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ドS天才パティシエさまには逆らえない!

南咲麒麟

第一章 (1)




第一章




(もう、本っっ当に嫌だぁぁ)

 午後六時。別れだ出会いだと大騒ぎしていた春も終わり、季節はゆっくりと夏に向かおうとしている。

 やっと会社から解放された川科愛莉は、ビル玄関の自動ドアを通過して大きく深呼吸をすると、足早に最寄りの横断歩道を目指していた。自宅のある駅とは反対方向だが、今日は真っ直ぐ自宅に帰る気分にはなれない。

 かといって別に、気心の知れた友達を誘ってビールでもグッと飲みに夜の街に繰り出すわけではなかった。カラオケで流行り歌を歌いまくるわけでも、贅沢エステでアロママッサージを施術してもらうわけでも、ましてやバッティングセンターでバットを振り回すわけでもない。

 今日のように会社で理不尽な苦労をし尽くした──本当に今日のトラブルはひどかった。朝から晩までずっと誰かに頭を下げ続け、謝り倒していた気がする──最悪な一日を、愛莉はいつもある特別な方法で乗り切ることにしている。

(どうかとリコッタチーズのプティガトーが売り切れていませんように!)

 大通りの信号が変わるのを待ちながら、愛莉は夕暮れ時の空に向かってわりと真剣に祈りを捧げつつ、ようやく青になった信号機のもとを足早にくぐる。

 目指すはパティスリー『mon trésor』。日本でも有数の超がつくほど高級な洋菓子店である。フランス帰りの天才パティシエ如月遥斗が二年ほど前に開いた店で、ちょうど愛莉の会社のはす向かいに位置していた。向かいといっても片道四車線の大通りなのでそう簡単には行き着けないのだが、全国から買い求める客に比べたら遠いと文句も言えない。

 それに会社帰りに寄るといっても、高給取りでもない愛莉にはそうそう頻繁に通うことも出来ない値段である。だからこそ、「今日はもうダメ。このままじゃ明日がこない!」という緊急時にだけ、文字通り、自分を甘やかすために甘い物を食べる。そして今日がその日なのだ。

とリコッタチーズのプティガトー!)

 街の喧噪の中、不思議なほどひっそりと落ち着いているその店を目にした途端、愛莉の口の中には、初夏の到来を告げる爽やかな桃の甘みが再現されていく。少し幸せな気持ちになった。軽い口当たりのビスキュイに、ほのかに色づいた桃色とリコッタの白色の二層のムースが重ねられ、その上に白桃が贅沢に盛られている。その美味しさと言ったらもう──。

「あ、川科さん、幸せそうな顔してどーしたのよ?」

奈賀さん!?

 突然、声をかけてきたのは、朝からずっと捜していた相手だった。

 小さな派遣会社でコーディネーターという仕事をしている愛莉は、派遣先から「今日おたくの派遣社員、出社してないんだけど」というお叱りを受け、その派遣社員である奈賀に何度電話しても連絡が取れず、会社に戻れば「お前の監督責任だろ、責任取れ!」と上司に怒鳴られ続けた。確かにそうだろう。悪いのは全部、自分だ。けれど一言だけ言わせてもらえるのならば(結局、一言も言わせてもらえなかったけれど)派遣社員は監督として責任が取れるほど近い存在ではない。同じ会社の人間とは違い、面接に同行してマッチングすればあとはほとんど顔を合わせる機会もなくなるのだ。それでも一応、一連のトラブルで責任を取らされるのは自分なのである。

「あのね、奈賀さん。私、今日、本当に大変だったんだからね」

「? でも今、幸せそうな顔でにやにやしてたよ?」

「し、してないし! そんなことよりもっ」

 愛莉にとって『叱る』というのは数多くある苦手分野のひとつだが、ここは仕方ない。

「今日って派遣先に出勤する日だったでしょ? 忘れてた? 私、ずっと電話してたのに連絡つかないし。本当、困ってたんだからね」

「あーあの会社ね。別に忘れてたってわけじゃないって」

「……わざとなの?」

 ふつふつとこみ上げる怒りを抑えながら、愛莉は確認する。

 奈賀は反省の色もなく肩を竦めてみせた。確か愛莉よりも二、三歳若い女の子で、若い分だけ自由というか、大人の責任のようなものが希薄である。いつかは音楽で身を立てたいから、正社員は目指さないと言っていたのを思い出した。

 そういえば今も、背中にギターケースを背負っている。黒の革ジャンに細身のジーンズ。それなりに整った顔立ちをしているのに、やたら不健康そうなメイクと派手なピアスで幾分、損をしている気がした。その姿は社会人というよりもまるで学生みたいで、だから当然、会社の登録書に書かれている彼女の派遣社員評価はいつも『D』、最下位である。

(まぁね……私が担当している評価Dの社員は彼女だけじゃないんだけど)

 大体、常に高評価のトラブルなど滅多に起こさない派遣社員はみな、先輩か要領のいい同期に取られてしまっていて、どこか抜けている──もとい、お人好しの愛莉には、いつも問題児ばかりが回されてくるのだ。

「まぁいいじゃん。お互い、勤務時間は終わりでしょ? あたしさー今からライブなんだけど、川科さん見に来ない? 毎度ながらチケ余りまくっているし。迷惑料ってことで無料であげるよ」

「いりません!」

 つんと顔を横に向けると、奈賀は「参ったなぁ」とそれほど参った顔もしないでぼやいている。そして「じゃあまた後日、新しい派遣先紹介してよね」と明るく手を振って去っていった。

(何が『新しい派遣先』よ。あんたなんか抹消よ! 絶対に登録抹消してやるんだから)

 心の中で固く決意すると、愛莉は気を取り直して顔を上げた。

 奈賀という派遣社員は間違いなく最悪だが、それでも彼女の言葉にひとつだけ真実がある。そう、勤務時間はもう終わっているのだ。

(今度こそ、とリコッタチーズのプティガトー!!

 やっとの思いでパティスリー『mon trésor』へとたどり着く。

 ブドウ葉模様のカットガラスがはめ込まれた木製の扉を押し開けると、カランという品の良いベルの音がして、愛莉はもう中世の貴族のお屋敷に迷い込んだ気分になっていた。

 決して大きな店ではない。奥に小さなテーブルがふたつあってカフェも併設されているが、それでも客が五人も入れば手狭になってしまいそうな空間である。

 店内はダークな木製を基調としたアンティーク調度品で統一されており、足下では上質な木目床が歩く度にコツコツと心地よい音を奏でてくれていた。そして。

(素敵!!

 透明なガラスの縁に金細工が施された豪奢なショーケースが、店の中央に鎮座している。

 灯りに吸い寄せられる蛾のように……いや、花に誘われる蝶のように、愛莉はふらふらとショーケースへと歩み寄った。全面ガラス張りで金色の金具に縁取りされた半ドーム型のそれは、海賊船で見るような宝箱をモチーフにして造られている。

 非常に珍しい形のショーケースだが、三百六十度すべてがガラス張りなのでどこからでも中の商品を眺めることが出来た。そしてその中には、煌びやかな宝石の如きスイーツ達が美しく並べられている。

 閉店の七時半まであと一時間ちょっとだからなのか、客は愛莉ひとりだけだった。いつものやかな客のざわめきもない。しかし。

「……?」

 それにしても妙に店内が静かだった。愛莉は初めてそのことに気付く。

 普通ならメイド服に身を包んだ可愛らしい女性店員が「いらっしゃいませ」と明るく声をかけてくれるのだが、今日はやたら無愛想な男性がひとり、面倒くさそうにこちらを見ている。常連になれるほど足繁く通っているわけではないが、この男性店員には見覚えがあった。

(半年ほど前にも一度見かけた気がするけど……見習いの子なのかな? まだ学生みたいだし。ケーキ大好きなアルバイトって感じはしないけど)

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