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一級建築士の求婚 攻め様上司は優雅に迫る

斉河燈

1、「俺の気も知らずに」 (2)

 感心しているというより、なんとなく呆れがちな目だ。わざわざこんなものまで持ち歩くなよ、という。

 だけど、やめるわけにはいかない。師匠の世話が焼けなければ、弟子を自称する意味はない。単なる部下でいたってかまわなくなってしまうのだから。

「えと、わたし他にも長谷川さんのためのもの、持ち歩いてますよ。除菌ウエットティッシュとか、愛用の頭痛薬とかチョコとかとか。食べますか?」

「食わねえよ。俺は幼児かよ」

「いえ、子供扱いをしたわけじゃ……あ、ちょっとじっとしててくださいね」

 聞いてないだろとぼやかれながら、わたしは彼の胸もとに手を伸ばし、開きっぱなしのコートのボタンを留めてゆく。ひとつ、ふたつ。

 これは相当に子供扱いだとも思ったけれど、首に引っかけられただけのブルーグレーのマフラーもぐるぐるに巻いて差し上げた。

「……苦しいんだが」

「きっちり巻かないと寒いですよ。師匠は来月国際コンペを控えた身、今はとくに注意しなきゃいけないときです。風邪でも引かせたら、わたしが社長に叱られますし」

「……その前に酸欠で倒れそうなんだが」

「微調整はお任せします」

 そう伝えたけれど師匠は苦々しい顔をして動かない。緩めるとか外すとか、自力でどうにかする気はないみたいだ。

(ときどき子供っぽいんだよね、師匠ってば)

 見れば、白い壁面にはふたつ目の花の輪が花火のように開こうとしていた。

 ……花冠。長谷川さんはさっき、そう言ったっけ。

「あのう、ちょっと思ったんですけど、あれって花冠ですか? リースですか? 頭にのせる飾りとは花の位置が違うような気がするんですけど」

 花冠なら頭にのせるのだから側面を向いて花が開いているはずで、あれは上を向いて花が開いているので冠としては見栄えがよくない気がする。

 ──リースじゃないのかな。

 壁を示して言うと、彼はこちらを一瞥してからコーヒーをくっと飲み干した。まるで、ヤケ酒をるような仕草で。それから、空にしたコップをわたしの目の前にぶら下げる。

「花冠だろうがリースだろうが、通じれば問題はないだろ。おまえはいちいち細かいことばかり気にしすぎだ。本質とは違うところにこだわって、馬鹿真面目に基礎に縋ろうとするからいつまでたってもそうなんだよ」

「そう、って」

 問いかけたが返答はない。長谷川さんはわずかに苛立った様子で口をつぐんでしまう。

 何を言いたかったのだろう。抽象的すぎてわけがわからなかった。いつまでたっても──もしかして、いつまでたっても給料据え置きってこと?

 それは困る。ベースアップは望めなくても、せめてボーナスだけはもう少し上乗せしてもらいたい。でないと、いつまでたっても駅から遠いワンルームから引っ越せないもの。

 そんなことを考えながらコップを片づけていたら、左隣からコートの胸ポケットをごそごそ探る気配がした。のちに、カチンとオイルライターを開く音。タバコだ。

 小さな火が灯されると、暗がりに長谷川さんの輪郭が浮かび上がる。

 甘さより苦みのほうがやや強い、ビターチョコレートみたいな横顔。三十代の男性独特のぎらぎらした感じはほとんどなく、セクシュアルなのに嫌みがない。言うなればマットな質感の美形、それが長谷川白瀬という男の外見なのだった。

(相変わらず人目を引く容貌だなあ。ほんと、どうして独身なんだろ)

 弟子入りしてから五年、わたしは彼が女性を連れているのを一度も見たことがない。それどころか、付き合っている相手がいるという話すら聞いた覚えがなかった。

 忙しい人だから、そんな暇がないのはわかる。わかるけれど、普通、長谷川さんほどの男性なら女性が放っておかないはずなのに……ううん、これほどの人だからこそ、手の届かない雲の上の人と思われている可能性はある。

 どれだけ真剣に恋したって、振り向いてもらえそうにない。才能も余裕もあって、自信たっぷりのうえにソツがない大人の男なんて。

「……なんだよ、じろじろ見やがって」

「え、あ」

「見るなら俺じゃなくて作業を見ろ。一緒に見たいと言ってついてきたのはおまえだろ」

「は、はいっ」

 ふうっと気怠げに吐き出された息が、街に溜まった暗闇をぼんやりと濁らせる。まるでコーヒーフロートのアイスが、とろんと溶け出したみたいに。

 夜風にのって鼻先をくすぐるのは、いつものメンソールのタバコの匂い。だけどいつもより、ほんの少し甘い感じがする匂い。

 ぎゅっと摑まれそうになった胸を押さえ、わたしはデパートの壁面を見上げる。

 そうだ。彼はわたしにとっても雲の上の人。

 憧れすぎて、手を伸ばすことも畏れ多い不可侵な存在。



 ──わたしが長谷川さんの作品に初めて触れたのは、高校一年生のときだった。

 当時小学生だった弟が、学校帰りに立ち寄っていた児童館……ログハウスふうのその建物こそ、彼の設計による建築物だった。

 敷地内には遊具に交じって数本の木が点在していて、そこに大きな仕掛けがあった。

 春は桜、夏は白樺と、季節ごとに木から木へと最盛期が移り変わってゆくのだ。

 それだけ聞けばよくある話なのだけれど、この建物の場合、その変化は屋内で眺めるほど顕著だった。春の桜は南の掃き出し窓越しに、夏の白樺は北の格子窓から……といった感じに窓が舞台装置のひとつとなっている。窓枠も木目がくっきり見えるものや濃いめに塗装したものなど、窓の外の植物に合わせて少しずつ違う。

 四季折々、それぞれ違う主役が違う舞台で注目を浴びる建物。

 まるでどんな子供にも主役になれるときがくるんだよと言わんばかりの演出に、わたしは弟を迎えに行く日々の中で夢中になった。

 どんな人が設計したのだろう。誰がこんなアイデアを思いついたのだろう。

 児童館のパンフレット上でその答えを知ったのは十六のとき。『長谷川白瀬』……彼はUAEのコンペで優勝し「四季の魔術師」として業界に名を馳せる直前だった。

 あのときはまさか、こうして一緒に街角に立つ日が来るなんて思ってもみなかった。

「……あの、師匠、初めてわたしと会ったときのこと、覚えてますか?」

 尋ねると、タバコの煙を吐きながら長谷川さんは愉快そうに笑う。

「面白かったよな。喫茶店でコーヒーひとつ注文して、店員にあんなに動揺されたのはあとにも先にもあのときだけだ」

 デパートの壁面には着々とフィルムが貼られてゆく。

 作業員も手慣れているのだろう。仕草さえ芸術品の一部みたいだ。

「そんなに動揺してましたっけ」

「もちろん。ご注文は以上ですか、って三回も尋ねたくせに忘れちまったのか」

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