この家の、あかり

ノベルバユーザー627832

オープニング 「うちに、おいで」―でっかい人は、語る

 「将来は、猫、飼いたいよね」

 その言葉は、妻が未来を語るとき、必ず最後にそっと添えられた。

 まるで、まだ見ぬ家族の影が、彼女の心の奥に静かに座っているかのようだった。
 私はそのたびに、曖昧に笑って頷いた。頷きながら、胸のどこかが少しだけ痛んだ。叶えてあげたいのに、叶えられない現実が、いつも目の前に立ちはだかっていたからだ。

 転勤続きの生活。

 段ボールを開けては閉じ、また次の土地へ移る。結婚して四度引っ越しをした。「いつか」という言葉だけが、私たちの夢をそっと包んでいた。

 家を建てたら。
 落ち着いたら。

 その「落ち着く」という未来は、いつも少し先に逃げていった。

 妻はそれを責めなかった。

 ただ、夢をそっと胸にしまい込むように微笑んだ。その微笑みが、私には時々、痛いほど優しく見えた。

 結婚して五度目の引っ越しで、東京勤務が決まった。
 結婚五年目、まだ子供はいない。

 東京の家賃は、地方の感覚では息を呑むほど高い。広さを求める余裕などなく、会社が用意した古い社宅に入ることになった。

 その社宅は、古い町並みの中にひっそりと佇んでいた。外壁は少し色あせ、階段の手すりには長年の手の温度が染み込んでいる。少し錆びたそれは、どこか懐かしい匂いをさせていた。
 人が長く住んだ場所だけが持つ、柔らかな生活の匂い。
 
 住人たちは、私たちよりずっと年上だった。だからこそ、地方から出てきた若い夫婦の私たちを、まるで遠い親戚のように迎えてくれた。その優しさに触れるたび、私は胸の奥で小さく息をついた。

「ここなら、妻も少しは寂しくないかもしれない」

 そんな淡い期待が、静かに灯った。
 
 引っ越しも落ち着いた初夏の日曜日。
 二人でスーパーへ向かうため、三階の部屋から階段を降りていた。
 開け放たれたドアから、春の名残の風が廊下をすり抜けていく。その風に混じって、ふと違和感が目に映った。

 小さな柵。

 覗き込むつもりがないが、開け放たれたドアの向こうに小さな柵がおいてある。
 幼い子どもが外に出ないようにするための、ガードのような柵。このご家庭には、そんな小さなお子さんは居なかったはずだ。
 そう思った瞬間、視界の端でふわりと白いものが揺れた。
 真っ白い毛並み。フサフサの尻尾、小さく「キャン」と鳴く声。

――犬だ。

 社宅では、ペット禁止のはずなのに。けれど、その白い影は、古い社宅にひっそりと灯る「秘密のあかり」のように見えた。

 「猫も飼えるのかな?」

 妻の声が、風に溶けるように小さく震えて聞こえた。妻も私の発見と同じ物を目にしていた。長い間しまい込んできた夢が、そっと息を吹き返したような声だった。
 私はその震えを聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられた。叶えてあげたい。でも、叶えられないかもしれない。
 その二つの思いが、静かにぶつかり合った。
 その日、スーパーまでのみちのりは、久しぶりに未来の話で満たされた。
 妻の横顔は、どこか少女のように明るくキラキラとしていた。

 とはいえ、現実はそう簡単には変わらない。
 転勤の可能性は常にある。結婚してもう五度目の転勤だ。
 「飼えるかもしれない」という淡い期待だけを胸に、忙しい日々が過ぎていった。
 
 けれど、その期待は、心の奥で小さな明かりのように揺れ続けていた。風が吹けば揺れるが、決して消えない灯りのように。

 妻が一日の大半を、ひとりで過ごしていることを私は知っている。知っていながら、仕事に追われ、背中を向けるしかなかった。その背中に、どれほどの寂しさが積もっていたのか。私は気が付かないふりをしていたのかもしれない。

 ある日のこと。

 会社の後輩が突然、仕事を辞めて「香港に行く」と言い出した。会社にはもう伝えていると。
 詳しく話を聞くと、新婚の彼女は、夫の転勤に合わせて香港へ行くという。
 仕事を続けるよりも、彼についていきたい。
 そんな話だった。

 「あの、お願いがあるんです。」

 後輩がさらに話を切り出し始めた。
 新居に合わせて買い揃えた家具が無駄になるため、もしよければ引き取ってほしいと。東京に来て日が浅いわたしたちにとっても、家具はまだ揃っていない。お互いにとって悪い話ではなかった。妻に相談し、次の週末に後輩の家を尋ねることにした。
 
 後輩の住まいは横浜にほど近い閑静な住宅街の一角、真新しい賃貸マンションだった。わたしたちの社宅とは対象的に、どこか新婚の匂いがした。
 しかし、馴れない土地を運転したため、到着したのは約束の時間よりも二時間遅れ。思ったよりも多くの仲間に声をかけていたのか、私達が訪ねた時には、めぼしい家具はすでになく、小さなライトだけが残されていた。

「これよかったら……」

 後輩は申し訳なさそうに差し出した。その声の奥に、彼女自身の「別れ」の寂しさが滲んでいた。
 彼女に、精一杯の笑顔を返し、謝礼と共に受け取った。
 短い時間の滞在のあと、帰路についた。妻がポツリと言った。

「……あの部屋だけ、静かだったね。」

 その言葉に、私は胸の奥がまた痛んだ。妻の声は、家具が無い事への話ではなく、どこか「自分たちの部屋の静けさ」を重ねているように聞こえた。

 家具は手に入らなかったが、せっかくの遠出。
 ドライブ気分での帰り道、遅めの昼食を取ろうと、たまたま目についた、ショッピングモールに入った。

 私達はどのモールでも、必ず、ペットショップを覗くようにしていた。
 「いつか迎える家族」を想像する、大切な儀式のようなものだった。その日も、昼食を終えると、自然と足はペットショップへ向かっていた。

 あまり大きくないモール。ペットショップもあまり大きくない。
 狭いためなのか、様々なペットグッズが上に上にと積み上がっているため、店内の通路は思ったよりも薄暗い。そこを抜けると、店内の奥に――いた。

 小さく、可愛く、儚げに鳴く、四匹の子猫。
 ガラスケースの中ではなく、四匹がサークルの中でよちよちと歩きながら、訪れる人々を見上げ愛想を振りまいている。
 その姿は、まるで「ここにいるよ」と言ってるかのように。
 妻の目が、ふと柔らかくなったのに気がついた。

 結婚から五年。
 子供が居なかった。それも運命かと受け入れてはいたが、諦めきれず、妻は産婦人科での治療を受け、子供を授かるための努力をしていた。
 長い治療の中で、何度も涙をこらえてきた目が、久しぶりに明るい光を宿していた。
 私はその光を見た瞬間、胸の奥が熱くなるのを感じた。

(このまま、この人をひとりにさせたくない。)

 そんな思いが、静かに、しかし確かに湧き上がってきた。
 気づけば、私は口にしていた。

「……誰か、引き取って帰ろうか」

 その言葉は、胸の奥で長い間眠っていたものが、ようやく目を覚ましたようだった。妻は驚いたように私を見つめ、そしてゆっくりと微笑んだ。
 少女のような微笑みだった。
 その微笑みは、五年間の寂しさと希望が溶け合ったような、深い色をしていた。

――――――

 あれから、十年。
 子供も授かり、東京から地方に戻り、家も建て、気がつけば猫は五匹になっていた。

 増やそうと思って増えたわけじゃない。

 最初の切り出しは私だったかもしれないが、次からは妻が、そして子どもたち
が……ただ、出会いがあり、導かれ、気づけば五匹になっていた。

 かぐやは、竹林で泣いていた。台風の前の日だった。朝、仕事に向かう際、いつも通る竹林沿いの道で、か細く泣く声に気がついた。ふと目をやると、小さな白黒と目が合った。しかし、どうにもならない。仕事に向かわなければ。妻に電話をし、白黒の、小さな子猫が、精いっぱい泣いていることだけ伝えた。

 チャトランは、大きな地震の後の混乱の中、避難所にいた友人からの一本の動画から始まった。地域猫として飼われていただろう、人懐っこい子が、ご飯を求めて避難所を巡っている。必死にご飯を求め泣いていると。比較的被害の少なかった我が家で迎え入れることは、自然な流れだった。思ったよりも大きな猫が家族となった。

 マロンとおはぎは、猫の保護活動をしていた方から託された二匹だ。新聞の無料広告に載っていた子猫たち。子どもたちが目ざとく見つけた。つぶらな瞳でこちらを見つめる写真に虜になっている子どもたち。注意書きにはできれば二匹を一緒に引き取ってほしい。兄妹で引き取ってほしいと書かれていた。多分、二匹一緒の引取はハードルが高いだろう、なら、引き取れる家が迎え入れるべきでは?そんな、変な理屈で、引き取ることが決定した。

 そして諭吉。ペットショップで出会った。値段が安かった。理由を聞いたら、店員が言葉を選んだ。全部はわからなかったが、だいたいのことはわかった。それでも、連れて帰った。辛い時期を乗り越える我が家の大黒柱として、家族の真ん中でいつも凛々しく立っていた。

 どの子も、私たちの人生の「節目」に現れた。
 あるで、必要なときに必要な子が、そっと家の扉をたたき、我が家に灯りを灯すように。

――――――

 猫を飼うということには、責任が伴う。

 ご飯をやって、病院に連れて行って、環境を整えて。命を背負う責任。
 ただ、それだけじゃなく、この子たちの時間に、こちらの時間を合わせていく。それが、思った以上に、悪くなかった。
 それ以上に、日々の中に「活き活きとした気配」が生まれることが楽しかった。

 家に帰ると、玄関に来る子がいる。来ない子もいる。それぞれだ。でもどこか、そこかに思い思いの気配がある。

 足元をすり抜ける影。
 廊下の先でこちらを見ている瞳。

 それらが、家の中に静かな灯りをともす。
 家の中に、生き物の気配がある。
 
 それだけで、玄関を開ける瞬間が、少し変わった。

 「ただいま」と言うと、なんだか、ちゃんと帰ってきた気がする。
 家族からの「おかえり」とは違う、背中で語る彼らのおかえり。
 その温度が、なんとも心地よい。

 猫たちが、この家にいる。それだけで、この家があかるい気がする。

 「うちに、来るか?」

 あの時、竹林で鳴いていたかぐやに、そう思いながら妻に電話をした。

 あれが、物語が静かに動き出した瞬間だった。

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