獰猛な渇愛 政界の若き支配者の狂おしい情熱

御厨翠

1章 危険な男 (3)

 ホテルのカウントダウンパーティーに興味があったこと、そして少し飲みたい気分だったこともあり、莉緒はバスルームから出ると出かける準備を始めた。

 さすがにスッピンとはいかないため、軽くメイクを施してから着替えを済ませる。キャミソール型のワンピースにジェイドグリーンのニットを合わせ、髪を軽くサイドで結んだ。少しウェーブのかかった色素の薄い髪は天然で、女性らしいゆるふわ感が気に入っている。

「よし、行ってみよう」

 室内のため、コートは羽織らずに階上へ向かう。スイートは宿泊者がいるはずだが、共用部は人の気配を感じなかった。エレベーターに乗っても、やはり箱の中は無人である。

 誰にも会わずに最上階まで来たことで、本当にカウントダウンパーティーが行われるのかと不安に思った莉緒だったが、ラウンジに入った瞬間、目の前に広がった別世界に息を吞んだ。

 ──わあ……すごい綺麗……!

 ラウンジの全面に配された楕円に広がる窓からは、テーマパークが一望できた。テーブルやソファは窓を正面に臨めるように配置されており、眺望を楽しめるようになっている。

 モノトーンの落ち着いた室内の天井に施されたクロム製の装飾が、ブルーの照明に照らし出される様は幻想的だった。窓の反対側にある壁面には、プロジェクションマッピングで和を意識した映像が映し出され、モダンな空間が演出されている。

 ──それにしても、かなり盛り上がってるなあ。

 つい先ほど感じた静寂が噓のように、ラウンジにはすでに大勢の人が集まり、それぞれに楽しんでいた。しかしほとんどの人間は、莉緒のようにひとりで訪れたのではなく、恋人や友人と参加しているようだ。

 ──部屋にひとりでいるよりも、年越しの気分は味わえそう。

 莉緒は人を避けながら、カウンターの一番端にあるスツールに腰を下ろすと、スタッフにシャンパンを頼んだ。他の参加者たちはテーブル席に着いていたため、カウンターは莉緒の貸し切り状態である。

 室内の中央に設置された円形のステージでは、プロのバンドによる演奏が始まっていた。賑やかな楽曲が店内に流れ、年明けに向けてゲストを盛り立てている。ホテルのエントランスや敷地内にあるホールでも、同様のイベントが開かれているようだが、そちらは別途予約が必要らしい。ラウンジは、そちらの予約が取れなかった人や、単に飲みに訪れた人たちの受け皿の役割を担っていた。

 ──適当に飲んでカウントダウンしたら、部屋に戻ろうっと。

 明日は朝食の時間に間に合うように起きて、それからホテルの近辺を散策するのもいいかもしれない。浅草まで足を延ばして初詣に出かけてもいいが、正月三が日における浅草の参拝者数は、全国で五指に入るほどだ。誰かと約束しているならともかく、寒い中ひとりで長蛇の列に並ぶほど信心深くもない。

 ──ホテルの近くにあるお店で、福袋でも買おうかな。うん、それがいいかも。

 明日の予定を思い浮かべていると、スタッフにシャンパングラスを差し出された。莉緒は室内の浮かれた雰囲気を背中で感じつつ、グラスに口をつける。年が明けるまでは約二時間あるが、どことなく落ち着かない気がする。なんだかんだと言っても、やはり新年を迎えることは特別感が伴うのだ。

 とはいえ、会話をする相手もいないため、特別感を共有できないのが寂しいところだ。一杯目をすぐ空にすると、次は何を頼もうかと考えていた。そのときである。

 ──えっ!? あの人……!

 視界の端に見覚えのある男性が映り込み、思わず動きを止めた。

 男性は莉緒と反対側のカウンターの端に腰を下ろし、静かにグラスを傾けていた。スーツにノーネクタイという出で立ちでフォーマルな装いではなかったが、ひと目見ただけで魂を奪われそうなくらいに整った顔立ちの男だ。彼がいる一角だけは、異次元であるかのように空気が違う。

 ──まさか、また会えるなんて……。

 数脚のスツールを隔てて座っていたのは、莉緒がプールで出会った男だった。

 誰かと待ち合わせをしているのか、彼は長めの前髪をかき上げると、物憂げな表情で腕時計に目を落とす。何気ない仕草が絵になる人間もそういないだろう。つい見入っていたとき、女性のグループが彼に話しかけるのが見えた。

 昨日の礼を言いたかったが、邪魔をするのもためらわれたため、おとなしく推移を見守るに留める。女性たちが熱心に話しかけているのが、少し離れた席からでも見てとれた。

 ──そりゃあ、あれだけの人だからモテるだろうなあ……。

 心の中で感嘆していた莉緒だが、女性グループを軽くあしらった彼の目が、不意にこちらへ向いた。しばらく見ていたから、さすがに相手も気づいたようだ。ガラス玉のような温度を感じさせない瞳を向けられ、慌てて顔を背ける。いくら美形だとはいえ、不躾な視線を送ったことを申し訳なく思ったときだった。

「──失礼。となりに座ってよろしいでしょうか?」

 なぜかの男性は莉緒のそばまで来ると、そう声をかけてきた。ギョッとした莉緒がつい男性を凝視すると、男が端正な顔に苦笑を浮かべる。

「ひとりでいると、少々面倒なことがありまして。あなたのお相手が来るまででいいので、付き合っていただけると助かるのですが」

 どうやら彼は、今見かけた女性グループだけではなく、その前から声をかけられていたようだ。理解した莉緒は、平静を装って「どうぞ」と笑みを浮かべる。

「わたしは待っている相手もいないので、お気遣いはいりません。ただ、ナンパ避けになるかはわかりませんけど」

 彼ほど魅力的な男であれば、たとえ相手がいようとも声をかけてくる強者もいるだろう。ただでさえ、カウントダウンで浮かれている室内だ。雰囲気に乗じて近づいてくる女性は後を絶たないのではないか。

 そんなことを考えながら莉緒がとなりの席を勧めると、男性は意外そうに目を丸くする。

「カウントダウンパーティーにひとりでいる酔狂な人間は、自分だけだと思っていました。でも、ひとりで来てみるものですね。思いがけない幸運がある」

 心地いい低音の声が、耳をくすぐる。喧騒の中でもはっきりと伝わるその声は、腰に響くような艶があった。それに加え、さり気なく自分もひとりであること、好意とも取れそうな言葉を混ぜるのだから、普通の女性ならまず確実に堕ちる。

 ──こんな上等な男がひとりなんて、何か訳ありなんだろうけどね。

 とはいえ、莉緒のように部屋のキャンセル料を惜しんだわけではないだろう。男は見目の良さに加え、スーツや時計、靴に至るまで上質なものを身に纏っていた。そして、上品な物腰と底知れない存在感は、それなりの地位に就いていることを窺わせる。

「俺は、片桐涼真。名前を聞いても?」

「……菊池、莉緒です」

「では、莉緒さん。助かりました、ありがとうございます」

 さり気なく名前を呼ばれ、莉緒の心臓がドキリと跳ねた。それに気づかれぬよう笑みを浮かべ、昨日の礼を告げる。

「お礼を言うなら、わたしのほうです。昨日は、ありがとうございました。片桐さんのおかげで溺れずに済みました。本当に感謝しています」

 彼に礼を告げる機会を得られたのは幸運だった。改めて頭を下げた莉緒に、涼真は「たいしたことはしていませんよ」と言い、無事でよかったと笑みをえた。彼は店員にシングルモルトを頼み、促された莉緒がモヒートを注文すると、すぐにグラスが目の前に置かれる。

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