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一級建築士の求婚 攻め様上司は優雅に迫る

斉河燈

1、「俺の気も知らずに」 (3)

「……覚えてないってことは相当動揺してたってことですよね……」

 彼と初めて出会ったとき、わたしは二十一で喫茶店のギャルソンエプロンを巻いていた。

 我が家は母子家庭で弟もいるため、高校卒業後は進学せずいくつかのアルバイトを掛け持ちして働いていたのだ。

 それでも長谷川さんが設計したビル内の店舗を選んだあたり、建築業界への憧れは捨てきれていなかったのだと思う。

「本当にびっくりしたんです。だって常連さんのおひとりが、まさか憧れの人だなんて思ってもみなかったから」

 手がけた建物に通って利用者の様子を見るのは、長谷川さんのライフワークのひとつだ。でも当時のわたしはそんな習慣など知らなかった。

 彼はわたしが働く喫茶店に足しげく通ってくる常連客で、の席を陣取っては店内を眺めつつコーヒーを一杯ゆったりと飲む、大人の余裕を漂わせた素敵な人だった。

 最初に思ったのは、紙を多く扱う仕事をしている人なのだろうということ。無骨な指先は年中かさついていて、それがまた色っぽくて……わたしはウェイトレスでありながら、お客さまのひとりである彼に淡い恋をしていた。

 いつかあんな人と恋人同士になれたら……なんて想像するだけでどきどきした。

 それなのに何故彼が『長谷川白瀬』だと気づかなかったかというと、理由はふたつ。

 長谷川さんが人前に出るのが苦手で、どんなに有名になってもマスコミに顔を出さなかったから、というのがひとつ目。

 そしてふたつ目は、彼がいつもかっちりとしたスーツ姿で店に来ていたからだ。建築家というのは、もっとラフな服装をするのだと思っていた。

 正体不明の大人の男への初恋は、半年以上も続いた。

 するとある日のことだ。彼は店内でクライアントと待ち合わせをしていた。テーブルの上に『長谷川白瀬』と書かれた名刺を見たとき、わたしは本気でひっくり返るかと思った。

 ──『はせっ……長谷川白瀬って、あの、建築家の……!?

 あの瞬間わたしの恋愛ゲージは振り切れて、そして二度と機能しなくなったのだ。

 彼が長谷川白瀬。尊敬の頂点にいる人。振り仰ぐほど偉大な相手に恋なんて、畏れ多くてできるはずがない。

「突然、興奮した顔で『大好きです!』って握手をせがまれて、ずいぶん斬新なナンパがあるもんだと思ったんだけどな、俺は」

「う……下心はなかったんです……」

 思えば大胆なことをした。男性の手を握って、いきなり大好きだなんて。

「おまえ、そこから接客がグダグダになって喫茶店のマスターに雷を落とされたんだよな。クビになりたいのか! って。厳格な飼い主に捨てられてあんまりに不憫に見えたから、親切な俺様が仕方なく奴隷契約を結んでやったんだが」

「べっ、別にクビになったわけでも、捨てられたわけでもないですしっ」

「どっちも寸前だっただろ。クビの皮一枚ってやつ。皮一枚ってことは、肉自体はすでに切れてるっつう意味なんだよ」

「いやぁあ、痛い話題はやめてくださいぃ」

 確かにわたしはあの直後、マスターに叱られた。常連客に、それも店舗が入ったビルの設計者にアルバイト店員が迷惑をかけたのだから当然だ。とはいえ、失業するほど怒られたわけじゃなかった。落ち込んで涙目になる程度に絞られただけ。

 それから一時間ほど経った頃だった。クライアントとの打ち合わせを終えた長谷川さんが、隅の席から声を掛けてくれたのは。

 ──『おまえ、俺の名前を知ってるってことは、もしかして建築士志望か』

 思わずわたしは頷いていた。

 ──『あ、あの、でも専門的な勉強はしたことがないので、夢のまた夢なんですけど』

 本音を言えば、建築士になりたいと具体的に思っていたわけじゃない。

 インテリアをるのは好きだけれど、建物自体を設計することに興味はなかった。漠然と長谷川白瀬という建築家に憧れていた程度。

 そこから先は、嘘みたいな話。

 長谷川さんはマスターとなにやら話をし、わたしを引き抜くと言ったのだ。

 始めるなら早いほうがいいから、と。どうやら専門的な学歴のない状態で一級建築士の資格取得を目指すには、二級建築士の資格がいるらしい。そして二級の試験を受けるためには七年間の実務経験が必要とのことだった。

 最初は戸惑ったわたしだけれど、やがて強気の長谷川さんに押されて一念発起。一級建築士を夢見て頑張ることにしたのだった。

 あれから五年。目標の七年まであと二年──。

「……完成したか」

 クレーンが下りてゆくのを眺め、長谷川さんは何本目かのタバコをふかし目を細める。

 華やかに飾られた我が子を見つめる横顔は、いつもとても満足そうで、こちらまで胸がじんとする。

「綺麗……花嫁衣装みたいです」

「ああ。どう仕上がるかと思ったが、みっつも飾ってもらったんだな、花冠。色とりどり、大小さまざまで動きがあっていいな、花冠」

「やけに強調しますね、花冠……」

「文句でもあるのか、ん?」

 長身で睨まれると、平均的身長のわたしは恐喝でもされているような気になる。脅してでもわたしから取り上げたいものなんて、長谷川さんにはないだろうけど。

「いえ、なんでもないです。あの、明日の朝が楽しみですねっ。きっとみんな、このデパートを見上げて新鮮な気持ちになりますよ!」

「そうだな。ま、もともと見惚れるほどいい建物だけどな」

「ふふ、自信家ですねえ」

「自信のないものを世に送り出してどうするんだよ」

 強気の発言も、長谷川さんが言うと説得力がある。その根拠が日々の自己研鑽に裏付けられていることを、わたしは毎日目の当たりにしているから。

 でも、じゃあ、わたし自身はどうなのかというと──。

(現状に満足してる……って言ったら、怒るよね、きっと)

 最近、この業界にいられるのなら一生長谷川さんの弟子のままでいいとわたしは思いはじめていた。建築事務所で五年働くうちに、夢を見ることに疲れたわけじゃない。

 長谷川さんの仕事ぶりを目の当たりにしていると、痛感してしまう。

 この背を追うなんて畏れ多い、と。

 近づけば近づくほど、どんどん遠ざかる気がする。

 わたしはあんなふうに自信をもって、作品を世に送り出すことができる? 枯渇せずに斬新なアイデアを生み続けることができる? ……できない気がする。

 すると駅への道を引き返しながら、長谷川さんは小さなくしゃみをした。

「──クしっ」

 ふいに現実に引き戻される。やはり冷えたのだ。

 温かいコーヒーを飲ませるだけでは足りない。もう少し早く、帰りましょうと言うべきだった。

 慌てて自分のマフラーを取り、彼の首に引っかける。

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