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おじさま教授の甘く執拗な蜜愛

橘志摩

1.懐かしい空気




1.懐かしい空気




 そのバルコニーから空を見上げた時、見えるのは星の浮かぶ夜空だ。

 綺麗な星空だと謳われる場所に比べれば全然見えない方なのだろうが、それでも今のには確かに合っている。

 缶ビールのプルタブを開けて口をつけると、口内にビールの苦さがパッと広がっていく。

 その苦みも、今の結花の気持ちに寄り添っているようで、ちょうどいいと思った。

「……懐かしい顔がいるね」

 不意に聞こえたそのく懐かしい声に、結花の心が小さく音を立てる。ビールを握る手に、少しだけ力がった。

「……高科准教授……、まだいらっしゃったんですか」

「まだ、とはおかしなことを言うね。ここは大学だよ。むしろ、もうとっくの昔に卒業した君がここにいることの方が不思議なんだけどね。星崎君」

「……名前を覚えていられたとはびっくりです」

「僕の記憶力はそれほど悪くないんだよ。文学部に在籍していたのに、理系ばっかりが集まる天文サークルにいた星崎君のことを忘れるなんてそうそうできないとは思わないか。……それに君とは、昔ここでよく会ったしね」

 彼の言葉どおり、結花は大学在籍中からこの場所によく来ていた。だがそれは、星を見るため、なんて理由ではない。彼もそのことを知っているのだろう。

 結花一人しかいなかったその場所に入ってきた彼は、手に持っていたレジュメを脇に抱えてから、タバコを口にえて火をつけた。

 彼の吐き出した息が、白い煙となって空に上っていく。

 結花は自分のから溢れた涙を少し乱暴に擦った。

「……また、失恋かい?」

「……うるさいです」

「……君は本当に、なんて言うか、学習能力がないねぇ」

 言葉に滲んだ笑いは労わりなのか、それとも哀れみなのか、今の結花には判断がつかない。

 ポンと頭に置かれた掌の優しさに、また涙が溢れ出て、結花は耐えきれず膝に顔を埋めた。

「……もっといい恋愛をしなさいと、卒業前に言ったような記憶があるけどね。社会人になったんだからもう少し慎重になりなさい」

「……し、慎重になってましたよ……! 変な男と付き合いたくなかったもん!」

「それならなんで君はまたここで、泣いてるの。男に振られるたびに泣きつかれる星空が可哀想だ」

「……私がここに来たのは、星空に泣きつきに来たわけじゃないです!」

「……ならどうして?」

 勢いよく顔を上げた結花とは違い、彼はゆっくりと煙を吐き出してから結花を見た。

 そこで初めて視線が重なった。眼鏡越しに見えた瞳の色は、昔と変わらず、落ち着いている。

 短くも長くもない黒髪。それは光の加減で時折茶色くも見える。ノンフレームの眼鏡は彼によく似合っていて、知的さを醸し出している。少しシワの寄ったシャツの上に白衣を着ている姿は医者にも学者にも見えた。だが、そのレンズの向こう側にある冷たい瞳のせいで、近寄りがたい雰囲気も同時に出ていた。学生時代、彼の周りに人が集まっているのを見たことがない。

 あの頃から年を取ったはずなのに、そんな感じも全くない。

 タバコを吸う姿も、冷たく見える瞳も、少し雑多に見えるその装いも、結花の記憶の中にあったその人の姿と、微塵も変わらない。

 結花がここに、星空を見るために来たわけじゃないことは本当だ。星にって救われたのは、まだ大学生だった頃の話。今は、もっともっと現実的で、直接的なものに縋りたかった。

 そう思って、頭に浮かんだのは、目の前にいるその人の姿だけだった。

 結花は小さく息を吐いて、もう一度涙を拭う。言葉を口にすることを少しだけ迷って、小さく唇を嚙んだ。

「……高科准教授」

「……知らないみたいだから言うけど、僕はもう教授だよ。大体、昔も准教授なんて呼んだことない子にそう呼ばれるとむず痒いからやめてくれる?」

「……高科先生!」

「はい、なんですか。星崎さん」

 クスクスと小さく笑うその顔は、きっと結花をからかって遊んでいるのだろう。気を紛らわせようとしてくれているのだとわかったが、欲しいのはそれじゃない。

「……先生は、私に女性としての魅力、感じますか。今、……私が、抱いて欲しいって言ったら、抱きたいって思ってくれますか」




 結花の言葉に、彼は一瞬呆気に取られて、だがすぐに、穏やかな笑みを浮かべた。

「……酔った勢いで、滅多なこと言うんじゃないよ。自分の身体は大事にしなさい」

「大事にしてます! してるから……! だって、私だって、自信、欲しいのに……っ! 先生にまで、そんな色気ないって言われたら……っ」

 涙で潤んだ声を上げた結花の耳に、深い溜め息の音が届く。呆れられたと感じたその恐怖に肩が跳ねる。

 だが、今、結花は彼に問いかけた言葉を取り消す気はない。もう後戻りはできないし、する気もない。手が震えてしまうのは、きっと、アルコールのせいだろう。そう思い込まなければ、今にも足が竦んでしまいそうだ。

 その人の歩く音に、床が鈍くむ音を立てた。

「───ヤケになってるんじゃないならいいけど。……でも、後悔したなんて、言わないって、約束してね」

 耳に吹き込まれた声は、とても色っぽく聞こえた。

 どうしてこんなことになったんだろう。そうは思っても、もう後には引けない。

 結花は息を呑んで、彼の手をそっと握った。

「……僕が本気になったら、君のことを逃がしてあげられない」

 42歳という年齢なのに、見た目はそう感じさせない。口元は笑っているのに瞳は真剣で、ちっとも笑っていない。

 自分から言い出したことだとはいえ、身体に緊張が走る。

 二度目に握ったその人の手は、思ったより温かくて、見た目の冷たさとは裏腹に、とてもとても優しかった。

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