恋する王子の溺愛事情 艶声カレシ

麻生ミカリ

第一話 深夜0時の王子さま (3)

 ことわざの使い方に大きな間違いを感じながら、指摘するのも面倒になって茉莉花は大きくため息をついた。

 そんな彼女の態度を見て──いや、彼女がどんな態度をとろうと気にしたりしないのかもしれないが、とにかく拓馬はリモコンのボタンを押した。彼の座る正面、壁に備え付けられた大きな液晶画面いっぱいに映像が映し出される。同時に、天井の四隅に設置されたスピーカーから音楽が響いた。

 ──ああもう、どこまで強引なのよ。天才だろうとなんだろうと、イロモノまがいのイケメンミュージシャンなんていて捨てるほど……

 斜に構えて画面を睨んでいた茉莉花の目が、不意に見開かれる。

 そこに映っているのは、黒一色に身を包んだひどく気だるげな男。

「……え……?」

 まなざしひとつで、彼は画面の前に立つ茉莉花を射すくめた。低音から舐めるように這い上がってくる淫靡なベースライン、それにかぶせたギターのみとホーンセクションの鮮やかな響き。それらすべてを従えた黒の王子さながらに、彼は冷たい目をして歌い始める。

 ──ウソ、でしょ?

 先刻、彼女のアパートで話していたのと同一人物とは思えない。艶のある濡れた歌声が、鼓膜を淫らに震わせる。低く、甘く、腰に響くメロディ。

 その声は、胸の内側をはしたなく撫でるように、彼女のなかへ音楽という名の快楽を伝えてきた。圧倒的な歌唱力と、魅惑的な無表情の仮面、そしてまれなる艶のある声質は、かつて茉莉花が夢を追っていたころの残滓を心の奥からかきだそうとする。

 ──これが、目の前にいるこの子と同一人物だっていうの?

 自分のMVを前に、奏多はつまらなそうにあくびをした。気まぐれなネコのような仕草と、ふわふわの茶色い髪。姿形は画面の向こうで歌う男と同じだというのに、印象が違いすぎる。

「……天才かどうかは知らないけど、ずいぶん化けるんですね」

 精一杯の虚勢で、平静を装って彼女はそう言った。

「この声で、世界を相手に戦ってみたくならないなんて嘘だよね?」

 胸に両腕を組んで、さも満足げに拓馬がにやりと笑みを浮かべた。

 そして、当の本人は──

「茉莉花サンの両親って、ヒダマリって呼ばれるのを見越して名前つけたのかなー」

 マフラーの先端をいじりながら、鼻にシワを寄せてひとり遊びに没頭しているというのだから、画面に映るミュージシャン『乃木坂奏多』と同一人物かどうか、本気で危ぶむレベルだ。

 たしかに彼は天才なのだろう。

 得てして天才とは、凡人には理解できない言動を常とする。非凡な才に恵まれたゆえに人間らしさを伴わない逸話は、過去の天才たちにも少なくない。

 ──そういうの抜きにしても、この声はスゴイけど。

「そこでね、ヒダマリ、きみには乃木坂奏多のマネージャー兼教育係を担ってもらおうと考えているんだ」

 拓馬は椅子が後ろに倒れるのではないかと心配になるほど背もたれをしならせ、もとより高い鼻をさらに高く高く言い放った。

「……勝手に考えないでください」

 マネージャーならわからなくもないが、教育係とはいかなるものか。はっきり言って、一般常識のないいきもの相手に教育なぞできるほど、茉莉花は人間ができていない。

「見てのとおり、奏多は天才だ。歌わせればわかる。だけど、残念な人間性のおかげでインタビューにもライヴにも踏み切れないんだよね、ハハッ」




 まあ、あの映像とギャップがある人間性なのは事実だろう。とはいえ、エロティシズムの極致とも思える存在が、じつはただの天然だと知っても応援してくれるファンはいるはずだ。同時に、歌唱力と外見にそぐわない人間性は、業界からイロモノ扱いされる可能性も高い。

「かといって、奏多の実像を誰彼構わず知らせるわけにもいかないからねえ。俺自ら教育したいところなんだけど事務所を束ねる身としてはね、ほら、そうもいかないから」

 ──社長が教育なんてしたら、ますます厄介な人間性にれてこじれてメビウスのエンドレスループよ!

 何度目になるかわからないため息をのみ込んで、茉莉花は軽く肩をすくめる。

「つまりヒダマリには、れなき乃木坂奏多を自分の色に染め上げ、あまつさえプロデュースするという大役を……」

「お断りします」

 食い気味にずばっと返答の刀を斬りつけて、茉莉花はソファに座る天才を横目で見やった。

 彼がどんな才能に恵まれているにしろ、自分はもう業界から離れた人間だ。今さら戻るつもりなど毛頭ない。乃木坂奏多という存在に魅力を感じないわけではなくとも、芸能界という荒波に揉まれるのはまっぴらだ。

「今後の奏多の戦略において、ヒダマリは絶対に必要な人間なんだ」

 ひどく真剣な表情で告げる拓馬を尻目に、話題の中心であるはずの奏多本人は右手と左手でじゃんけんを始めた。フリーダムこの上なし。あるいはただのバカ。

「そんなこと、わたしには関係ありません。今の彼のマネージャーが教育だろうとなんだろうとすればいいじゃありませんか」

「ハッハッハ、そう来るだろうと思っていたよ! でも残念だったねえ。マネージャーの布田くんは現在、胃潰瘍で入院中だ。鬼嫁と人間語を理解できない天才に挟まれ、凡人は体調を崩してしまいましたとさ!」

 なぜ偉そうにそんなことを自慢するのやら、相変わらずこの男は茉莉花の理解を超える。いっそ清々しいまでに、拓馬は拓馬だった。

「そして我々には切り札がある。ヒダマリ、さっき写真を撮られたんじゃない?」

「……はァ……?」

 だからなんだというのか。その写真を公開して困るのは、一般人の茉莉花ではなく芸能人の奏多だけだ。

「マリリンが引き受けてくれないとぉ~、さっきの写真を熱愛ネタとして匿名掲示板とかにアップロードしちゃおうかなぁ~。それとも週刊誌に売っちゃおうかなぁ~?」

 突然のマリリン呼びもさることながら、その口調に鳥肌が立つ。筋肉質で濃い顔の男がやるには、あまりにリスキーなかわいこちゃんっぷりである。

「……キモっ」

 拓馬は一瞬、悔しげに唇を歪めた。しかし次の瞬間には平然と無茶ぶりを続ける。彼の辞書にはおそらく、羞恥心などという単語はない。

「ともあれヒダマリの平穏な人生をぶち壊すことくらい、俺にとってはで茶を沸かすようなものってことだよねえ」

 茉莉花は右手をひたいにあて、めまいのしそうな世界から目をそらした。

「あのですね、そんなことしたら大事なミュージシャンに傷がつくじゃないですか。バカなこと言ってないで……」

 茉莉花の言葉が終わるより早く、ソファに座っていた奏多が勢いよく立ち上がる。何事か。自分が話題の中心だということさえ気づかず、謎のひとりじゃんけんをしていたはずが飽きたのだろうか。

「やったー、ぼくのこと大事って言ってくれたー。じゃあ、これで決まりだよね? ね?」

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