ひょんなことから、猫又人生38才目がはじまりました
第6話 猫生、初めての“仕事”
加藤神社から肥後学園大学付属中学校のある大江まで、約3キロほど。猫の足で走れば二十分ほどだ。ただし、その辺の猫だったら。
この五ヶ月の間で自分に備わった能力をある程度使いこなすことが出来るようになった佐藤にとっては、熊本市街と水前寺方面とを分けるように存在する白川をすーっと飛んでいくことは朝飯前。太陽もすっかり金峰山の向こうに消えてしまい、辺りは薄暗い。これ幸いと、白川を斜めに横断するようにショートカットをすれば、一〇分ほどで学校に到着する予定だ。
走りながら、琴音から聞いた話を整理する。
昨日の練習のあと、専用の衣装ケースに入れて部室の奥に収めていた。今朝、授業が始まる前に部室を覗いた際、衣装ケースがあるのは見ている。そのまま部室の鍵を開けたまま授業を受けた。休み時間に部室で過ごす生徒もいるため、この時期はいつもそうしていた。
そして、昼休みに部室を覗いた時に、衣装ケースが無くなっていた。部室にいた部員に聞いても知らないと言う。顧問の先生が演劇発表会後に、専門のクリーニングに頼んで返さないとね、と言っていたので、その確認で先生が持ち出したのかと深く考えなかった。しかし、放課後に一番で部室に入ると、衣装ケースが戻されていた。そして中身を見ると、中に入っていたはずの着物が消えていた。
ここまで話を聞いて、佐藤は衣装が遠くに運ばれていない気がした。
誰かに衣装ケースごと運び出され、中身を抜き取られた後にケースだけ戻された。この衣装ケースが戻されたのが盗んだ犯人が意図したことなのか、たまたまだったのか。ただ言えるのは、外部からの侵入者による窃盗の場合、わざわざ衣装ケースを戻すような危険は冒さない。
と考えると、犯人は学校関係者。そして衣装ケースを戻す行為の意図として考えられるのは、まだ衣装が無くなっていないと思わせることではないか。学校内から運び出すまでの時間稼ぎ……そう考えれば、自ずと答えは分かってくる。衣装はまだ、校内にある。
そう考えて、善は急げと学校に向かっているのだった。
考え事をしながらも、注意深さだけは怠らない。市電の線路沿いを走ると目立つなと、街中を通り過ぎる時には多少遠回りをしながら上通りの裏道をひた走り、白川公園を通り抜け、ひとまず白川の岸辺までやってきた。
狙いどおり辺りは薄暗く、黒猫の自分が白川の上を飛行しても目立たないだろう。飛べるとは言っても、すーっと人の歩くスピードよりやや早いくらいの速度。あまり長く飛んでいては目立ってしまう。
何度も飛行の練習をしているとは言え、白川のような大きな河川を渡るほどの経験はしていない。ためらう気持ちもありつつ、早めに学校に着きたかった佐藤は、えいやっと白川に向けてダイブした。
飛び上がった姿勢のまま、すーっと斜め上方に体は進んでいく。ある程度の高さまで上がったところで、横移動に意識を向ける。すーっと滑るように白川の上を通り越していく。眼下を見ると、月明かりに照らされた自分の影が白川の水面に揺れている。ゆらゆらと揺れるように映る自分の姿と月明かりがなんとも幻想的で、こんな時でなければしばらく眺めていたい。
白川を飛び越えるのにおおよそ一分ほど。無事に反対側の新屋敷側に降り立てた。
すると、ふわりと付近から鶏肉を揚げる香ばしくもかぐわかしい匂いが漂い流れてきた。そうだ、このあたりは……骨付き唐揚げが美味いお店があったことを思い出し、少しだけそちらに気持ちが揺れる。
(いかんいかん。ここは学校が先)
どうにも、猫生を生きていると、自由気ままに気持ちが移るのを感じる。佐藤として生きた時は、真面目に実直にと生きてきた気がするが、どうも猫というものは、本能で気持ちが自由気ままなようである。そんな本能を押さえながら、自分の目的を失わないように気持ちを奮い立たせた。
お店を覗きたい衝動を押さえ、新屋敷の裏道からいくつかの道を越え、団地の敷地に入った。これまた、それぞれの家々から夕食の匂いが漏れてくる。醤油と出汁と脂と……肉に魚にお野菜の匂い。人間だった頃は当たり前だったものが、猫の鼻には宝物のように届く。またもや食欲に流されそうになる気持ちを首を一振りで追い払い更に足を進め、電気屋さんの駐車場を走り抜け大きな通りまで出てきた。
この辺り――大江の街は、閑静な住宅街に、大きめのスーパー、それに呼応するように世界的コーヒーショップチェーン店や地元で人気の焼肉屋さん等が軒を並べ、賑やかな通りになっている。テレビ局やスポーツクラブも近くに存在し、夕方を過ぎたこの時間帯でも人通りは多い。
街灯の光に照らされた大きな通りを駆け抜けようと思ったが、思ったよりも車の流れがひっきりなしのため、自分が黒猫を助けたシチュエーションのように誰かを驚かせてはいけない。そう思って、歩道橋を使って通りを渡った。そのまま突っ走り、予定どおり十分ほどで学校に着いた。
懐かしき我が母校、肥後学園大学附属中学校の校舎が眼の前にある。同じ市内に住んでいたが、大学卒業以来、ほとんど足を運んだことがない。だが、20年以上前とその姿に変わりはない。公立校にありがちな無機質なセメント作りではなく、タイル張りの壁面は、それなりの年月が経っても白くそびえ立っており、時の流れが止まっているようだ。
時間は十八時三十分を少し回ったところ。運動部の生徒がグラウンドで片付けている姿がちらほらと見えるが、構内にはほとんど生徒の影はない。先生たちはまだ残っているのか、職員室には明かりが灯っている。
それらを、人目のつかない窓にそっと浮かんで一瞥したのち、力を発揮した。
ちょっとした念動力。
大きな力はないが、自分の体重くらい……五キロ近くの物をある程度自由に動かせる力。それを使い、窓に掛かった鍵をゆっくりと解除して自分が入れるほどに窓を空けた。滑り込むように校内に侵入する。人間だった頃には考えられない機敏さだ。
演劇部の部室は三階だと琴音が言っていた。校内には人気があるところにだけ明かりが点いており、全体的には薄暗い。しかし、猫の目は昼間のようにハッキリと視界が確保出来ている。足取りも軽やかに、黒猫の特性も相まって、誰かに見つかる感じがしない。そのままスルスルッと階段を駆け上がり、三階の廊下へ降り立った。
シン、と静まり返った夜の学校。
それなりの年月が経っても、しっかりとした作りの校舎。埃っぽさは微塵も感じず、まだどこか真新しい香りも感じるほどの校舎。それでもどこか懐かしい。自分も二十年以上前に、この廊下を歩いていた。あの頃は、このピカピカな廊下が、なんだか仰々しく感じて、少し窮屈に感じていた。今になって、少しだけ愛おしく思える。
佐藤は足音を殺しながら、さらに廊下を進んだ。
演劇部の部室は、三階の突き当たりにあった。
ドアの前で立ち止まり、鼻を働かせる。
(……人の匂いがする。それも、最近の)
さっき嗅いだ琴音の香りとは違う、誰かの匂い。ついさっきまでこの室内にいたような匂い。
(鍵を持っているのは先生と琴音だけだ。琴音は今朝、部活前に衣装ケースの存在を確認して施錠している。なのに、誰かがここにいた匂いがする)
顧問の先生にはまだ衣装紛失の報告をしていない。衣装がなくても、ひとまずは練習も出来るし、本番までに見つかれば良い。もしいたずらなら、大事にして誰かを犯人扱いにして吊し上げたくない。琴音のお人好しとも言える優しさに絆されたところもある。
念の為、部室のドアを開けようとするが施錠されていた。少し浮かんで窓から中を覗いてみると、雑然とした感じで、小道具や脚本のようなものなどが見える。奥の方には衣装ケース。しかし、遠目から見ても衣装ケースには和装が入っているようには見えない。そんな風に考えながら、そのかすかな「人がいた痕跡」を用心深く匂ってみた。
匂いはこの部屋を出て、廊下の先へ、続いている。
(……どこだ)
佐藤は匂いを辿った。突き当たりを右に折れ、渡り廊下を渡る。付属高校の新校舎を抜け、旧校舎への渡り廊下も越えていく。中学生は、体育館を使用する時以外は旧校舎にはあまり足を運ばない。そのまま辿っていくと、多目的室と書かれた札のかかった古びたドアがあった。
多目的室とは書かれているものの、新しい校舎が出来たため、現在は使用される機会が少なく、雑多な物置に近い使い方になっている。
そのドアが、わずかに開いていた。
中を覗いた瞬間——佐藤は息を止めた。
薄暗い部屋の隅、パイプ椅子と折りたたみ机が積み上げられた陰。その隙間に、大きな紙袋が二つ押し込まれているのが見えた。
雑に突っ込まえたそれ。隠すというよりもひとまず別場所から急いで置いた感じのする紙袋の口からは、金糸の刺繍が施された布地がわずかにはみ出している。
佐藤はそっと近づき、鼻を寄せた。
古い絹の匂い。丁寧に手入れされた、上質な和装の匂いだ。琴音が話していた「おばあちゃんの知り合いから借りた和装」——間違いない。
(……あった)
胸の奥で、何かがほっとした。
だが、その時だった。
渡り廊下の方から、足音が近づいてくる。佐藤の耳が敏感に感じ取った。
佐藤は咄嗟に、積み上げられた机の陰へ身を潜めた。息を殺す。猫の体は小さい。人間だった頃には出来なかった隠れ方が、今は造作もない。
多目的室のドアが、ゆっくりと開いた。
入ったあとに、一旦ドアから首だけを出し外を一瞥し、自分が部屋に入ったところを誰にも見られていないことを確認している。
入ってきたのは、中学校の制服姿の女子生徒だった。
背が高く、髪を肩で切り揃えている。顔立ちは整っているが、その目は今、暗い光を帯びていた。手に持っているのは、小さなスマートフォン。画面の光が、薄暗い部屋を青白く照らす。
そして——その体を取り巻くオーラが、佐藤の目に飛び込んだ。
暗い赤と、濁った緑、薄い紫色が複雑に混ざり合っている。
怒りと、嫉妬と、それから——後ろめたさ。
その三つが、ない交ぜになって揺れている。
(……この子が、やったのか)
女子生徒は部屋の奥まで進み、迷いなく紙袋の前にしゃがみ込み、中を確認した。金糸の刺繍をそっと指でなぞり、それから小さく息をついた。
安堵、ではなかった。
どこか、自分のしたことを持て余しているような、そういうため息だった。
女子生徒はしばらくそのまま動かなかった。それから、独り言のように、小さく呟いた。
「……琴音が部長なのは、おばあちゃんの着物のおかげでしょ」
声は、静かだった。怒鳴っているわけでも、泣いているわけでもない。ただ、ずっと胸の中で繰り返してきた言葉を、誰もいないと思って吐き出した、そういう声だった。
「実力じゃない。本当の部長は……」
そこで言葉が止まった。
代わりに、廊下の蛍光灯が一本、ちかちかと瞬いた。女性生徒は一瞬固まるが、単なる蛍光灯の気まぐれであることにホッと一息ついて、また、紙袋を見ている。
佐藤は机の陰で、じっとその子を見ていた。
オーラの色が、揺れている。暗い赤と濁った緑の中に、白に近い何かが混じり始めていた。
(……後悔、か)
やったことへの後ろめたさが、じわじわと滲んでいる。まだ、引き返せる場所にいる。
佐藤はそっと、机の陰から出た。
肉球に意識を持って静かにゆっくりと音もなく、女子生徒の足元へ近づく。
そして——ぽむ、と肉球を乗せた。
「……っ!?」
女子生徒が飛び上がった。スマートフォンを取り落としそうになり、慌てて両手で押さえる。
「な、なに……猫? どこから……」
女子生徒は佐藤を見下ろした。
エメラルドグリーンの瞳が、まっすぐに女子生徒を見上げている。切れ長の女子生徒の目をまっすぐに見据えている。
女子生徒は、その瞳から目が逸らせなかった。
「……なんで、こんなところに猫がいるの」
佐藤は答えなかった。ただ、じっと見ていた。
女子生徒のオーラが、また少し変わった。暗い赤が薄れて、白が増えている。
(……そうだ。自分でも、分かってるんだろう)
佐藤は一度だけ、静かに鳴いた。
「にゃー」
女子生徒は、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと立ち上がり、紙袋を見た。また、黒猫を見た。
女子生徒は、何かを考えている顔だった。
佐藤はわざとペタペタと肉球の音を出しながら離れ、多目的室のドアへ向かった。出口を示すように、一度振り返り「にゃー」と一声鳴く。
「……猫が、しっかりしろって言ってる」
女子生徒は、小さく笑った。泣き笑いのような、そういう笑い方だった。
「馬鹿みたい。猫に言われて、どうするんだろ、私」
佐藤はそのまま廊下へ出た。
後ろで、紙袋を持ち上げる音がした。
(……よし)
佐藤は廊下を、来た道とは反対方向へ歩き始めた。
この五ヶ月の間で自分に備わった能力をある程度使いこなすことが出来るようになった佐藤にとっては、熊本市街と水前寺方面とを分けるように存在する白川をすーっと飛んでいくことは朝飯前。太陽もすっかり金峰山の向こうに消えてしまい、辺りは薄暗い。これ幸いと、白川を斜めに横断するようにショートカットをすれば、一〇分ほどで学校に到着する予定だ。
走りながら、琴音から聞いた話を整理する。
昨日の練習のあと、専用の衣装ケースに入れて部室の奥に収めていた。今朝、授業が始まる前に部室を覗いた際、衣装ケースがあるのは見ている。そのまま部室の鍵を開けたまま授業を受けた。休み時間に部室で過ごす生徒もいるため、この時期はいつもそうしていた。
そして、昼休みに部室を覗いた時に、衣装ケースが無くなっていた。部室にいた部員に聞いても知らないと言う。顧問の先生が演劇発表会後に、専門のクリーニングに頼んで返さないとね、と言っていたので、その確認で先生が持ち出したのかと深く考えなかった。しかし、放課後に一番で部室に入ると、衣装ケースが戻されていた。そして中身を見ると、中に入っていたはずの着物が消えていた。
ここまで話を聞いて、佐藤は衣装が遠くに運ばれていない気がした。
誰かに衣装ケースごと運び出され、中身を抜き取られた後にケースだけ戻された。この衣装ケースが戻されたのが盗んだ犯人が意図したことなのか、たまたまだったのか。ただ言えるのは、外部からの侵入者による窃盗の場合、わざわざ衣装ケースを戻すような危険は冒さない。
と考えると、犯人は学校関係者。そして衣装ケースを戻す行為の意図として考えられるのは、まだ衣装が無くなっていないと思わせることではないか。学校内から運び出すまでの時間稼ぎ……そう考えれば、自ずと答えは分かってくる。衣装はまだ、校内にある。
そう考えて、善は急げと学校に向かっているのだった。
考え事をしながらも、注意深さだけは怠らない。市電の線路沿いを走ると目立つなと、街中を通り過ぎる時には多少遠回りをしながら上通りの裏道をひた走り、白川公園を通り抜け、ひとまず白川の岸辺までやってきた。
狙いどおり辺りは薄暗く、黒猫の自分が白川の上を飛行しても目立たないだろう。飛べるとは言っても、すーっと人の歩くスピードよりやや早いくらいの速度。あまり長く飛んでいては目立ってしまう。
何度も飛行の練習をしているとは言え、白川のような大きな河川を渡るほどの経験はしていない。ためらう気持ちもありつつ、早めに学校に着きたかった佐藤は、えいやっと白川に向けてダイブした。
飛び上がった姿勢のまま、すーっと斜め上方に体は進んでいく。ある程度の高さまで上がったところで、横移動に意識を向ける。すーっと滑るように白川の上を通り越していく。眼下を見ると、月明かりに照らされた自分の影が白川の水面に揺れている。ゆらゆらと揺れるように映る自分の姿と月明かりがなんとも幻想的で、こんな時でなければしばらく眺めていたい。
白川を飛び越えるのにおおよそ一分ほど。無事に反対側の新屋敷側に降り立てた。
すると、ふわりと付近から鶏肉を揚げる香ばしくもかぐわかしい匂いが漂い流れてきた。そうだ、このあたりは……骨付き唐揚げが美味いお店があったことを思い出し、少しだけそちらに気持ちが揺れる。
(いかんいかん。ここは学校が先)
どうにも、猫生を生きていると、自由気ままに気持ちが移るのを感じる。佐藤として生きた時は、真面目に実直にと生きてきた気がするが、どうも猫というものは、本能で気持ちが自由気ままなようである。そんな本能を押さえながら、自分の目的を失わないように気持ちを奮い立たせた。
お店を覗きたい衝動を押さえ、新屋敷の裏道からいくつかの道を越え、団地の敷地に入った。これまた、それぞれの家々から夕食の匂いが漏れてくる。醤油と出汁と脂と……肉に魚にお野菜の匂い。人間だった頃は当たり前だったものが、猫の鼻には宝物のように届く。またもや食欲に流されそうになる気持ちを首を一振りで追い払い更に足を進め、電気屋さんの駐車場を走り抜け大きな通りまで出てきた。
この辺り――大江の街は、閑静な住宅街に、大きめのスーパー、それに呼応するように世界的コーヒーショップチェーン店や地元で人気の焼肉屋さん等が軒を並べ、賑やかな通りになっている。テレビ局やスポーツクラブも近くに存在し、夕方を過ぎたこの時間帯でも人通りは多い。
街灯の光に照らされた大きな通りを駆け抜けようと思ったが、思ったよりも車の流れがひっきりなしのため、自分が黒猫を助けたシチュエーションのように誰かを驚かせてはいけない。そう思って、歩道橋を使って通りを渡った。そのまま突っ走り、予定どおり十分ほどで学校に着いた。
懐かしき我が母校、肥後学園大学附属中学校の校舎が眼の前にある。同じ市内に住んでいたが、大学卒業以来、ほとんど足を運んだことがない。だが、20年以上前とその姿に変わりはない。公立校にありがちな無機質なセメント作りではなく、タイル張りの壁面は、それなりの年月が経っても白くそびえ立っており、時の流れが止まっているようだ。
時間は十八時三十分を少し回ったところ。運動部の生徒がグラウンドで片付けている姿がちらほらと見えるが、構内にはほとんど生徒の影はない。先生たちはまだ残っているのか、職員室には明かりが灯っている。
それらを、人目のつかない窓にそっと浮かんで一瞥したのち、力を発揮した。
ちょっとした念動力。
大きな力はないが、自分の体重くらい……五キロ近くの物をある程度自由に動かせる力。それを使い、窓に掛かった鍵をゆっくりと解除して自分が入れるほどに窓を空けた。滑り込むように校内に侵入する。人間だった頃には考えられない機敏さだ。
演劇部の部室は三階だと琴音が言っていた。校内には人気があるところにだけ明かりが点いており、全体的には薄暗い。しかし、猫の目は昼間のようにハッキリと視界が確保出来ている。足取りも軽やかに、黒猫の特性も相まって、誰かに見つかる感じがしない。そのままスルスルッと階段を駆け上がり、三階の廊下へ降り立った。
シン、と静まり返った夜の学校。
それなりの年月が経っても、しっかりとした作りの校舎。埃っぽさは微塵も感じず、まだどこか真新しい香りも感じるほどの校舎。それでもどこか懐かしい。自分も二十年以上前に、この廊下を歩いていた。あの頃は、このピカピカな廊下が、なんだか仰々しく感じて、少し窮屈に感じていた。今になって、少しだけ愛おしく思える。
佐藤は足音を殺しながら、さらに廊下を進んだ。
演劇部の部室は、三階の突き当たりにあった。
ドアの前で立ち止まり、鼻を働かせる。
(……人の匂いがする。それも、最近の)
さっき嗅いだ琴音の香りとは違う、誰かの匂い。ついさっきまでこの室内にいたような匂い。
(鍵を持っているのは先生と琴音だけだ。琴音は今朝、部活前に衣装ケースの存在を確認して施錠している。なのに、誰かがここにいた匂いがする)
顧問の先生にはまだ衣装紛失の報告をしていない。衣装がなくても、ひとまずは練習も出来るし、本番までに見つかれば良い。もしいたずらなら、大事にして誰かを犯人扱いにして吊し上げたくない。琴音のお人好しとも言える優しさに絆されたところもある。
念の為、部室のドアを開けようとするが施錠されていた。少し浮かんで窓から中を覗いてみると、雑然とした感じで、小道具や脚本のようなものなどが見える。奥の方には衣装ケース。しかし、遠目から見ても衣装ケースには和装が入っているようには見えない。そんな風に考えながら、そのかすかな「人がいた痕跡」を用心深く匂ってみた。
匂いはこの部屋を出て、廊下の先へ、続いている。
(……どこだ)
佐藤は匂いを辿った。突き当たりを右に折れ、渡り廊下を渡る。付属高校の新校舎を抜け、旧校舎への渡り廊下も越えていく。中学生は、体育館を使用する時以外は旧校舎にはあまり足を運ばない。そのまま辿っていくと、多目的室と書かれた札のかかった古びたドアがあった。
多目的室とは書かれているものの、新しい校舎が出来たため、現在は使用される機会が少なく、雑多な物置に近い使い方になっている。
そのドアが、わずかに開いていた。
中を覗いた瞬間——佐藤は息を止めた。
薄暗い部屋の隅、パイプ椅子と折りたたみ机が積み上げられた陰。その隙間に、大きな紙袋が二つ押し込まれているのが見えた。
雑に突っ込まえたそれ。隠すというよりもひとまず別場所から急いで置いた感じのする紙袋の口からは、金糸の刺繍が施された布地がわずかにはみ出している。
佐藤はそっと近づき、鼻を寄せた。
古い絹の匂い。丁寧に手入れされた、上質な和装の匂いだ。琴音が話していた「おばあちゃんの知り合いから借りた和装」——間違いない。
(……あった)
胸の奥で、何かがほっとした。
だが、その時だった。
渡り廊下の方から、足音が近づいてくる。佐藤の耳が敏感に感じ取った。
佐藤は咄嗟に、積み上げられた机の陰へ身を潜めた。息を殺す。猫の体は小さい。人間だった頃には出来なかった隠れ方が、今は造作もない。
多目的室のドアが、ゆっくりと開いた。
入ったあとに、一旦ドアから首だけを出し外を一瞥し、自分が部屋に入ったところを誰にも見られていないことを確認している。
入ってきたのは、中学校の制服姿の女子生徒だった。
背が高く、髪を肩で切り揃えている。顔立ちは整っているが、その目は今、暗い光を帯びていた。手に持っているのは、小さなスマートフォン。画面の光が、薄暗い部屋を青白く照らす。
そして——その体を取り巻くオーラが、佐藤の目に飛び込んだ。
暗い赤と、濁った緑、薄い紫色が複雑に混ざり合っている。
怒りと、嫉妬と、それから——後ろめたさ。
その三つが、ない交ぜになって揺れている。
(……この子が、やったのか)
女子生徒は部屋の奥まで進み、迷いなく紙袋の前にしゃがみ込み、中を確認した。金糸の刺繍をそっと指でなぞり、それから小さく息をついた。
安堵、ではなかった。
どこか、自分のしたことを持て余しているような、そういうため息だった。
女子生徒はしばらくそのまま動かなかった。それから、独り言のように、小さく呟いた。
「……琴音が部長なのは、おばあちゃんの着物のおかげでしょ」
声は、静かだった。怒鳴っているわけでも、泣いているわけでもない。ただ、ずっと胸の中で繰り返してきた言葉を、誰もいないと思って吐き出した、そういう声だった。
「実力じゃない。本当の部長は……」
そこで言葉が止まった。
代わりに、廊下の蛍光灯が一本、ちかちかと瞬いた。女性生徒は一瞬固まるが、単なる蛍光灯の気まぐれであることにホッと一息ついて、また、紙袋を見ている。
佐藤は机の陰で、じっとその子を見ていた。
オーラの色が、揺れている。暗い赤と濁った緑の中に、白に近い何かが混じり始めていた。
(……後悔、か)
やったことへの後ろめたさが、じわじわと滲んでいる。まだ、引き返せる場所にいる。
佐藤はそっと、机の陰から出た。
肉球に意識を持って静かにゆっくりと音もなく、女子生徒の足元へ近づく。
そして——ぽむ、と肉球を乗せた。
「……っ!?」
女子生徒が飛び上がった。スマートフォンを取り落としそうになり、慌てて両手で押さえる。
「な、なに……猫? どこから……」
女子生徒は佐藤を見下ろした。
エメラルドグリーンの瞳が、まっすぐに女子生徒を見上げている。切れ長の女子生徒の目をまっすぐに見据えている。
女子生徒は、その瞳から目が逸らせなかった。
「……なんで、こんなところに猫がいるの」
佐藤は答えなかった。ただ、じっと見ていた。
女子生徒のオーラが、また少し変わった。暗い赤が薄れて、白が増えている。
(……そうだ。自分でも、分かってるんだろう)
佐藤は一度だけ、静かに鳴いた。
「にゃー」
女子生徒は、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと立ち上がり、紙袋を見た。また、黒猫を見た。
女子生徒は、何かを考えている顔だった。
佐藤はわざとペタペタと肉球の音を出しながら離れ、多目的室のドアへ向かった。出口を示すように、一度振り返り「にゃー」と一声鳴く。
「……猫が、しっかりしろって言ってる」
女子生徒は、小さく笑った。泣き笑いのような、そういう笑い方だった。
「馬鹿みたい。猫に言われて、どうするんだろ、私」
佐藤はそのまま廊下へ出た。
後ろで、紙袋を持ち上げる音がした。
(……よし)
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