恋する王子の溺愛事情 艶声カレシ

麻生ミカリ

第一話 深夜0時の王子さま (2)

 カン、カンカン……

 やけに軽妙な音を立てて、脱げた靴が階段を転がっていく。

「あっぶないなあ! 落ちたら痛いよー?」

「…………」

 茉莉花の手を握っているのは、正体不明の謎の青年。こんなリアリティのないシチュエーション、ドラマや映画のなかにしかないと思っていたのに、一体全体どうしたことだ。

 唐突な事態に対応しかねて声も出せずにいるのをいいことに、彼はつかんだ手を引き寄せる。細身に見えた乃木坂奏多は、軽々と彼女の体を抱き上げて、階段のいちばん上でその背に両腕をまわした。

 ヘーゼルナッツを思わせる薄茶の髪が、茉莉花の頰をかすめている。くすぐったいのに現実味がない。これは夢? わたしはもしかしたら、帰りの電車で眠ってしまっているのでは──と不安に駆られた、その瞬間。

「えーっと、とりあえず先に言っておくけど、ゴメンネ?」

 耳に唇が触れそうなほど近くで、彼は小さくそう言った。

 何を謝られているのかまったくわからない。先に言っておくということは、これから謝罪するような行動をとるということなのか。

 困惑から抜けだせずにいる茉莉花の視界のはしで、何かが二度連続で光った。それはまるで、カメラのフラッシュにも似ていた。

「オッケーっす、撮れました」

 階下から、またも聞き覚えのない声がする。ああ、やはりカメラだったのかなどと安堵する余裕はない。茉莉花はびくりと肩を揺らして、自分を抱きしめる優しい腕から顔を上げた。

「あなた、いったい何を……」

「ぼくね、アナタを迎えにきたんだ。あの写真、週刊誌とかに売られたくなかったら一緒に事務所まで来てくれる? JBリッジって、知ってるよね?」

 極上の笑みを浮かべて、彼──乃木坂奏多が尋ねてくる。

「…………そう、あのひとの差金ってわけね」

 忘れてしまいたかった過去が、どこからともなく手を伸ばして彼女をめ捕ろうとしていた。

 あの男がかかわっているとなれば、断ったところで何かしらほかの方法で茉莉花の日常に入り込んでくるのは決定的だ。だったら、せめて自分に選択権があるうちに対処したほうがいい。

「ところで茉莉花サンって抱き心地最高かも。マネージャーより、枕になってほしいなー」

 眉間にシワを寄せた彼女の表情など目に入ってもいないかのように、奏多は幸せいっぱいの声でそう言った。



 芸能事務所と名のつく会社は、東京だけでどのくらいの数があるのかわからない。実際に誰もが知る有名事務所から、いったいどんな仕事をしているのか見当もつかない弱小事務所、果ては詐欺まがいの契約でタレント志望の子からお金を巻き上げるようなところもある。

 JBリッジは、そういう意味では悪徳業者のようなことはしない。ただし、売れっ子のひとりもおらず、社長である日本橋拓馬の趣味の範疇なのではないかと思える程度の弱小事務所──だった。

 少なくとも、茉莉花が知っていたJBリッジはそういう会社だったのだ。

 二年前、やっと芽が出たタレントに裏切られ、予定していた入金がすべて無に帰したあのとき、拓馬は眉根を寄せて椅子に座っていた。


「やあやあ、おかえり、ヒダマリ。久しぶりだねえ」

 株式会社JBリッジ代表取締役社長、日本橋拓馬は二年前とまったく同じ調子で、フランスから取り寄せたお気に入りの椅子に座ったまま、何を考えているのか読めない笑顔でそう言う。

「わたしは別に戻ってきたわけではありません。脅されて仕方なく……」

「だろうねえ。ま、みなまで言うな。ほんとうは戻りたくて戻りたくて仕方なかったのは承知の上、ってね。マジメなヒダマリが、勝手に悶々と悩んでいるのを放置したのも俺の親心だからさ、遠慮なく感謝していいよ」

 三つ揃いの高級そうなスーツに男らしさを感じさせる体を包み、彫りの深い精悍な美貌の彼からは二年の歳月を感じられない。そして外見に似合わない軽口も相変わらずだ。茉莉花の知る限り、この男ほどひとを煙に巻く天才はいない。会話をしているように見えて、たいていの場合が拓馬の手のひらの上で転がされているのだから。

「さて、久々の逢瀬に感極まっているところを悪いんだけど、きみにはすぐさまとりかかってもらいたい仕事があってね」

「いや、あのですね、わたしはもうJBリッジの社員じゃありませんし」

「その仕事というのが、この俺が期待を寄せる稀代の天才、乃木坂奏多のマネジメントなんだよ! あ、期待と稀代、なんかうまいことを言っちゃったな、さすが俺! 世界がいちゃう!」

「社長、わたしは……」

「よーし、喜びにむせび泣くヒダマリにこの俺の広い胸を貸してやろう。さあ来い、どんと来い。涙と鼻水で再会を祝おう! 俺がどんなにしいからといってヨダレまでは垂らさないようにね!」

 両腕を広げて悦に入る拓馬を、バナナも凍るほどの冷たいまなざしで見下ろすと、茉莉花はすうっと息を吸った。

 遠回しな言い方が通じる相手ではない。言葉を選んでいるうちに、彼のレールに話が乗せられてしまう。言葉尻ひとつでも、好き放題に脚色しまくる詐欺師の手腕を持つ男だ。ならばこちらも言い逃れできない言葉で応戦するしかない。

「だから、ひとの話を聞けって言ってんでしょ! このヘンタイ脳筋社長!」

 夜のに包まれた社長室の窓がびりびりと震えるほどに大きな声で、茉莉花は思い切りよく怒鳴りつけた。こんな大声を出すのは何年ぶりだろう。いつも地味で目立たないよう、無口な日田茉莉花を演じてきた。感情をあらわにせず、腹がたってもその場を去るだけにとどめて、波風の立たない毎日を送ってきたというのに、この男を前にするとそうも言っていられない。

「ブラーヴァ! その切れ味、ヒダマリの刀身は鈍っていないようだねえ」

「…………そっちもお変わりないようで」

 まったくこたえた様子もなく、嬉しそうに両手を打ち鳴らした拓馬が、応接セットのソファにだらりと座っている青年──乃木坂奏多に視線を向けた。

「ところでヒダマリ、最近って音楽聴いてるかい? 彼の歌声を聴いたことは?」

 共通点は会話不成立タイプであることに尽きる奏多と拓馬、ふたりのそれぞれの言い分から察するところ、奏多はミュージシャンのようだ。稀代の天才かどうかは知らないけれど、顔も悪くないし清潔感と甘さをほどよく兼ね備えている。彼なら歌声だけではなく、タレントとしてもテレビを賑わせるだろう。

「いいえ、ありません。でも別に聴きたくないです。わたしはもう、この業界に戻るつもりなんて……」

「平凡な日常に埋もれていれば、鈍色の群衆にまぎれられると思っているのかな。それは愚者の浅知恵だよ。真実の才能を眼前にしながら素通りしようとするなんて、ましてもってのほか。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥と言う。つまりは──聴いてから判断すべし!」

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