いとしい君に愛を乞う 不器用な暴君は妻を溺愛する

宇奈月香

プロローグ (1)




プロローグ




「ユキちゃん、おいで。お散歩に行くよ」

 先に玄関で準備を済ませた美緒が声をかける。するとカチャカチャと床を歩く音をさせながらキャバリア・キング・チャールズ・スパニエルの「ユキちゃん」が勢いよく飛び出して来た。

 犬雑誌についてきた付録のバッグの中には、おやつの入った小瓶、水差し。そして汚物を取るときに使うトイレットペーパーが入っている。

 部屋着のワンピースに薄手のカーディガンを羽織っただけのいでたちで、愛犬ユキを迎えた美緒の耳にはワイヤレスのイヤフォン。

 バッグと汚物入れを持ち、五メートルまで伸縮可能なリードの端を持って、その場にしゃがんだ。足下には玄関の引き戸が開くのを今か今かと待ち構えているユキが居る。

「ほら、ユキちゃん。お座り、お座りして」

 リードをつけるときは、必ずお座りをさせてからというのが美緒とユキの間での決めごとだ。

 お座りをさせることは、主従関係を築く上で欠かせない基本中の基本。なので、美緒は絶対にお座りをしないとリードをつけないことにしていた。

 だが、ユキはまだ美緒を完全にだと思っていないらしく、自分の欲求が満たされないことにイライラして、自分の後ろ足をガウガウ吠えながらいつまでも追いかけ回している。一旦こうなってしまったら、何をしても無理だ。

 結局今日もおやつをちらつかせてお座りをさせた。

「あら、美緒ちゃん。散歩?」

 外に出て郵便受けに入っていた美緒宛ての郵便物を見ていると、近所に住む新井好恵が声をかけてきた。自転車カゴには買い物帰りらしいぱんぱんに膨らんだエコバッグが入っている。

「はい。やっと日も傾いてきたし、ユキのお散歩に行ってきます」

「あらぁ、ユキちゃん。いいわねぇ」

 さっきまであれほど不機嫌だったくせに、好恵の顔を見た途端、はち切れんばかりに振った尻尾が美緒の足を叩いた。

(私のときと態度が違いすぎない?)

「帰りに家に寄ってね。お野菜がたくさん取れたから、おばあちゃんが美緒ちゃんにも渡してと言っていたの」

「いつもすみません。助かります」

「いいのよぉ、うちも鷹塚のおばあちゃんにはずっとお世話になってきたんだもの。あんなにお元気だったのに、本当に残念だわ」

 美緒が住んでいる家は、美緒の父方の祖母が住んでいたものだ。祖母は半年前に脳梗塞で亡くなった。ユキも元々は祖母が飼っていた犬だ。

「それじゃ、好恵さん。行ってきます」

「行ってらっしゃい。美緒ちゃんもあまり無理をしたら駄目よ。脚が痛むようなら遠慮なく言ってね。いつでもお散歩くらい代わってあげるから」

「ありがとうございます」

 まだ尻尾を振っている調子のいい愛犬をやや引っ張りぎみにして歩き始める。不満そうな顔を見せるも、ユキはすぐに美緒の前を歩き出した。

 ふさふさの尻尾がピンと空を指していて、歩くたびにゆらゆらと左右に揺れている。

 ブレンハイム特有の茶色と白の毛並みの割合が一対九と、かなりアンバランスな配合のユキだが、両親の祖父母はチャンピオン犬という由緒正しき血統の持ち主なのだ。今年で十歳になる。

 でも、いくら血筋がよくても、残念ながらユキに高貴さは微塵も感じられない。美緒のが至らなかったのか、今ではわがままし放題の立派なお姫様だ。

 女の子なのに、会う人には大抵「男の子ですか?」と言われるほど、体格もいい。

(まぁ、いいんだけれど)

 ぷりぷりと腰をくねらせて歩く後ろ姿は、毎日見ても可愛い。

 時々、ちらりとこちらをい見る仕草など、美緒の心を鷲摑みにしてくる。たとえそれが「おやつちょうだい」のおねだりだと分かっていても、ついされてしまうから六歳年上の従兄や、好恵の息子の啓太に「駄目主人」だと言われてしまうのだろう。

 美緒が暮らす泉田野の地区内を走る細い道を、ゆっくりとユキと共に歩く。車の少ない道を選んで歩いているうちに、自然と散歩コースが出来上がっていった。

 中学校が近くにあるので、この時間帯は部活動をする子どもたちの声がグラウンドから聞こえていた。

 東京に居た頃には、想像もつかないほどのどかな時間だ。

「ねぇ、ユキちゃん。少しは私との暮らしに慣れてくれた?」

 美緒が泉田野に越してきたのは、三カ月ほど前だ。

 始めは美緒に警戒して近づこうともしなかったユキだったが、最近は諦めたのか祖母の家で暮らすことを容認してくれている。

「ユキちゃん、聞いてる?」

 ユキは美緒の声に反応して顔を上げるも、手におやつを持っていないと知ると、知らん顔してすたすたと歩いた。つれない態度に苦笑いをして、おやつをあげようと鞄の中に手を入れた。

(そうだ。郵便物を持ったまま来ちゃったんだわ)

 持って来る予定はなかったのだが、好恵に声をかけられたときに鞄にしまったままになったのだ。

薙沢美緒 様】

 鷹塚の家に転送されてくる郵便物は、いまだに薙沢姓のままだ。

 夫である伊織から離婚を切り出された直後の交通事故からもうすぐ一年になろうとしている。脚の骨折から七カ月に及ぶ入院とリハビリを経て、ようやく日常生活に戻れるまでになった。

 これまではままならない事情があったから伊織も離婚を踏みとどまってくれていたのだろうが、郵送した離婚届と共に近況をる短い手紙をつけたので、彼も美緒が日常生活に戻っていることは知っているはずだ。

 それとも、郵便物自体に気づいていないのだろうか。

(まさか、そんなはずないわ。離婚しないと再婚もできないもの)

 伊織は美緒以外の女性と関係を持っていた。

 相手は新進気鋭のクリエイターで、伊織と大学時代からの友人でもある小荒井沙帆だ。

 美緒の存在を知りながらも、彼女は堂々と伊織の側に居続けた。

 まるで自分こそ伊織の妻であるかのような振る舞いに痛みを覚えながらも、美緒は黙認し続けるしかなかった。

 ──お金が足りなくなったの。五百万ほど振り込んでちょうだい。

 一昨日の昼間にかかってきた電話を思い出し、美緒は重いため息をついた。

 最近は沙帆が新作を出したという話題も聞かない。もう絵は描いていないのだろうか。

 ──あんたのせいで、恋人だった私は愛人の立場に追いやられる羽目になったのよ。私が伊織と過ごすはずだった幸せの代償を払ってよ。

 沙帆から連絡がきたのは、結婚してすぐだった。

 伊織が結婚前に沙帆と付き合っていたことすら知らなかった美緒には、寝耳に水だった。結婚を迫ったのは伊織だ。当初、自分に文句を言うのはお門違いではないかとも思ったが、沙帆は他人が知るよしのないことまで知っていた。美緒たちの夫婦生活についてだ。

 ──伊織が言ってたわよ。あんなの浮いた身体なんて抱く気も失せる。老婆みたいだったって。

「いとしい君に愛を乞う 不器用な暴君は妻を溺愛する」を読んでいる人はこの作品も読んでいます