初恋彼氏は溺愛ストーカー!?

春日部こみと

プロローグ / 1 私の恋は、誰にも言わない。 (1)




プロローグ




 あの日、私は「やめて」と何度も言った。

 でもその言葉が噓だと私は知っていたし、きっと彼も気づいていた。

 その証拠に、私の身体は彼を拒んでいなかったし、彼は私を苛む手を止めなかった。

 なにより、二人の間に漂っていた欲情の空気は否定できないほど濃く、私達は互いにこれが既に手遅れで、止められないことなのだと肌で感じ取っていた。

 悪あがきのように制止の言葉を繰り返す私に、彼は皮肉げに笑って首を横に振った。

 その否定の仕草を自分が、喜んでいるのか、哀しんでいるのか、あるいは怒っているのか、錯乱した頭ではもうわからなくなっていて、私はむ涙を振り払うように瞬きをした。

「どうして?」

 自分が発したその問いが、具体的に何を指しているものだったのか──今振り返ってみてもわからない。

 どうして、彼がやめてくれないのか。

 どうして、彼が私を抱こうとするのか。

 どうして、相手に私を選んだのか。

 訊きたいことはたくさんあったはずだから、きっと全部ひっくるめた問いだったのかもしれない。

「慰めてくれるんだろ」

 ──そう。それが、答えだ。

 彼にとって、私がどういう存在であるか。

 彼にはずっと大事にしてきた恋があって、その恋が破れた今、慰めを求めていた。

(ああ、私は、『身代わり』なんだ)

 恋しくて、欲しくて、手を伸ばしたけれど、すり抜けていった彼の想い人の身代わりに、彼は私に触れるのだ。

 自分の胸の中で、何かが割れた音が聞こえた気がした。

 ガラスのように脆く、高い音を立てて壊れたのは、私の恋心だ。

 私は、彼が好きだった。

 たとえ彼が目で追うのが自分じゃなくても、彼の傍にいられるならそれで良かった。

 ずっとずっと、好きだったのだから。

 たとえ、彼の好きな人が私じゃなくたって。

(身代わりでも、いい)

 愚かで幼い恋心は、壊れてもなお、彼を欲した。

 身代わりとしてでも、私に触れてくれるのなら、心が震えるほど嬉しかったんだ。

 ばかだな、と私は心中で自分を嘲笑った。

 こんなことを受け入れれば、私はきっと、今までのように笑えなくなる。

 今までのように、彼の傍にいられなくなる。

 だって彼は後悔するに決まっているんだ。

 彼は、優しい。ぶっきらぼうに見えて、誰かを傷つけることを恐れる、優しい人だ。ずっと近くで見てきた自分が、一番よくわかっているつもりだった。

 その優しい彼が、私を好きなあの人の身代わりに抱いたなんて、正気に返れば悔やまないわけがない。

 そうして彼は、償いをしようとするだろう。

 もしかしたら、『責任を取る』と、私と付き合おうとさえするかもしれない。

 そんなことになったら、私は自分がまともでいられる気がしなかった。

 私は償いと称して、彼に様々なことを強要するだろう。

 ──傍にいて。

 ──私を見て。

 ──私を、愛して。

 きっと彼はそれを受け入れる。彼の恋心を押し殺して、私を愛す真似をするだろう。

(そうしたら、私はずっと、『身代わり』だ)

 彼の恋しい人の代わりに、彼に抱かれ続けるのだ。

 一緒にいればいるほど、互いを傷つけ合うだけの関係。

 なんて歪な恋人同士だろう。

 歪な形で始まった関係は、間違いなく歪み続ける。

 最初のきれいな形など、見る影もないほど醜悪なものへと。

 そんな醜く苦しい未来を、容易に想像できてしまう。

(だから、これが、最後だ)

 私は目を閉じた。が熱くなってしまったのを、知られたくなかった。

 彼にとっては、これは捨てなくてはならない恋のいなのだろう。

 それは同時に、私のひそやかな恋の弔いともなる。

 閉じた瞼の向こうで、彼がどんな表情をしているかはわからなかった。

 けれど重ねられた唇の感触は、ひどく甘く、残酷なほど、優しかった。




1 私の恋は、誰にも言わない。




 真新しいカバーのかけられたベッドに腰を下ろして、私は手にしたタブレットに向かって笑う。

「だから、大丈夫だって! 心配しないで、パパ。ちゃんと諸々の手続きも終わらせたし、荷解きも済んだし! 日用品だってほとんど買い揃えたのよ? 今日なんて、一人でおっきな本棚を組み立てたんだから」

 タブレットの画面に大きく映った父の顔を覗き込んで、微笑んで見せる。

 眉根を少し寄せた父の顔は、私の台詞を聞いた後もまだ心配そうなままだ。

 ビデオ通話のできるアプリは本当に偉大だ。ニューヨークと東京。国を跨いでいても、傍にいるかのように、姿を見ながら会話できるのだから。

 ウチのパパみたいな心配性な親を持っている場合は特に。

『だがね、鈴奈。君は日本をかれこれ七年も離れていたんだ。やっぱり心理士になるのなら、こっちで資格を取った方がいいんじゃないのか?』

 私はやれやれと思いながら、もう何度も繰り返してきた説明を、もう一度口にする。

「もう、パパったら! その話は、私がこっちの大学院を受ける時に、十分に話し合って結論を出したはずでしょ? 将来日本で働くつもりなら、日本の臨床心理士の資格を取った方が早いの。BA取った後、一年も勉強してやっとこの大学院に受かったんだから、今更そんなこと言わないで」

 BAとはアメリカの人文・社会科学系の学位のことだ。つまり私は大学を卒業した成人女性で、今年二十五歳になる。それなのに、父は未だ私をローティーンの女の子だと思っている節があるから困ったものだ。

 でもまぁ、父の心配も無理はない。ウチは父子家庭で、母のいない分、父が過剰に私を心配する傾向がある。

 その上、高校卒業後、父親の転職に合わせてニューヨークに移住した私は、日本に住むのが、実に七年ぶりなのだ。七年も離れていると、浦島太郎状態。テレビに出ている芸能人も知らない顔ばかりだし、流行っている洋服も食べ物も違う。七年前にはなかった言葉や言い回しもあって、当惑することもしばしばだ。

 まあ、それでも日本語なんだから、日常生活に問題はないのだけど。

『そうは言ったって、帰国してすぐ一人暮らしだなんて! 君はこれまで家を出たことがないんだよ? 十分に世間知らずと言っていいはずだ。それなのに、慣れない東京で、いきなり一人暮らしなんて、可愛い鈴奈にもし何かあったらと思うと……! ああ、やっぱり今からでもおばさんの家に住まわせてもらうことに……!』

 悲鳴のような声を上げた父に、私はいよいよ溜息を吐いた。

「パーパ! いい加減にして! 私はもういい大人なのよ? お酒も飲めるし、車の運転だってできる。もちろん一人暮らしだってできます! そもそも、私よりパパの方が生活力ないんだから、そっちの方が心配よ!」

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