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財界帝王の甘すぎる飼育愛

御厨翠

1章 「お前の主は俺だ」 (3)

 ごく自然に差し出された万札を前に、千尋はどうしようもなく疲労した。何気なく差し出されたのは、少なく見積もっても千尋が一カ月働いて得る金額の三分の一はある。どこの金持ちだか知らないが、クリーニング代に何万も出すなんてどうかしているとしか思えない。

「いりません。だから放っておいてくれていいです」

「そういうわけにはいきませんよ。迷惑をかけたのはこちらです。この雨ですし、クリーニング代が必要ないのであれば部屋までお送りします。女性ひとりで深夜にずぶ濡れで歩いていては危ないでしょう」

 親切らしい言葉とは裏腹に、体温を感じさせない声だった。そのことが、千尋のやさぐれた気持ちに拍車をかける。

「……いいんです。少し頭を冷やして冷静になりたいんです」

 常であれば、もう少し大人の対応ができたかもしれない。だが今は、心身ともに疲れ切っていた。言葉を発するのも面倒で、ただひたすら首を振る。

 雨に濡れた髪も服も、身にまとうすべてが重くまとわりついてくる。

 ──寒い……どうしてこんなに、寒いんだろう──。

 視界がみ、平衡感覚が失われる。意識ごと闇に引きずり込まれる寸前、あたたかな腕に抱き留められた気がする。それを最後に、意識は途切れた。



「──う……ん」

 夢との狭間を彷徨っていた千尋の意識が、ゆるゆると浮上する。覚醒すると、寝起きの気だるさとは別の倦怠感と喉の渇きを覚えた千尋は、不思議な心地で目を開いた。

「え……っ」

 目を開いたと同時に飛び込んできた光景に、思わず間抜けな声を上げる。

 目に入ったのは、大きなクローゼット。視線を移動させると、窓際に大きなベンジャミンが鎮座していた。見慣れた六畳一間のアパートではないことに気付き、千尋は勢いよく身体を起こした。

 ──ここは、どこ……!?

 どうやら自分は、ベッドで寝ていたようだ。しかもただのベッドではなく、キングサイズのベッドである。一瞬ホテルかとも思ったが、ホテルにしては人の住んでいる気配を感じさせる部屋だった。しかしいくら記憶を手繰り寄せても、自分がどういった経緯でこの場にいるのか思い出せない。

 あらためて自分の身に目を落とすと、千尋はびしょ濡れになったコートや服の代わりに、肌触りのいい上質なシャツを着ていた。男物のシャツだから太ももは隠れていたが、ブラジャーはつけておらず、なんとも心もとない恰好だ。

 いったいどこの誰が、自分をこの場に連れてきたのか。不安に思いながらベッドから起き上がろうとした途端、めまいに襲われて顔を覆う。すると、部屋の空気が動いた。

「具合はどうですか」

 声のしたほうに目を向けると、秀麗な男が千尋を見つめていた。スーツ姿のその男は、ベッドの傍らまで足を進め、優雅に腰を下ろした。

「具合が悪いようなら、医師を呼びますが」

「……少し、めまいが。あとは、平気です」

 素直に答えた千尋に、男が薄く笑った。その表情にドキリとして、とっさに視線を逸らす。目の前の男は、異様に整った顔立ちをしていた。高い鼻梁とフレームレスの眼鏡から覗く切れ長の瞳は理知的で、シャープな印象を与えるだけでなく、どこか色艶を感じさせる。一見しただけでわかる非の打ち所がない美形だ。だが丁寧な口調であるにもわらず、なぜか男からは目に見えない圧を感じた。存在感と言い換えることもできるそれは、彼がそれなりの地位にいることを窺わせる。なぜなら、千尋が清掃業務中にたまにすれ違う企業の重役からも、似たような雰囲気を感じ取ったからだ。

 これまで接してきた異性と言えば、学生時代のクラスメイト、それに両親と同じ年頃の清掃会社の人たちだった千尋にとって、男の容姿や存在感は動揺を誘うに充分だった。

「めまいは、急に起き上がったからでしょう。他には?」

「特には……」

 男は千尋の答えを待たずに、額に手を伸ばした。長い指先が千尋の髪をけ、額に触れる。

「熱はないようですね。ところで、今の状況がわかりますか?」

 額から手を離して問いかけられて、かすかに首を振る。すると男は抑揚のない口調で、状況の説明を始めた。

 一昨日、男の前で千尋が気を失ったこと。放置することもできずに、自室に連れ帰り医者に診せたこと。過労と軽い風邪を引いているだけだから、数日で回復すると診断されたことなど、要点だけを説明される。話を聞き終えた千尋は、ひとまず男に頭を下げた。

「お世話をおかけしました。あの……治療費はすぐには無理ですけど、いつか必ずお返しします。だから、少し待ってもらえますか?」

「治療費、ね……」

 それまで丁寧だった男の口調が一変した。男は不敵に口角を上げると、驚いて目を丸くする千尋の顎をい取る。

「お前に治療費を払う余裕があるのか? 及川千尋」

「な……なんで、名前……」

「得体の知れない人間を部屋に置いてやるほど人がくないんでね。お前が眠っている間に、素性は調べた」

 男は千尋に顔を近づけると、その言葉通りに彼女の置かれている状況をつぶさに語った。一昨日火事で住む場所を失ったことから、現在勤めているアルバイト先、実家のある場所、家族構成に至るまで詳細に調べ上げたようだ。名前くらいなら、持っていたバッグの中を調べればわかるだろうが、実家まで調べ上げている徹底ぶりに恐怖を覚えた。

「……得体が知れない人間なんて、放っておけばいいのに」

 つい心の声を漏らした千尋に、男は喉を鳴らして彼女の顎から指を外した。

「なんなら今からでも放り出してやろうか? 住む家もなければ金もない。しかも、収入源のアルバイトの給料だってたかが知れている」

「あ……っ!」

 男の指摘に、千尋はハッとして辺りを見回した。男の話では、千尋が倒れたのは一昨日。昨日も今日もシフトに入っていたから、無断欠勤したことになる。勤めている清掃会社の就業規則では、無断欠勤を一度でもすれば否応なしに首を切られる。それは、面接したとき最初に聞かされた規則で、肝に銘じてきたことである。

 今アルバイトをクビになったら、いよいよ進退窮まってしまう。血の気が引いていくのを感じながら、千尋は男を押しのけると、持っていたはずのバッグを探した。

「連絡……連絡しないと……!」

「探しているのはこれか」

 千尋の動揺を意に介さず、男は冷静に部屋の片隅に置いてあったバッグを手に取った。千尋はひったくるようにバッグを受け取ると、急いで携帯を取り出した。案の定携帯には、会社から何度も着信があった。すぐさま会社に電話しようとしたとき、留守電が入っていることに気付き、まずそちらを先に再生する。メッセージを聞いた千尋の顔はみるみるうちに強張り、崩れ落ちるようにその場に膝をついた。

 ──やっぱり、クビ……。

 メッセージの内容は、簡潔だった。二日間の無断欠勤による解雇通告と、貸与されていた制服の返却の二点である。弁解の余地もないまま、千尋は唯一の収入源を絶たれてしまう。

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