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腐女子のわたしが鬼畜彼氏に極愛されました。

水戸泉

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 画材と教科書、それにパソコンは奨学金で買った。それでなんとか、卒業できるはずだった。

 絵理菜は、イラストレーターになりたかった。

 絵理菜の父も同じ美大の出身で、絵がとても巧かった。絵理菜自身も、子供の時分から何度も絵画で賞を獲った。

 美大の受験そのものは、絵理菜にとっては難しくなかったし、入学後に山積される課題の提出も楽しかった。時々友達に頼まれて、同人誌の表紙を描いたりもした。

 いわゆる腐女子であることを、絵理菜は隠していなかったが、指導教官がいたく絵理菜を気に入っており、彼は絵理菜が漫画の絵を描くことを嫌がった。線に変な癖がつくからやめろと、絵理菜は教官から強く言い含められていた。

 絵理菜は素直にそれに従い、漫画の絵は描いても、ごく限られた友人にしか見せなかった。見つかれば、指導教官に怒られるからだ。

 ただつらかったのは、睡眠時間が五時間以上は確保できないことだけだ。それ以外は何もつらくなかった。

 絵理菜がアパートを出なければならなくなった最大の『理由』は、風邪をひいたせいだった。

 ひどい流行性感冒で熱が下がらず、絵理菜は一週間寝こんだ。そのせいで一気に家計の収支が破綻した。

 その後、絵理菜は3LDK、築四十五年の中古マンションを六部屋に違法改造した『シェアハウス』に引っ越した。

 シェアハウスとは名ばかりで、家賃一万五千円の絵理菜の部屋は、四畳の部屋を上下に分割し、無理矢理部屋数を増やしたせいで天井が低く、身長百五十三センチの絵理菜でさえまともに立ち上がれなかった。膝を伸ばして直立すれば、天井に頭がぶつかる。

 それでもエアコンはついていたし、布団に横たわることはできる。

 絵理菜には特に不満はなかった。一回三百円で風呂を使わせてもらえるのも、ありがたかった。

 実際のところ、その三百円も惜しかったから、風呂を使うのは週に一度きりだったが、普段は隙を見て洗面所か台所の水道を使って身を清めるのが習慣になっていた。他の住人たちもそうしていたから、特に問題にはならなかった。

 画材をすべて部屋に運びこむことは不可能だったから、大学に事情を話して、預かってもらった。

 それでなんとか、やっていけるはずだった。

 けれども『楽園』は長くは続かず、違法シェアハウスは摘発を受けた。消防法も何もかも無視した造りなのだから、当然といえば当然である。

 追い出された住人たちは、互いに目を合わせることもせず、三々五々に散っていった。住人の半数は日本語を満足に喋れず、そこに連帯や友情のようなものが生まれることはなかった。

 生じたのは、うっかり共用部分に私物を置いて目を離すと、紛失することが間々あることによる警戒心くらいだ。

 そういう環境にも、絵理菜は自然に溶けこむ。

 決して悪事に染まることはなかったが、劣悪な環境で生きることには適応しやすかった。しかし、そんな忍耐力にも、限界が来ていた。

 くして住所不定の上に保証人もいない絵理菜は、二度とまともな屋根のある家には住めない予感がしていた。

(課題、やばいなあ……。でも、大学にはもう泊めてもらえないし)

 課題を片づけたいという理由なら、美大は深夜までの残留を見逃してくれたが、最近はそれもできない。近隣(と言っても一キロ先)の住人からのクレームで、禁止されたのだ。

 一キロも離れた場所から、どうやって学生の騒ぐ声を聞き取るんだろうねと守衛が皮肉を言った。

(大学にいられれば、テレビも見られたんだけどな)

 好きなアニメを見られないのも、絵理菜にはなかなかつらい。

 スマホは通信制限が気になるのと、いつでも充電できる環境ではないから、不用意には使えない。

(それに、大学にいられれば、仲良し男子二人組のいちゃつきで萌えも補給できたよね……)

 本当なら二次元で萌えを補給したいところではあったが、あまりにも貧乏すぎてコンテンツの閲覧にすら事欠く日々だ。

 幸いにして絵理菜の通う関東芸術大学は、男子生徒のほうが人数が多く、美大だけあってオシャレでルックスに恵まれた学生も少なくなかった。

 美大生同士、頼めばスケッチくらいはさせてくれるし、お礼に絵理菜のほうがモデルを引き受けたこともある。ゲイが多いため、身の安全が保障されているのもありがたい環境であった。

(もう少し寝ないと、バイトと学校に行くの、きついなあ……)

 ふらつく足で、絵理菜は雑踏を歩く。

 卒業だけは絶対にしたかった。

 絵理菜はすでにネットの登録サイトでイラストの仕事を請け負ってはいたが、登録して以降、依頼は一件しか来ていない。

 登録サイトが誰にでも一度はくれる、スーパーのチラシの小さなカット一点だけだ。原稿料は三百円だった。

 卒業後はデザイン会社に就職して、いずれはイラストレーターとして独立したい。それが絵理菜の夢だった。

(落ちこんでる場合じゃないよね。がんばらなきゃ)

 絵理菜は一度だけ携帯電話の電源を入れ、壁紙にしている絵を眺めた。

 小さく可愛らしい動物たちが遊ぶ庭が描かれた風景画は、絵理菜が子供の時からずっと愛し続けている絵だった。

 子供時代にこの絵を愛しすぎたせいで、絵理菜は風景画ばかり描いている。

 たまたまネットで見つけた絵だったが、絵理菜の人生を変えた絵であることに間違いはなかった。

 この絵がアップロードされていたホームページは、もはや存在しない。ある時いきなり消えてしまった。

 絵の作者は名前どころかハンドルネームすら掲載せず、ただ『S』とイニシャルだけが表記されていた。

 心が折れそうな時、絵理菜はいつもこの絵を見る。

 絶対に失いたくないから、プリントアウトもしているし、データもハードディスクとクラウドに保存するという念の入れようだ。

 この絵は絵理菜のすべてだった。小さな生き物が虐げられることなく遊ぶ小さな庭の光景には、絵理菜が夢見るすべてが存在していた。

 家はなくても、バイトはある。バイトがあるだけ、マシな状況だ。絵は、本気になればどこでも描ける。

 あとは睡眠の問題だけ解決できればいいと自分を励まし、絵理菜は朝焼けの街を歩いた。

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