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ドS天才パティシエさまには逆らえない!

南咲麒麟

プロローグ




プロローグ




 そのマンションの最上階からは、夜を迎えようとする街の様子が見渡せた。群青からゆっくりと闇に溶けていく空に、街の灯りが美しくめいている。

 愛莉は、不思議な気持ちでその景色を見つめていた。見慣れたはずの街なのに、異国の旅人のような気持ちになっているのはどうしてなんだろう。

「なんだよ? 浮かない顔して」

 背後から声をかけられ、振り返る時間も与えられずに背中ごとギュッと抱きしめられてしまう。驚いた愛莉は、慌てて振りほどこうともがくが、細身の外見からは想像も出来ないほど彼の腕の力は強くて、どれだけ愛莉が力を込めてもびくともしなかった。

「……こ、困ります。こんな」

 小さな声で抗議してみるけれど、彼は面白そうに耳元でさらにささやく。

「別に困らないだろ。俺達今日から、夫婦なんだし」

 夫婦。その言葉が愛莉の胸に大きく響く。どうやら本当に、これからこの部屋で彼との新婚生活が始まるらしい。

(……らしいっていうのも、なんだか変な感じだけど)

 そうとしか言いようがない。それぐらい、あっという間にすべてが決まってしまっていた。

 愛莉はただ、いつものように美味しいケーキを心ゆくまで楽しんでいただけなのに。

(どうしてこんなコトになっちゃったんだろう?)

 背後から抱きしめられたまま、愛莉は困り果てて彼の手元に視線を落とす。美しい指先だった。指だけでなく、すらりと伸びた隙のない長身も意志の強そうな端整な顔立ちも。

「なに見てんの?」

「!」

 夜景を映すガラス越しとはいえ、彼の姿を凝視してしまっていた。恥ずかしさから愛莉は顔を伏せ、小さな声で白状する。

「えっと……本当にこの手が、あの宝石みたいに素敵なケーキを創り出しているのかなって」

「まだ信じてなかったのか? 俺が如月だって」

 彼の腕がふと離れた。やっと解放されたと安心した途端、今度は強引に振り向かされ窓ガラスに押しつけられる。近距離でお互いに向き合う形に、愛莉の胸の鼓動が跳ね上がった。そんな反応を楽しむかのように、彼は含み笑いで「ふーん」と顔を寄せてくる。

「お前って見かけに寄らず、疑い深い女なんだ」

「ち、違います。疑ってはないです。ただ、その……私が思ってた感じと全然違ってたっていうか、それが不思議というか何というか……!」

 ずっと憧れていたパティシエだった。顔も見たことなくて、年齢も性別も不詳。今から二年前にフランスから帰国し、このマンションの一階に『mon trésor』という小さな店を出している──それが天才パティシエ『如月遥斗』の情報のすべてだった。

 そして今、目の前には『俺こそが如月』と名乗る男が、不機嫌そうにふんと鼻を鳴らしている。

「お前の勝手な想像と違ってて悪かったな」

 口調はやや乱暴で、一人称はやたら偉そうな『俺』──整った目鼻立ちに切れ長の瞳をしていて、微笑みよりも怒った表情の方がよく似合っていた。彼の長身で引き締まった体軀ともあわさって、パティシエなのに甘さの欠片もない印象だ。

「実際、裏方の現実なんてどこもそんなもんだろ。まさか厨房に可愛らしい妖精がいて、魔法の杖でも振ってケーキ作ってるとか思ってたの?」

「いえ、さすがにそこまでは」

「だろ。だったら現実を受け入れろ。これから一ヶ月。お前は俺と結婚して一緒に暮らすの」

「結婚……一緒に暮らす……」

 受け入れろ、といわれて素直に肯けるほど、これは簡単な事柄なのだろうか。いや、違う。違うに決まっている。一瞬でも強引な彼の口調に流されそうになった愛莉は、慌てて首を振った。

「やっぱり無理です。ていうか私達、さっき初めて会ったばかりで、それに」

 必死に言葉を繋ぐ愛莉を試すように、如月は可笑しげに眉を上げて先を促した。

「き、如月さんのことだってパティシエって以外、どんな人なのかも知らないし。如月さんだって私のこと全然、知らないでしょう? それなのに一緒に暮らすとか、無理です」

 絶対に無理です、ともう一度念を押しておく。大体、如月さんと面と向かって名前を呼んだのは今が初めてなのだ。しかし彼は涼しい顔で「それだけ?」とでも言いたげに目を細めてみせた。

「俺達は別に初めて会ったわけじゃない。お前は客として何度も俺の店に来ている。で、俺はその店のパティシエだ。俺の説明はそれで十分。強いて補足するなら天才パティシエってことぐらいかな。それに俺は」

 如月の端整な顔がぐっと近づいてくる。こういう距離に免疫のない愛莉は、何とかして逃げ出したいと心から願うが、窓ガラスについた彼の手と腕によって道はふさがれていた。

「俺はお前のこと、結構、知っているよ? 意外だろうけど」

「え?」

「だから何の問題もない。俺とお前は晴れて夫婦で、これから夢のような新婚生活が始まるってわけだ。だからさ、愛莉」

 さも愛おしそうに名を呼ばれる。まるで、本当に愛する人を妻として手に入れたような口調で。満足げに微笑んだ彼の唇が迫ってくる。恋愛に疎い愛莉もさすがに悟ってしまった。

 これから何をされるのか。胸がとくんと跳ねる。緊張で息が苦しい。ダメ。そんなの絶対。

「これから一ヶ月、たっぷり愛を教えてくれよ? お前のその身体でさ」

「……っ……」

 抵抗する時間は与えられず、しかし不思議にゆっくりと唇がふさがれる。愛莉の激しい動揺などすべて飲み込んでしまう、海のように大らかで余裕のあるキスだった。受け入れてはダメだと分かっているのに、身体が思うように動かない。媚薬としか思えない彼のキスが愛莉の身体も心も、何もかもを麻痺させていく。

 それは蜜のようにとろりと甘く、ショコラのように濃厚で、ダークラムのように薫り高い。まさに彼の創り出すケーキと同じく華やかに洗練されていた。

(ああ、確かに……)

 目を閉じたまま、愛莉はようやく理解する。

 逆らうことの出来ない甘美な波に攫われながら。

 確かに彼は天才パティシエ如月遥斗で、これは、そのパティシエからの至高のキスなのだと。

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