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蜜恋ホテル 年下御曹司と愛されコンシェルジュ

蒼生根子

プロローグ / 1 初めての新人教育 (1)




プロローグ




 どうしてこんなことになったのだろう──。

 甘い疼きに困惑しながら、坂部知実は記憶を巡らせる。けれど、淫靡に火照る身体では、思考をまとめることすらままならない。

「んっ……はぁ……ふぅ」

 人気のない備品室で、身体を密接しながら唇を吸い上げられ淫らな声が漏れる。懸命に息を継いでいると、知実の唇を弄ぶようにねぶりながら、後輩の槙多浩也が意地悪に喉を鳴らして笑った。

「そう、上手ですよ。さすがは知実さんです。もうキスにも慣れたみたいですし、次の研修に進んでみましょうか」

「んっ、そんな……っ」

 ぞくぞくとする甘い痺れに身もだえていると、槙多は首筋に顔を寄せ唇を押し当ててくる。たったそれだけのことで、さらなる快感の波が知実を襲った。

 これから何をするのか──。どんなはしたない行為を覚えさせられるのか。

 まだ仕事も終わっていないのに、甘い期待が膨らんでしまいそうになる。

 槙多は、知実のそんなふしだらな思考すら把握しているかのように目を細め、くつりと意地悪に笑った。

「知実さんって凄くいい匂いがしますね」

 甘い囁きと共に、耳殻に唇が押しつけられる。熱い吐息が耳にかかり、くすぐったさと羞恥で身が跳ねた。

「そんなこと……」

「本当ですよ。芳しくて甘い……。不思議な匂いです。肌が汗ばむとより強く香ります」

 彼は鼻先を押しつけるようにして、知実の肌を吸い上げる。汗ばんだ肌が良い匂いなどするとは思えないが、彼は知実のあちこちにキスをして、最後に鎖骨と胸の合間の僅かな膨らみに唇をあてた。

「俺の匂いは、どう感じますか?」

「槙多くんの? それは……、嫌じゃないけど」

 本当は槙多の香りはとても好きだった。爽やかなフレグランスと体臭が混ざると、心地よいのに、どこか艶めいた香りになる。

 叶うなら彼の胸に顔を埋めてしまいたいくらいだけれど、恋人でもない身で、そんなことができるはずもなかった。

「へえ、よかった」

 槙多はにこりと笑って、腰をさらに密着させる。

「いい匂いだと感じる相手は遺伝子的に相性がいいそうです。つまり俺達は、ぴったり相性が合うってことですね」

「え……」

 そんなことを言われると、嬉しさで鼓動が跳ねてしまう。本心のはずがない──。ただのリップサービスだと理性が囁くのに耳を塞いで、このまま流されてしまいそうになる。

 なのにそんな知実の葛藤も知らず、槙多は蠱惑的に笑って、知実の胸の膨らみへと優しく手を這わせるのだ。

「それじゃあ、次のステップに行きましょうか。ちゃんと教育係の言うことを、聞いてくださいね──?」

 優しくて甘い、まるで恋人同士の営み。

 そんな空気に飲まれそうになりながら、知実は恋人でも何でもないただの後輩と、こんなふしだらな教育関係になってしまった成り行きを、懸命に思い返していた。




1 初めての新人教育




 初めて自宅以外のベッドで眠った日のことを、坂部知実は今でも覚えている。

 あれは確か、高台に建てられたオーシャンフロントのホテルだった。父と母に連れられて向かった旅行先。潮風に頰を撫でられながら、黄昏色に染まった街並みを見下ろした日のことは、今でも鮮明だ。

 きらきらと黄金色に輝く街と海の、まるで外国の絵はがきを見ているような美しさ。使い込まれた石畳を進んだ先、リムジンを降りると、磨き上げられた艶やかなマホガニーの扉の前で、恭しくドアマンが迎え入れてくれる。

 慣れないヒールのを鳴らして扉をくぐると、高い天井に吊られたシャンデリアに目を奪われて、まるで夢の国へとやって来たように気持ちが浮き上がった。

 足元の大理石に映り込む煌めきと、柔らかな絨毯を踏む、雲の上を歩いているような感覚。身体ごと沈み込んでしまうような柔らかなソファ。ロビーの奥には、テラスプールが広がり、そのどれもこれもが現実離れした夢のような豪奢さを誇っている。

 ここはまるで、私だけが入ることを許された秘密の宮殿のよう。

 ホテルとは、そこへ訪れた客を、絵本の中のお姫様にしてくれる特別な場所なのだと、知実は幼心に憧れを抱いたものだった。

 もちろんいつまでも夢見るお姫様でいたわけではない。

 仕事というものに触れる機会が多くなるにつれ、あの夢のような世界は、魔法によってではなく、そこで働く従業員という無数の人の努力によって成り立っているものなのだと、気付くようになった。

 あんなふうに、私も誰かに夢のような時間を与えることができる人間になりたい。無数の人々への尊敬が、そんな憧れへと変わるのにさして時間はかからず、いつしか知実は、ホテルマンになることを夢見るようになった。

 なかでも知実が憧れたのは、コンシェルジュだった。

 〝決してノーと言わない〟をポリシーに、客のあらゆる〝お願いごと〟を叶えるプロフェッショナル。

 高い知識と教養、外国人宿泊客にスムーズに対応できるだけの語学力を兼ね備えた、ホテルの顔。

 VIP客の中には、ちょっとした秘書の代わりにコンシェルジュを使う人もいるので、標準以上の事務処理能力や、卓越したコミュニケーション能力も必須とされている上、そもそも日本では、コンシェルジュを導入しているホテルが少ない。

 採用しているのは主に外国資本のホテルで、業界全体を考えれば多くはない数だった。

 けれどそんな狭き門をなんとかくぐり抜け、知実は帝櫻ホテルという、日本有数の一大ホテルグループへの就職を勝ち取ったのだった。

 帝櫻ホテルは、明治二十五年の開業から現在に至るまで、ホテル御三家と称され続けてきた、日本を代表する由緒正しい高級ホテルだ。

 外国資本時代に手に入れたノウハウを最大限に生かし、日本では最も早くコンシェルジュを設置したホテルでもある。国内だけでも、北海道から九州まで十三館。運営技術指南、チェーンホテルを加えれば三十近いホテルを運営し、国内のみならず、マカオやバンコクといったアジアから、オアフやグアムなどのリゾート地にも展開し、現在も新たなリゾート開発を続けている。

 戦後の財閥解体により一度は株式を外国資本に手放したものの、現在はその殆どが買い戻され、創業者一族によって運営されている。

 そんな帝櫻ホテルに就職して早五年──。東京でのインターン時代を含めれば六年。

 宿泊管理部、総支配人室所属。フロント課を経て、知実は晴れて憧れの帝櫻ホテル神戸館コンシェルジュとなった。

 神戸館は、東京館に比べれば規模こそ小さいものの、帝櫻ホテルの創業者が手がけた、初代ホテルとしての歴史と自負がある館だった。本社の人間も必ず一度は、この神戸館で研修を積むことになっている。

 そんな誉れ高い神戸館に配属となり、自分なりに精一杯コンシェルジュとしての務めを果たしてきたのだが──。

「というわけで坂部さん。明日から新人の教育、宜しく頼むよ」

 終礼後、森本部長に突然呼び出しを受けた知実は、そんな宣言を前にして固まった。

「えっと……」

「だからね、坂部さん。君に教育係をやって欲しいんだよ、新入社員の」

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