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紳士の獣性 外国人ダーリンの情熱求愛

御堂志生

第一章 安全第一の女 (1)




第一章 安全第一の女




 人生訓は〝安全第一〟──馬鹿馬鹿しいかもしれないが、美波亜子にとってそれが一番のことだった。

 ストッキングはいつも左足から穿く。靴も同じ。急いでいて間違えたときは、もう一度脱いでやり直す。

 たかがジンクス、されどジンクス。

 そうしないと、何かが起きる前に、悪いことが起きそうな気がしてならない。

 他にも、忘れ物がないか何度もチェックし直したり、鍵をかけたかどうか確認しに戻ったり……。

 そんな彼女の行動を見るたび、学生時代の友人は『それって強迫神経症ってヤツ?』などと言って笑った。

(そんなに酷くないわよ。人よりちょっと、心配性なだけだもの)

 亜子が一年前から住んでいるのは、東京の副都心に建つ超高層マンション三十四階の一室。彼女はマンションのドアに鍵をかけたあと、廊下を小走りに駆け抜けエレベーターホールに向かった。

 ボタンを押した瞬間、扉が開く。

(今日はきっといい日だわ!)

 朝八時二十分、この時間にしては珍しく誰も乗っていないエレベーターにひとり乗り込み、亜子の頰は緩んだ。

 だがその直後、エレベーターの鏡に映る自分の姿が目に飛び込んできた。

 ネイビーブルーのノーカラージャケットに膝丈のバギースカート。口紅は無難なコーラルピンク、アイラインは薄く引き、チークやマスカラは気持ち程度。髪は鎖骨にかかるくらいのボブで、色はもちろん黒。

 ショートにしたこともなければ、パーマをかけたことも、染めたこともない。ここ十年ほど、ほぼ同じ髪型だ。中学高校時代は前髪で額を隠し、左右に分けてゴムでくくっていたのが、今と違うと言えば違うくらいか。

 人生の転機となった一年前に比べて、なんと代わり映えのない自分の姿だろう。そんな感想が胸に浮かび、亜子の表情は曇っていく。

 そのとき、フッと前の会社の女性上司から言われた言葉が胸に浮かんだ。

『入社して一ヶ月も経つのに、あなたって全然垢抜けないわねぇ。少しは見た目を変えるよう努力したら?』

 髪型はともかく、スーツやメイクは社会人になって変えたつもりだった。周囲から浮かないよう、好印象を持たれるよう、亜子にとっては精いっぱいの努力だった。

 だが、そのあともずっと──。

『もっと努力なさい』

『どうしてあなただけできないの?』

 辞めるまでの一年間、毎日女性上司から言われ続けたのだ。

 採用されたということは、彼女自身の能力が会社に認められたからに他ならない。それなのに、どうしてその女性上司からまれる羽目になったのか、当時の亜子には全くわからなかった。

(理由はあとからわかったけど、でもやっぱり、わたしの努力が足りなかったせいなのかな?)

 右側の髪を後ろにやると、ピアスの穴も開いていない耳が鏡に映る。亜子はぽってりとした耳たぶを摑み、つんつん引っ張った。

 今からでも変わるべきなのだろうか?

〝安全第一〟の人生なんて放り出して、自分から変わっていくことが正しいのか。昨日と同じ今日、今日と同じ明日ではない未来を求めて……。

 そこまで考え、亜子は首を振った。

(もう、終わったことよ。今のわたしは、自分の意思でここにいるんだもの)

 理不尽な女性上司に、怒りを感じるよりえて逃げ出してしまった。

 変わりたい、でも、変われない。どうしても、右足から靴を履いても平気とは思えないのだ。自分はなんて弱いのだろう。

 そんな自分が情けなくて、亜子は傷ついた過去から目を逸らす。

 そのとき、ハッとして思わず声を上げてしまう。

「あれ?」

 今朝は一度靴を履いたあと、ガスの元栓を確認するのにキッチンに戻った。そのあと、腕時計を見ながら靴を履いたはずだが、左足が先だっただろうか?

「右だったかも……いや、でも……うーん」

 長年の習慣なので、無意識なら左から履いたはずだ。だが、全く思い出せない。

 一旦戻ってやり直すべきだろうか?

 そう思ったとき、エレベーターの扉が左右に開いた。

 まるで『昨日と違う今日へようこそ』なんて言われている気がして……なぜかしら、亜子の心臓はとくんと高鳴る。

(大丈夫……かな? うん、今日はいい日なはずだもの。一日くらい、きっと大丈夫)

 ほんの少しの躊躇いを振り切り、亜子はその日、前へと歩き出した。



☆ ☆ ☆



 心の片隅に芽生えた一ミクロンの冒険心を胸に、エレベーターから降りたわずか五分後、彼女は仕事場に到着していた。

 藤堂法律事務所──そう書かれたプレートをみつめながら、鍵を開けて中に入る。

 そこはマンションの隣にある、五十四階建て超高層ビルの二十七階。

 始業時間は朝九時。八時半にもなっていないこの時間、亜子以外はまだ誰も出社してきていない。

 ひと気のないオフィスに広がる、しんとした静寂。波ひとつ立っていないプールの中にスッと泳ぎ出すような、そんな清々しい緊張感が彼女の全身を包み込む。

 亜子は一年前から、この事務所の所長である弁護士、藤堂一弘の秘書をしている。

 残念ながら法学部出身ではないので、法律事務員というわけではない。藤堂のスケジュール管理から出張を含む各種手配、あとは身の回りの世話が中心だ。

 藤堂は五十六歳という年齢ながら独身。仕事が終われば事務所と同じビルにあるフィットネスジムに通い、週末は少し遠出して趣味の乗馬を楽しんでいる。飲酒を含む夜遊びは付き合い程度で、煙草も吸わない。実に健康的な毎日を送る男性だった。

 当然、お腹も出ておらず、おまけに額の生え際も後退していない。イタリア製のスーツを日本人離れしたスタイルで着こなし、一見しただけなら四十代というナイスミドルだ。

 亜子が彼の私生活をよく知っているのには理由がある。

 彼女が住んでいるマンションの部屋を所有しているのは、誰あろう藤堂だった。

 それだけではない。一年前から、ふたりは同じ部屋に住んでいた。

 部屋のサイズは大きなリビングダイニングと、最新機能がついたシステムキッチン。そしてベッドルームがふたつ。

 そのうちのひとつ、八畳程度の洋室が彼女に与えられた部屋だ。

 一緒に住んでいるといっても、いわゆる〝愛人〟と呼ばれるようなスキャンダラスな関係ではない。もちろん、セレブな弁護士に見初められて〝玉の輿〟といったロマンテックな関係でもなかった。

 藤堂は亜子の母、小枝子の同級生で幼なじみ。彼は母に頼まれ、実家を飛び出した亜子の面倒を見てくれているにすぎない。

(わたしは単なる居候だもの。ここで雇ってくれたのだって、お母さんがこっそり頼んでくれたんだろうな、きっと)

 亜子はため息をついて頭を振ると、給湯室から持ってきたテーブル拭きで、全員のデスクや目につく場所を掃除していく。

 そのあとは床を軽くモップがけして、各種新聞を専用ラックにかけた。コピー機の用紙やトナーも確認して、すぐにでも使える状態にしておくのが亜子の役目だ。

 いや──別に、それが決められた役割というわけではない。

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