恋する王子の溺愛事情 艶声カレシ

麻生ミカリ

第一話 深夜0時の王子さま (1)




第一話 深夜0時の王子さま




  夢を見せてあげる

  ねえ、サンパギータ

  ここに閉じ込めて きみを

  ぼくだけの世界に 永遠に



 ──夢を見なくなったのはいつからだろう。

 大きなバッグを肩にかけ、暗い帰り道を歩きながら茉莉花は小さく咳をする。吐き出した息が白い。

 最寄り駅から徒歩十五分。

 築二十三年のアパートは、オンボロといって差し支えない風格をたずさえている。おおよそ若い女性が住むには理想とかけ離れた物件だが、彼女はそんなことを気にしたりしなかった。

 どこにいても、誰といても、日田茉莉花は世界と馴れあうことをよしとせず、自ら孤独に手招きを繰り返す。

 二年前のあの日から、誰にも心を許すことはなかった。彼女の夢がシャボン玉のようにぱちんとはじけて消えてしまった、あの日以来──

 伸ばしっぱなしの黒髪をひとたばねにして首の後ろで結び、仕事用の濃紺のスーツにセルフレームのメガネで武装した彼女は、実年齢よりも五歳は上に見られがちだ。だが、それが茉莉花の望んだ結果だった。

 花の名が似合う愛らしい女の子になんてなれない。恋にうつつを抜かしてしまえば、いっそ胸の奥にぽっかりとあいた穴を埋めることもできるのかもしれないが、痛みを風化させられないほどに彼女は不器用で。

 あきらめたはずの夢が、どこまでも彼女を孤独に追いやっていく。

「はぁ……、重……っ」

 いつもならもうアパートに到着してもおかしくないのに、今日の茉莉花は大荷物のせいで足取りが重い。

 肩にかけた旅行用の大きなバッグには、今日まで勤めた会社での私物が詰まっている。契約社員として半年間、毎日の大半を会社で過ごした。

 無愛想で仕事以外に興味もなく、誰とも親しくなったりしなかったのだが、優しい同僚や上司の声が今はやけに耳に残る。

『ヒダマリさん、ほんとに辞めちゃうんですか?』

『キミさえ良ければ、契約社員じゃなく正社員として働いてもらいたいと思っていたんだが……』

『せめて送別会くらいさせてよ。これでサヨナラなんて寂しいでしょ』

 懐かしむにはまだ早い。そして、戻るにはもう遅い。決めたのは自分だ。ひとりでいることを望み、夢を見ない生活を選んだ。そうすることでしか自分を保つことができないなんて、弱くてくて頼りなくて情けない。

 古びた靴の踵を鳴らして、茉莉花は後ろ髪を引かれる気持ちを振り切った。

 この二年間、茉莉花は登録制の派遣会社を通じて数カ所の中小企業で事務職に就いたけれど、決して契約更新をしなかった。

 どんなに居心地の好い場所だって、永遠に居座ることはできない。だったら最初から、大切な何かなんて作らなければいい。

 関係を深めることなく、誰かの記憶に残ることなく、仕事をこなすだけの機械になることが彼女の理想だった。

「……でも、まあ、いい現場だったかな」

 愛すべきオンボロアパートの前まで辿りついて、彼女はやっと顔を上げる。肩に食い込んだ荷物の重みが、半年勤めた職場の重さ。馴染んだ小さな玄関にバッグを置いたら、さっさとバスタブにお湯を張ろう。好きな本を読みながら体をあたためて、湯上がりには冷たいビールを──

「あっ、やっと帰ってきたー。待ってたよ」

 サビの浮いた階段の手すりにつかまった瞬間、二階から男性の声が聞こえてきた。

 無論、それは自分に向けての言葉ではないだろうとわかっていたが、反射的に茉莉花は顔を上げる。あるいは、その声がどこかしら現実離れした不思議な響きを含んでいたせいかもしれない。

 高すぎず、低すぎず。

 少年の色香と大人の男の艶めきを兼ね備えながら、どちらに引きずられることもないゆるりとした口調。大声ではないのに、やけに鼓膜を敏感に震わせる甘やかな声音。

 視線の先に立っていたのは、大学生くらいの男だった。地味なビジネススーツ姿の茉莉花とは逆に、長いマフラーをゆるく首元に巻いたカジュアルな服装をしている。男性にしてはフェミニンで、ふわふわの薄茶の髪が、決して強くはない夜風に揺らぐほどやわらかそうに見えた。

 サイドの髪をカラフルなピンで留め、細いフレームのメガネをかけた彼が、茉莉花を見下ろしてかすかに首を傾げる。

「ねえ、ぼくの声、聞こえてる? 日田茉莉花サン?」

「え……」

 見知らぬ男に名を呼ばれて、彼女は思わず硬直した。地味を極めた挙げ句、色気のいの字も感じられないような女相手にストーカーがいるとも考えにくい。しかも彼は、古めかしいアパートの妙に黄色い照明の下でも、整った顔立ちなのがわかる。

 ではなぜ、この男は自分の名前を知っているのだろう。

 茉莉花はバッグの肩紐を握り直す。

 理由は不明だが、彼が自分の名前を知っていて『待っていた』などと言うからには、不審人物に間違いない。そもそもこのアパートに引っ越してきたときから、一度たりとて知り合いが訪ねてきた覚えもないのだ。

「あなた、誰?」

 硬い声で尋ねると、やわらかそうな髪を揺らして彼がにっこり微笑む。

「ぼくね、カナタ。乃木坂奏多だよ。はじめましてっ」

 六畳一間の安アパート、夢を見る暇もないその階段上で、ファッション雑誌の『ゆるふわホリデイ特集』から抜けだしてきたような男がごく自然に一礼した。

「…………ハイ?」

 なにゆえ自分の名を知っているのかという疑問はともかく、彼の言い方から察するに茉莉花と面識があるわけでもないらしい。高卒でたいしたスキルもなく、派遣で事務職を転々とするだけの自分をヘッドハンティングする企業があるとも考えにくいし、そもそも交渉に来る誰かがいるとしてもせめて社会人らしい身なりの人間だろう。

「荷物多いねー。重そう。そっち貸して、持ってあげる」

 カンカンと音を鳴らして階段を下りてくると、乃木坂奏多と名乗った青年が茉莉花の手から荷物を取り上げた。

「ちょ、ちょっと!」

「すごい、何これ重いー。こんなの駅から持ってきたの? 茉莉花サンって細そうに見えて、力持ち?」

 非難じみた声を無視して、彼は平然と階段をのぼっていく。さも当然といった具合に、このまま部屋のなかまで上がりこみそうな勢いだ。

 ──だから、あなたは誰なのよ!

 茉莉花は、慌てて彼のあとを追って階段を駆け上がる。

「待ってよ! ひとの話を……」

 動揺が足に出た。もしくは、ここまで重い荷物を持ってきたせいで疲労が膝にきた。いや、理由はどうあれ結果は同じことだ。危ないと思ったときにはもう遅い。茉莉花は右足首をひねって、階段をのぼりきる手前で大きくバランスを崩していた。

 ──落ちる……っ!

 サビついた手すりに向けて伸ばした指先が、大きな手につかまれる。あわや、転がり落ちていきそうだった彼女の体が、すんでのところでつなぎとめられた。

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