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獰猛な渇愛 政界の若き支配者の狂おしい情熱

御厨翠

1章 危険な男 (2)

 年の頃は三十代後半。鋭く細められた切れ長の目は冷淡な印象を与えるが、高い鼻梁と薄い唇が、シャープな輪郭に完璧に配置されていた。程よく筋肉のついた身体は、見事のひと言に尽きる。長身でバランスのよい体つきは、作り物のように美しかった。

 数脚あるデッキチェアからタオルを取った男性は、無造作に顔を拭っている。黒髪をかき上げる仕草すら絵になる人物を前に、莉緒は時が静止したような感覚になってしまう。

 ──でも、整い過ぎていて怖いくらい……。

 これまでの人生で、これほどの美形に遭遇したのは初めてだった。莉緒は、大手デベロッパー『鷹栖不動産』本社で受付業務に就いており、様々な企業からの訪問者に応対している。だが、視線を奪われるという経験は、人生初のことである。

 とはいえ、見ず知らずの人間をじろじろ見ているのも失礼な話だ。ようやく我に返った莉緒は視線を外そうとする。しかしそのとき、視線に気づいた男が莉緒を見遣った。

「っ……」

 ふたりの視線が宙で交わる。温度をまるで感じさせないガラス玉のような瞳に、知らずと息を吞んだ。肌を滑る水滴すら、男を引き立てるための演出であるかのようだ。まさに〝水も滴るいい男〟と呼ぶにふさわしい艶を含んでいた。

 どれくらいの間、見つめ合っていたのか。凄まじい色気を放って佇んでいた男は、ふっと口角を上げると、おもむろに出口へと足を向けた。姿勢よく歩く姿は、モデルと見紛うほどである。

 すっかり男の色香にあてられた莉緒は、足を進める間にもぼんやりと男の後ろ姿を目で追っていた。だが、それが不味かった。意識がおろそかになったことで、プールサイドで足を滑らせてしまう。

「きゃ……っ!」

 バランスを崩し、持っていたタオルが宙に舞う。しまったと思ったときにはすでに遅く、莉緒は大きな水音を立ててプールに沈んだ。

 思いがけず水深が深かったため、慌てて手足をバタつかせ、水面に顔を出そうとする。しかしそのとき、ふくらはぎに痛みが走った。足がつってしまったのだ。上手く水面に上がることができない焦りから、必死で水を搔く。

 ──ここで溺れるなんて、冗談にならないっ!

 キャンセル料を惜しんでホテルに来た結果溺れるなんて、笑い話にしても不出来である。冗談じゃないとる莉緒だったが、心とは裏腹に身体が言うことを聞いてくれなかった。

 脳裏に一瞬死がり、ゾッとしたときである。

 背後から伸びてきた男の腕に、力強く引き上げられた。水面に顔が出たと同時に強制的に仰向けにさせられると、低く艶のある声が投げかけられた。

「そのまま動かないで。大丈夫です」

 冷静な男の声に、身体から余分な力が抜けた。男は莉緒が落ち着きを取り戻したことを確認すると、ゆっくりと縁に手がかかる場所まで移動した。先にプールから上がり、莉緒を引き上げてくれる。

「水は飲んでいませんか?」

「は、はい……」

「スタッフを呼んできます。ここで待っていてください」

「だ……大丈夫です。あの、助けていただいてありがとうございました」

 立ち上がった男を引き止めると、莉緒は礼を言った。助けてもらったおかげで水は飲まずに済んだし、足の痛みが治まれば問題はない。呼吸を整えつつそう告げると、男は莉緒が落としたタオルを拾い、肩にかけてくれた。

「大事がなくてよかったですが、無理は禁物です。おとなしく待っていなさい」

 自身の髪をかき上げて言い含めた男は、そのまま出口へ向かった。今度は引き止める間もなく立ち去る後ろ姿を眺めていた莉緒は、己の状況も忘れてほうっと息をつく。

「びっ……くりした……」

 背筋がゾッとするほどの美貌だった。あまりにも完璧過ぎて、ではないかとすら思える。だからこそ魅入られ、うっかり足を滑らせてしまったのだが。

「……本当、洒落にならない」

 男に見惚れてプールで溺れかけるなど、どれだけ間抜けなのだと呆れてしまう。しかし、それだけ強烈な印象の男だったのだ。

 それからジムのスタッフが駆けつけてくるまでの間、莉緒の意識は先ほどの男に占領されていた。



 翌日の大晦日は、あらかじめ予約していたホテル内にあるエステで、ボディトリートメントを行った。久しぶりにケアを行ったことで、だいぶリラックスした時間を過ごすことができた。

 その後、昨日と同じようにプールに赴いたが、残念ながら昨日の男性との再会はかなわなかった。彼が今日も宿泊しているとは限らないのだから、それも当たり前である。

 肩を落とした莉緒は、助けてくれた男性についてスタッフに尋ねてみた。しかし、「今日はいらしていません」という返答に加え、恐縮してしまうほど謝罪をされた。昨日聞いた説明では、ちょうどスタッフが入れ替わる時間帯に起きた事故ということだったが、もともと自分の不注意でプールに落ちてしまったのだし、スタッフの不在を責めるつもりはない。

 気にしないでくれと言い置き、莉緒はひと泳ぎすることにする。

 ──あの人に会えたらちゃんとお礼を言いたかったけど、今朝の朝食にはいなかったから……どこか別の場所で食べたのかな。

 莉緒はスイートに宿泊しているが、食事をするのはスタンダードと同じエリアと決められていた。大勢を収容できる店舗で、ビュッフェ形式の食事をとることができる。一方スイートは、専用のラウンジや和洋中それぞれの直営店舗で食事を提供されるため、同じホテル内であっても部屋のグレード如何で遭遇することは難しいのである。

「……って、昨日からあの人のことばっかり考えてる」

 プールから上がってチェアに座ると、ひとりごちて苦笑する。

 今日は大晦日、除夜の鐘をついて一年の煩悩う日だ。いくら助けてもらったとはいえ、恋人と別れたばかりで他の男に気を取られるとは、煩悩にれ過ぎではないか。それに昨日の男は、息を吞むほどの美形だった。当然恋人と宿泊しているだろうし、おそらく彼女もゴージャスな美女に違いない。並んだ姿はさぞや人目を集めるだろう。

 ──ましいなあ。

 意図せず心に浮かんだ感情は、偽りのない莉緒の本音だった。

 元彼に気持ちが残っているわけではない。ただ、ほんのわずか寂しい気持ちがあるのも事実で、だからつい羨んでしまう。

 ひとしきり泳いだ莉緒は、その後ジムで軽く汗を流して部屋に戻った。レストランに行く気が起きないため、夕食をルームサービスで済ませ、入浴することにする。

 スイートのバスタブは広く、内装も豪奢だった。アメニティの中にあったバスジェルを使用して泡風呂にすると、非日常的な気分を味わえる。しかし、一年の終わりが近づいている実感が得られないのも、少々風情に欠ける気がした。

「……せっかくだし、カウントダウンにでも行こうかな」

 曜日の都合で、会社は五日が仕事始めである。ホテルの滞在は二日の朝までのため、マンションに戻れば年末年始らしいイベントに参加しないまま仕事に行くことになるかもしれない。

 テーマパークを始めとするホテル周辺では、カウントダウンパーティーが開かれる。予約が必要なイベントもあったが、最上階にあるクラブ・ラウンジでは予約せずとも参加できるパーティーが開催されると、チェックイン時に聞いていた。誰でも気軽に訪れることができるようにとの配慮から、ドレス・コードもないという。

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