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新婚から恋をはじめましょう 敏腕社長秘書と若奥さまの極上トロ甘生活

御厨翠

1章 初恋の人が旦那様になりました (2)

 背後の男は杏南が抵抗しないのをいいことに、手のひらを下に移動させた。スカートを押し込むようにして、秘められた場所に指を這わせられた。

「っ……!」

 いよいよ図に乗った犯罪者の行為に、目の前が暗くなりかけた、そのときである。

「──失礼。次の駅で降りてもらえますか」

 冷ややかな声とともに、杏南の臀部から手が離れた。

(えっ……)

 恐る恐る振り返ると、スーツを隙なく着こなした男性が、杏南の背後にいた男の手首をつかんでいた。スーツの男性は、痴漢と思しき男の手を肩より高い位置まで持ち上げると、高らかに言い放つ。

「痴漢は犯罪です。現行犯ですし、言い逃れはできませんよ」

「なっ、俺はそんなことしてねえよ! 適当なこと言って恥かかせるなんて、どうなるかわかってんのか!」

 スーツの男性の糾弾に痴漢は激高した。帽子を目深にかぶっていて顔は見えないが、Tシャツにジーパンというラフな服装であることから、若いような印象を受ける。この男が自分に痴漢行為を働いたのだと思うと、恐怖で男と目を合わすことができない。

「俺が痴漢だっていうなら証拠出せよ、証拠!」

「私が証人です。言い訳は警官の前でなさってください」

 いっさいの容赦なく痴漢を追い詰めるスーツ姿の男性の声を聞き、周囲の乗客の間にざわめきが広がった。「痴漢? サイテー」「冤罪じゃねーの?」そんな感想や憶測が飛び交っている。

(ここでわたしが声を上げないと、助けてくれた人に迷惑がかかるかもしれない……!)

 本当は恥ずかしかったし、痴漢が近くにいることも、注目されることも怖かった。それでも杏南は、まだ震えている手を握りしめると、自分を助けてくれた男性の言葉が真実だと訴えようとする。

 しかし、ありったけの勇気を振り絞って口を開こうとしたとき、駅に着いた電車が停車した。反対側のドアが開くと、痴漢はつかまれていた手を無理やり振り払った。

「あっ……」

 杏南が声をあげたと同時に、吐き出されていく人波に紛れ、痴漢が素早く逃げ去った。

「待て……っ」

 助けてくれた男性は追いかけようとしたものの、車内に乗り込んでくる乗客に押されて身動きが取れなくなった。そうこうするうちにドアが閉まり、電車が走り出してしまう。

「申し訳ありません。犯人を逃がしてしまって」

 先ほどの混雑よりもましになった車内で、男性に声をかけられた。杏南は首を振ると、消え入りそうな声で礼を言う。

「あの……助けていただいて、ありがとうございました……わたし、ひとりではどうすることもできなくて……」

「怖かったでしょう。もう少し早く気づくことができればよかったのですが」

「そんなこと……」

 そう答えながらも、まだ肩は震えている。男性の目を引くことはままあったけれど、今回のような痴漢行為を受けたのは初めてだから無理もない。

 青ざめる杏南を見た男性は痛々しげに眉根を寄せた。

「もし気分が優れないようであれば、駅の救護室までお連れしますが。それとも鉄道警察に被害を訴えますか? 必要であれば私も証言します」

「い、いえ……そこまでご迷惑をおかけするわけには」

 痴漢は逃げてしまったし、あまり大事にしたくない。警察に行けば、根掘り葉掘り聞かれることになるだろうし、これ以上嫌な思いをしたくないというのが本音だ。

 落ち着いた声と自分を気遣う言葉にようやく震えが収まった杏南は、顔を上げて答えた。そこで初めて男性と目が合い、思わず見惚れてしまう。

 助けてくれた男性は、息を吞むような美形だった。銀の細いフレームに涼やかな目もとは理知的で、見る者にクールでストイックな印象を与える。だが、声はとてもやわらかい。落ち着いた低い声は聞いていると心地よく、他者に安心感を与えた。

「そうですか。では、最寄り駅までご一緒しましょう」

「えっ……」

「その制服は、『聖女子学園』でしょう。私の利用する駅の手前にあるので知っているんですよ」

 ということは、この男性は同じ路線にある会社に勤めているのだろうか。いつも女性専用車両を利用しているから気づかなかったが、もしかしたらどこかですれ違ったこともあるかもしれない。杏南がそんなことを考えているうちに、ひと駅過ぎた。男性はその間、ドアを背にして立っている杏南を守るような体勢で正面にいてくれたため、他の乗客とは接触せずに済んだ。

 やがて杏南が降りる駅に近づき、到着を告げるアナウンスが流れる。するとそこで、男性が初めて表情を緩める。

「それでは、今後の通学は、女性専用車両に乗ることをお勧めします。ああいった不埒にまた狙われないとも限りませんからね」

「あ……ありがとうございます」

 ドアが開くと、背後から押し出されるようにホームに降り立つ。男性はドアの付近に立ったまま、電車が走り出すまで杏南を見てくれていた。

(もっとちゃんとお礼を言えればよかったな……)

 名残を惜しむようにホームから遠ざかる電車を見つめながら、自分の迂闊さを悔やむ。

 杏南は文字通り箱入り娘で、今回のような事件に遭遇したことはなく、ひとりでは対応できなかった。あの男性に助けてもらわなければ、どうなっていたかわからないのだ。

 誰も気づいてくれなかった危機に、見ず知らずの人が気づいてくれた。彼は杏南にとってヒーローといってもいい存在で、ただただ感謝に堪えない。

(同じ沿線を使っているなら、また会えることもある……よね)

 次に会ったときは、今度こそもっとちゃんとお礼を言おう。そう心に決めて改札に向かうと、幼なじみの岸田しおりが改札を出たところで待っていた。

「おはよ、杏南。今日は遅かったのね」

 ロングの黒髪をかき上げて声をかけてくる幼なじみに、杏南はホッとして「おはよう」と答えて笑みを浮かべた。

 しおりは小学校からずっと一緒の学校に通う親友で、『しーちゃん』『杏南』と呼び合う仲だ。彼女の父も有名化粧品メーカーの社長を務めていて、杏南とは似たような境遇だったが、性格や見た目はまるで違った。世間ずれしておらず、年齢よりも童顔な杏南に対し、しおりは大人っぽい顔立ちで頼りがいがある。同じ年齢でありながら、姉妹のような関係性がお互いに心地よくて、付き合いは長かった。

「ちょっと、いつもの電車に乗り遅れて……それで、アクシデントもあって」

 杏南は、つい先ほど電車内で遭遇した出来事を話して聞かせる。するとしおりは、みるみるうちに表情を険しくさせた。

「痴漢!? 何それ最低……!」

「しっ、しーちゃん! 声大きいってば」

 キョロキョロと周囲を見回して人差し指を自分の唇にあてた杏南は、しおりの背を押して学校へと歩き出した。さすがに誰が聞いているかわからない駅の構内で、痴漢をされたと大きな声で言われると恥ずかしい。

「でも、無事でよかった。助けてくれた男の人に感謝しないとね」

 しおりの言葉に頷くと、助けてくれた男性の顔を思い浮かべる。

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