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一級建築士の求婚 攻め様上司は優雅に迫る

斉河燈

プロローグ / 1、「俺の気も知らずに」 (1)




プロローグ




 恋より尊敬のほうが、確かな感情だと思っていた。

 彼が、その壁を飛び越えてわたしの心を搔き乱すまでは。

「決めた」

 真上から聞こえる甘い声に、横隔膜が震える。彼の匂いが近すぎて、息もできない。

 わたしの目の前には扉がある。飛び込めば現実に戻れる、自分の部屋の扉だ。なのに、後ろからそこにしっかりと突かれた手がそれを許してくれなかった。

「俺はおまえにプロポーズする」

 意味がわからない。

 だってこの人は師匠だ。高校生の頃から憧れ続けて、部下として働きはじめてからも雲の上の存在としてひたすら真上に仰ぎ続けた人。わたしのような小娘を本気で相手にするような人じゃない。

莉華

 下の名で呼ばれたのは、そのときが初めてだった。いつも苗字でそっけなく呼び捨てられてきた。それが当たり前で、これからも当然続いていく習慣なのだと思っていた。

 ──だめ。これ以上意識するわけにはいかない。

 彼はかつてわたしに、わたしを嫌いにさせずにいてくれた偉大な恩人だ。好きか嫌いかなんて尺度では測れない。ましてや、弟子の分際で尊敬と恋愛を混同するなんて愚かなこと。そんな不敬な勘違いをしたら、きっとわたしは自分を許せなくなる。

 それなのに彼は、耳のふちをちろりと舐めてわたしを惑わせようとする。

「おまえだって俺のこと、嫌いじゃないだろ」

 ぐっと濃くなるメンソールのタバコの匂い。そんな聞き方はずるい。わたしから師匠に嫌いだなんて、言えるはずがないのに。

「一か月だ。おまえに猶予をやる」

「い……一か月……?」

「俺を、上司でも尊敬する相手でも師匠でもなく、ひとりの男として見極めるための時間だ。人生を預けるに値する相手かどうか、じっくり判断するといい」

 不敵に微笑む顔が、ますます近づいてくる。

 見慣れたその表情は、強引で自信家で何があっても揺るがない。いつもなら頼もしいばかりの顔に、今はただ動揺させられてしまう。

「覚悟を決めろ。逃げ道を用意してやるほど俺は親切じゃない」

 いて逃げようとするわたしのを、引き戻す指が熱かった。

 その日を境に、わたしの人生は変わってしまった。恋だけじゃない。夢も未来も当然続くと思っていた日常までもがひっくり返るなんて、考えたこともなかった。

 だけどそれは、彼にとっても大きな賭けだったのだと思う。

 突然のプロポーズ予告にどんな覚悟が込められていたのか……わたしはもう少しあとになって知ることになる。




1、「俺の気も知らずに」




 時計の針が揃って天を仰いだ頃、街は翌朝に向けて気の早い召し替えを始める。

 歩道に停められた大型車から、デパートの壁面に向かって伸びていくクレーン。その先端に乗っているのはヘルメットを被った作業服姿の男性だ。彼が上ってゆくその横で、バレンタインの懸垂幕がなめらかに回収されていった。

 新たに躍ったのはホワイトデーの文字だ。それと、3.14という数字。加えて、短い一文──『反撃ののろしを上げろ』──なかなかに響くキャッチコピーだと思う。

「わ、もう作業始まっちゃってますっ。長谷川さん、こっちこっち!」

 白い息を吐きながら、わたしはひたすらに駆ける。肩甲骨まである栗色の髪は、駅からの全力疾走ですっかり乱れてしまった。

 でも、髪型なんて気にならない。もともとたいして気にしていない。青信号が点滅する横断歩道に飛び込み、かろうじて反対側の歩道まで渡りきる。

「ちょ、ちょっと待て、っ……」

 振り返れば、赤になったばかりの横断歩道の向こうで中年男性がうなだれていた。ガードレールにもたれ、瀕死の形相で。

「残業後の、全力疾走は、三十九の俺にはきつい、死ぬ」

 長谷川さんは下の名前を白瀬といい、五年前からわたし、柳莉華二十六歳の職場の上司……いや、偉大な『師匠』をしてくださっている方だ。

「お疲れさまですっ、師匠!」

 片手をメガホン代わりに口もとに当て、叫ぶ。

「そこで休んでいてもいいですよ! 外壁のラッピング作業、師匠が見られなくても、わたしがこの目にじっくり焼き付けておきますしっ」

「おまえの目に焼き付けても意味がないだろうが!」

 息切れ交じりの反論は、がらんとした街に虚しく響き渡った。

 土日ともなれば歩行者天国として賑わう都心のデパート街は、木曜の二十二時を過ぎて抜け殻みたいだ。倉庫に置き去りになった映画のセットか、でなければ縁日の翌日を見ている感じ。圧倒的に寂しいのに、それだけじゃない。人の気配の名残がしみじみと、耳の奥に喧騒を思い出させてくれる。

(好きだな、夜の街……)

 昼間の華やかな街を散策するのもいいけれど、わたしは夜のシンとした街並みをただ眺めているほうがもっと好き。

 ここには人に向けられたメッセージが氾濫している。それは建物であったり文字であったり写真であったり絵であったり……すべてが人を求め、待ち焦がれている感じがする。だから健気にも感じられて、放っておけない気持ちにさせられるのかもしれない。

 そんなことを考えていると、信号が青に変わり長谷川さんがやってくる。長く垂らしたブルーグレーのマフラーと、黒いロングコートの裾を一緒になびかせて。

「へえ、花冠か」

 左横に立った彼の第一声はそれだった。視線の先を辿ると、デパートの壁面には花のリースをかたどったフィルムが貼られはじめている。

「今回もまたずいぶんとめかしこませてもらえそうだな。よかったな」

 よかったな、というのはわたしではなく、デパートに掛けられた言葉だ。

 都心のデパート街でも、とくに大きな交差点に面したこの建築物は、四年前に長谷川さんが設計し施工されたもの。世間で長谷川白瀬といえば建築家──国内外で優れた作品を発表する高名な一級建築士のことを言う。

「今年の装飾、花の模様を全体にちりばめるんでしょうか。ホワイトデーのデコレーションにしては華やかですよね。バレンタインのチョコ柄よりガーリーかも」

「さあ、どうだろうな。完成してみないことにはわからないからな。俺は建物を設計しただけで、運営にはノータッチだからそこまでは知らんし……げほ」

 右隣からが聞こえて、わたしはハッとする。

 師匠、冷えたのかもしれない。弟子であるわたしが師匠に風邪でも引かせてしまったら大変だ。すぐさまバッグからステンレスボトルを取り出し、事務所で淹れてきたホットコーヒーを付属のコップに注いで差し出す。

「どうぞ。長谷川さんの好きなケニア豆のブラックコーヒーです」

「はあ……、おまえ、いつも用意がいいよな」

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