらっしゃいませ」と「ありがとうございました」を言うことがない。小指を小刻みに震わせドスの利いた声でぼそりと話す。

「八九三円」

 私はいつも細かい小銭から使うことにしており、財布から一円玉などを取り出すのに時間がかかってしまう。石黒さんは待ってくれているのだろうが、その風貌と無言のプレッシャーに焦ってしまう。いいじゃないか、ちょっとモタついても……と思い、開き直ればいいのだが、そこを割り切れず焦っているのは私だけなのだ。分かっている。分かっているのだが「きちんとした人」であろうとする自分が邪魔をする。

 石黒さんが小銭を確認する。

「一円多いよ」

「あ、はい」

 一円玉を差し出した石黒さんの手。痛々しい小指が震えている。

 小指が気になるし、この人は、どういう経歴の持ち主なのか、なぜここで働くことになったのかも気になる。聞きたくはないが、気になる。何か気にしていると、胃が痛くなる。

 この繰り返しが私の日課となっている。

 一円を受け取り、今日も無言の石黒さんに見送られて店を後にした。


 帰路の公園でベンチに腰掛け、正露丸とヨーグルトを飲料水で流し込む。

 きちんとすることによって、自分は成り立っている。そうでなければ自分ではない。今日、リストラした鈴木と自分の違いは何だろう? ……きちんとしているかいないかなのか? 彼は胃が痛くなったのだろうか?

 私はふーっと長く静かなため息をついた。

 その時、人の声が聞こえてきた。目をやると公園の脇で、段ボール箱に入っている子猫を発見した若いカップルが騒いでいる。彼らの風貌を言葉にするなら「いいかげん」という言葉が的確で、「い加減」とは違う。

「かわい~、かわい~」

「かわい~ね」

 ボキャブラリーが少ない……。ボキャブラリーが少ないから上手く生きていけるのだろうか。

 地面に置かれている小さな段ボール箱から子猫の切ない鳴き声が聞こえる。そこには四匹の子猫が入っており、張り紙には簡単に描いた猫の絵と、その吹き出しに『拾ってくださいニャ~』と書いてある。

「飼おうよ」

「うちのアパート駄目だよ」

「一日だけだったらいいでしょ?」

「ん~、じゃ一日だけな」

「やった~、どれにする? 私この白いヤツ」

 女の子が一匹の子猫を抱え上げると、子猫は他の兄弟猫と離れたくないとばかりに鳴きだした。その様子を見た私は、二人に近づくと声をかけた。

「ちょっといいかな」

「誰? 警察?」男が不審そうに聞いた。

「いや、関係ない」

「なに?」

「……まず、年上には敬語を使いなさい」

「うぜ。で、何っすか?」

「それは敬語ではない。その猫をどうするのかな?」

「一日だけ飼う」

「一日って、その後は? その後の責任が持てないなら連れていくな」

「うるせえ、デブ」

「私は太ってはいない。君らがいい加減な気持ちで連れて帰るのなら、初めから何もするな」

「かわいそうじゃん」

「かわいそう? 一日だけ連れていって、また戻すほうがかわいそうじゃないか?」

「分かった分かった。飼う飼う飼う飼う、飼えばいいんでしょ?」

 男は喜んでいる彼女の手を引き立ち去ろうとする。彼女が去り際に言う。

「おじさんも一匹ぐらい救ってあげたら?」

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