略奪の愛楔 檻の中の花嫁

麻生ミカリ

第一章 冷たい部屋に薔ば薇らは散る (3)

 なぜ自分を赤妻家の者と思ったかを問いかけた彼が、まるで「そう思われたくない」と言いたげだったから。

「応接室で会った? へえ、じゃあきみが白雪姫ってことか」

 少し余る長い袖口を、口元に当てて彼が笑う。

「ひ……姫じゃないです! 白雪美緒ですっ」

 幼いころ──あれはたぶん、まだ幼稚園に入園する前。父は、美緒のことをよく「我が家の白雪姫」と呼んだ。実際、美緒の肌は雪のように白く、髪は濡羽色、形良い唇は薔薇の花びらのように赤かった。

「どっちでもいい。どうせ、僕には関係ない。きみも、赤妻の家も──」

 否定するほどに、彼が赤妻家の人間なのだと確信が強くなる。少なくとも、ユーカリ園に新しくやってきたお友だちには見えない。彼の手首には、大人の男性が身につけるような銀色のダイバーズウォッチが覗いている。ピカピカに磨かれた革靴も、裕福な家庭の出であることを感じさせた。

 ──園のお兄さんたちとは、ぜんぜん違う。

「名前はなんていうの?」

 黙り込んだ彼に、美緒はなんとなく話しかける。もしかしたら、また会うかもしれない。いや、おそらく会うだろう。

 美緒がいずれ、赤妻家のひとびとと家族になるというのなら、彼もまた美緒の新しい家族のひとりだ。

「……レイ」

「レイ、くん?」

 湿った土を踏んで、一歩彼に近づく。

玲瓏のレイに、偉人のイ。玲偉

「れいろう?」

 漢字を説明されても、そもそも美緒には玲瓏という言葉がわからなかった。小学五年生には難しすぎる。

「だから、あー、王偏に命令のレイ、それと偉いって書いて玲偉。赤妻玲偉だよ」

 王偏、と言われて、美緒はその場にしゃがみ込んだ。湿った土に、右手の人差し指で『玲偉』と書く。『偉』が『玲』にくらべてだいぶ大きくなってしまったのはご愛嬌だ。

「これでレイ?」

「あー、はいはい。そうだよ。それで玲偉」

 投げやりな返事でも、なんだか嬉しくなる。さっき会った赤妻夫妻と晴翔より、玲偉のほうが身近な存在に感じられたからだろうか。

「……なんで笑ってるの?」

 美緒を見下ろし、ため息混じりに玲偉が言う。

「嬉しかったから」

「悪いけど、何が嬉しいのかぜんぜんわからない」

 爪の中まで土が入っていたし、指先はだいぶ汚れてしまったけれど、そんなことは気にならない。

「玲偉くんが、名前を教えてくれたから。それと、雨が髪の毛にキラキラしてきれいだから」

 まるで少女漫画から飛び出してきたような、線の細いきれいな男の子。彼を見上げて、美緒はにこっと笑った。

「……きみ、ヘンってよく言われない?」

「言われないよ」

「へえ、だったら周りのひとは、美緒のことわかってないのかもね」

 美緒、と呼ばれるのは久しぶりだ。赤妻家の人たちも『美緒さん』『美緒ちゃん』とは呼んでくれたけれど、それよりもっと親しい感じがする。

 両親がいなくなってから、そう呼んでくれるひとは誰もいなかったから。

「赤妻玲偉くん」

「なに?」

「迷子になったんでしょ。応接室まで連れていってあげる!」

 スカートを払って立ち上がると、美緒は汚れていない左手で彼の手をつかんだ。

「別に、迷子になったわけじゃないんだけど? ねえ、聞いてる?」

 見上げた空。

 四角く区切られた頭上には、灰色の雲が広がっている。

 けれど、雲居から細く伸びた光がスポットライトのように、小さな世界を照らしていく。

 それが、のちに婚約者の弟となる赤妻玲偉との出会いだった。


♪゚+..+゚♪゚+..+゚♪


 ──あれから七年半も過ぎたんだ。

 赤妻家の二階にある自室で、美緒は机の引き出しを静かに開ける。そこには、大切な宝物がしまってあった。

 初めて晴翔がユーカリ園へ来た翌週から、美緒のもとに手紙が届くようになったのである。差出人は、赤妻晴翔。婚約者だ。

 晴翔の書く文字は、方眼紙ではないのに、ひとつひとつがきちんと並んでいる。几帳面な性格が見て取れる美しい文字の羅列。彼はいつも、藍色のインクで手紙を書いてくれた。わずかに右上がりの文字が並ぶ、万年筆で記された彼の手紙。

 七年半。

 その間に、ふたりはたくさんの手紙を送り合った。

 親の決めた──正しくは曽祖父たちの決めた縁談ではあったけれど、晴翔からの手紙を読むうちに、美緒は次第に彼を慕うようになっていた。

 家族になるのだから、と言ってくれた赤妻夫妻は、あれ以来ユーカリ園を訪ねてきたことはない。それでも、晴翔の手紙があったからこそ、美緒は今ここにいる。

 この春、高校を卒業すると同時に赤妻家に引っ越し、慣れない広い部屋で暮らしながら、住み込みの家政婦、吉江から家事を教わっている。

 手紙では、あんなに雄弁だった晴翔が、今は少しだけ遠く感じた。

 九月の美緒の誕生日に、ふたりは結婚披露宴を行う予定だと聞いている。他人事のような伝聞は、実際美緒のあずかり知らぬところで事態が進められているから致し方ない。

 それでも。

 たとえ、いつもそばにいてくれなくても。

 顔を合わせたところで、手紙のときのように話してくれなくても。

 美緒にとって、この七年半もの間、晴翔の手紙だけが支えだったことは事実だ。

「……うん、がんばろう」

 両手で引き出しを閉め、自分を鼓舞する言葉を口に出した瞬間、

「何をがんばるつもりです、未来の義姉さん?」

 背後から聞こえてきた声に、びくっと体がこわばる。

「あ、あの、玲偉さん、これはその……」

 あの日、ユーカリ園の中庭で出会った玲偉は、繊細な美少年から美しい大人の男に成長していた。

 ゆっくり振り向くと、美緒の部屋の入り口に首を傾げて立つ彼の姿が目に入る。

 今年、二十四歳になる玲偉は、一八〇センチを超える長身だ。美緒から見れば、晴翔の一七九センチだってじゅうぶん背が高い。すらりと縦長に育った赤妻兄弟にくらべて、美緒のほうは一五〇センチに一センチ足りない小柄な体つきのままである。

 机の引き出しを隠すように立ち、両手を胸の前にまっすぐ伸ばして、なんでもないと首を振った。

「荷物の整理をしていただけで、特にがんばるほどのことじゃないんです。気にしないでくださいっ」

「そう言われると、余計に気になるんですけどね」

 目を細めた玲偉は、香り立つような色香を放っている。彼の前に立つと、美緒はいつも少しだけ背中がむず痒い気持ちになった。

 玲偉の目は、よく見ると左右の色がわずかに違っている。左目が、右目よりも色素が薄いのだ。

 年子の兄弟である晴翔と玲偉は、かつて雰囲気が似て見えたものの、今では互いの面影を感じさせない風貌に育っている。

 晴翔は、高校大学とラグビーをやっていたらしく、厚い胸板と広い肩幅のがっしりした体型。人当たりがよく、いつも輪の中心にいる人物だ。アウトドアが好きらしく、週末になると男女大勢で出かけていく。

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