いとしい君に愛を乞う 不器用な暴君は妻を溺愛する
プロローグ (2)
結婚初夜、伊織は美緒を求めてきた。だが、上半身を脱がしたところで、唐突にやめてしまったのだ。
『──やめた』
そう言い残して、寝室を出ていった。それ以降、同じベッドで寝ていても、伊織は一度も美緒に触れようとしなかった。
伊織はどんな顔でその話を沙帆にしたのだろう。
少なくとも、美緒が知っている伊織はセックスの話を人に話すような人ではなかった。彼らが親密な関係であることはその事実だけで十分だった。
(五年も経つんだもの……。それだけあれば人だって変わるわ)
ましてや、伊織は美緒を嫌っていた。悪口くらい言いたくもなったのだろう。
けれど、伊織は知っているだろうか。
美緒にだって心はあるのだ。悪意を向けられれば傷つきもするし、何も感じていないわけでもなかった。
ただ、平気なふりをしてきただけのこと。
それでも、自分たちの結婚が沙帆から幸せを奪ったことには違いない。だから、言われるまま慰謝料としてお金を渡し続けてきた。
半年の結婚生活の間で、二千万あった貯金は三分の一まで減った。にもかかわらず、沙帆の要求は回を重ねるごとに間隔が短くなっている。
今回はどうにか払えたが、次はもう支払えない。
携帯をわざと家に置いてきたのも、沙帆からの連絡が怖かったからだ。
いつまで償いは続くのだろう。
(でも、伊織さんと沙帆さんが結婚すれば、きっと終わる)
それまでの辛抱だ。
「ユキちゃん、暑い? 今日はもう帰ろうか?」
梅雨明け間近とはいえ、午前十時にもなればアスファルトは太陽に照らされ、ゆらゆらと陽炎ができるほどの熱さを持つ。ユキにしてみれば、照り返しとアスファルトからの熱気は人間の美緒とは比べものにならないほどで、十五分もすれば、だらりと舌を出していた。
だからといって距離を歩かなければ、またすぐ散歩に行こうとせがむのは目に見えていたので、美緒は最低でも三十分は歩くようにしている。ただし、午前中なら暑くなりきらない朝方、午後なら太陽が傾く六時頃を目途に出歩くようにしていた。
今日はまだ風があるので涼しいが、全身毛並みに覆われた犬の気持ちはやはり犬にしか分からない。
返事もしない様子にやれやれとため息をついて、もう少しだけ歩くことにした。
音楽プレイヤーからは男性アーティストの澄んだ声が流れている。
西に傾くほど茜色に染まる空に流れる薄い雲、頭上のずっと上の方で鳥が風を摑まえていた。
この情景に彼の伸びやかな美声は憎たらしいほど合っていて、何とも言えない切なさが胸をいっぱいにした。
澄み渡る声に心が洗われるようだ。
あれほど辛かった時間が噓みたいに、泉田野での暮らしは美緒に優しい。
(ずっとここに居られればいいのに)
今日もしっかりと散歩を堪能したユキを連れて家に戻る途中、忘れずに新井家へ寄った。
「いらっしゃい。待ってたのよ」
ユキはさっさと玄関タイルに寝そべった。だらりと口から垂れた長い舌がタイルについているのもお構いなしで、はあはあと息をしている。
(だから言ったのに)
笑顔で美緒たちを出迎えてくれた好恵は、ユキ専用の水飲みに水を入れて持って来てくれた。
「はぁい、ユキちゃん。お水飲んでね」
ユキはゆっくりと身体を起こすと、ものすごい勢いで水を飲んだ。そうしてまたタイルに寝そべった。
その様子に苦笑いをしながら、好恵が「これね」と玄関先に用意してあった野菜の入った紙袋を指した。
その数、三袋。
「すごい立派なキャベツ」
「でしょう? 終わりかけので申し訳ないんだけど、消費に協力してくれない? 自家栽培のいいところは新鮮な野菜を食べられることだけど、延々と同じ野菜を食べなくちゃいけないのが難点なのよね。でも、そんなこと作っている人の前では言えないし。啓太も飽き飽きしているみたいで、さっきも〝俺は芋虫じゃない。肉を出せ!〟って言ってたわ」
「中学三年生ですもん、育ち盛りですからね。今日は野球じゃないんですか?」
「最近、あの子成長期になっちゃって骨が痛いんだって。で、今日は部活もお休み。ここぞとばかりに部屋でゲームしてるわ」
「へぇ、骨が……。すごいですね」
「男の子だしねぇ~。玉ねぎも持っていくでしょ? じゃがいもも掘ったから持っていってね」
「ありがとうございます」
キャベツに玉ねぎ。じゃがいもの他には、オクラとナス。トマトとキュウリまで入っている。
(すごい、これだけで何日お買い物に行かなくてすむかしら)
「おばあちゃん、いつまでもお元気で嬉しいです」
「そうでしょう? 毎朝、手押し車押しながらせっせと畑に行ってるのよ。おじいちゃんが死んじゃって、一人じゃ何かと大変だからもう少し作る数を減らしたらって言ってるんだけど、やっぱり楽しいらしくてね。まぁ、元気だと私としてもありがたいことだしいいんだけど。力仕事が必要なときはうちの人がかり出されてるわ。ほら、見た目だけは頼もしいじゃない?」
消防署に勤めている好恵の夫は、隆々とした筋肉に見合った頼もしい体軀をしていた。
「あの人もブツブツ言いながらも、母親には逆らえないみたい」
「おばあちゃん、強そうですものね」
この辺りの地主でもある新井家を切り盛りしてきた人だ。老いても、上に立っていた者が持つ独特の風格は損なわれることはない。
「あ~……、でも美緒ちゃん一人じゃこの量は重たいわね。ちょっと待ってて、──啓太ぁ! 啓太、下りてらっしゃい!!」
「あ、いえっ。大丈夫です。すぐそこですし」
「いいのいいの、啓太ぁぁっ、美緒ちゃんのとこまで野菜持ってって!」
好恵が大声を張り上げると、「母さん、今俺忙しいんだよっ!」と二階から声がした。
「ゲームのどこが忙しいの! たまには勉強でもしてるって言ったらどうなのよ、受験生でしょうが!! 言っておくけど、高校落ちたらただじゃおかないよ! ほら、さっさと下りてらっしゃいっ。じゃないとあんたの恥ずかしい話、今すぐ美緒ちゃんにバラすっ!!」
その直後、けたたましくドアが開く音がして、啓太がダッシュで階段を駆け下りてきた。
「恥ずかしい話って何だよっ!? んなこと言ったら、承知しないからなっ!」
顔を真っ赤にして唾を飛ばす啓太に、好恵がニヤニヤしながら「はは~ん」と笑った。
「へぇ、あるんだ?」
「ねーよ!」
「美緒ちゃん、この子ったらベッドの下にね」
「言うなっつってんだろ!! エロ本なんか隠してねーぞ! 美緒もニヤニヤするなっ! どれ持ってけばいいんだよ、これかっ!?」
啓太がスニーカーに乱暴に足を入れて、ビニール袋をすべて両手にぶら下げた。
「重いから、半分ずつにしましょう?」
手を差し出すと、「こんなの重くねぇし」と突っぱねられた。
「いやぁね、いっちょ前に色気づいちゃって」
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