ひょんなことから、猫又人生38才目がはじまりました
第5話 事件の匂いはいきなり団子の香り
十月の夕暮れ。
あっという間に十月。だけど、十月とは思えない暑さがまだ熊本の街には残っている。八月頃の粘っこい暑さではないが、いつまでも太陽のパワーが落ちない感覚。
いつからだろうか、秋が来るのがすっかり遅くなり、十一月になったら一気に秋が深まり、その頃になるとつるりと陽が落ちるようになる気がする。
加藤神社の境内に西日が差し込み、銀杏の黄色が燃えるように輝いていた。空気の暑さでは秋は感じにくくても、こういったところで秋は少し感じられる。あと三十分もすれば金峰山の先に夕日が沈み、あとは一気に暮れるだけだ。境内には秋が侵食し始めていた。石畳は乾いた落ち葉がチラホラと積もりはじめ、どこからかいきなり団子の甘い匂いが風に乗って流れてくる。
(……今年採れた芋なのかな。芋の甘い匂いって、こんなに幸せだったか。人間の頃は、コンビニの冷えた弁当ばっかりだったのに)
猫として新たに生を受けて実感する能力の高さのひとつに、鼻の良さがある。
御神木のウロで丸まっていた佐藤は、その甘い匂いに引っ張られるように顔を上げた。猫の鼻は正直で、そして残酷だ。焼きたての皮の香ばしさ、蒸した芋のほくほくした甘さ——城彩苑からここまで届くのか、と思うほど鮮明に漂ってくる。
だが、その匂いの奥に——もっと強い、別の何かが混じっていた。
湿った土の匂い。それも、少し塩っ気のある……涙の匂い。
そして、胸の奥がぎゅっと締めつけられるような、重苦しさ。
(……誰か、泣いてる?)
佐藤は御神木のウロからそっと出て、石畳を踏んだ。
匂いの元は、石造りの鳥居のそばに存在していた。鳥居に背中を預け、膝を抱えて座り込んでいる人影から漂っている。
まだそこにだけ澄み渡る夏の空が残っているような、気品ある瑠璃色のワンピース。優美に広がる白いセーラーカラーは、学びの舎にそよぐ清らかな風のよう。清楚な佇まいの中に、凛とした知性と未来への瑞々しさが感じられるセーラー服。佐藤にとっては懐かしく、そしていつも目にしていた肥後学園大学付属中学校の制服だ。
短く整えられた黒髪、眼鏡の奥の瞳は、涙で濡れて揺れている。知的な雰囲気が感じられる美少女とも言える顔立ち。そんな彼女の頬は涙で淡く赤みを帯び、どこか儚げだ。
少女は肩を震わせ、石段の一点を見つめたまま、小さく呟いた。
「……どうしよう……。私がしっかり確認していなかったから……みんなの努力が……」
その声は、風に消え入りそうに小さい。
佐藤の目には、少女の体を取り巻く紫色のオーラが見えた。半年間で覚えた色の中でも、もっとも重たい色。絶望と自責が混ざり合った、出口を探している色だ。
(……ただ事じゃないな)
猫又おじさんとしての、お節介おじさん心がムクムクと膨れてくる。
佐藤はそっと石段を上り、少女の足元へ近づいた。そして、ローファーのつま先に——ぽむ、と肉球を乗せた。
「……え?」
少女が顔を上げる。
エメラルドグリーンの猫の瞳と、涙で濡れた黒い瞳が、真っ直ぐに重なった。
「……猫ちゃん?」
「にゃーん」
(どうしたんだい、お嬢ちゃん。)
もちろん、少女にはただの鳴き声にしか聞こえない。だが、猫の瞳はまっすぐに少女を捉えている。それが不思議と、自分に語りかけているように感じ、少女は、胸の奥に溜め込んでいたものが、ふっとほどける感触があった。
「……聞いてくれるの?」
少女は涙を拭い、ぽつりぽつりと語り始めた。
――――――
少女の名前は、一ノ瀬琴音。十四歳、中学二年生。肥後学園大学附属中学校演劇部の部長だという。
三年生の卒部公演も含めて行われる演劇発表会が来週に迫っていた。熊本を舞台にした和装劇の出演者の衣装。より本物の方が舞台で映えると貸出を受け、部室で管理していたが、今日のお昼頃に跡形もなく消えたらしかった。
「おばあちゃんがね、和裁の先生をしているの。だから、知り合いの方から古い和装を特別に借りてね。それを部室においてたんだけど」
どうやら、部室の鍵は少女と先生だけが持っており、夜にはしっかりと施錠がされている。授業中も基本的には施錠しているが、発表会が間近に迫っていたため出入りも多く、朝に解錠したあとは鍵が開いてはいる状況だった。学校関係者以外は入ることがない。基本的に生徒が行き交うため、部室から大きな荷物を出すと目立つ。それなのに……朝から授業が終わるまでの間に、その部室から忽然と衣装がなくなった……。
衣装が無くなっていることに気がついた後、事を大きくせず、自分で分かる範囲を捜索したが見つからない。部員の成果を見せるための大事な衣装。もちろん、おばあちゃんの知り合いにも合わせる顔がない。
琴音は唇を噛んだ。
「私の管理が悪かったって……みんなに思われる。部長なのに……しっかりしなきゃいけないのに……」
(……中2で部長か。そりゃ、背負い込みすぎるだろ)
佐藤は少女に少し近寄り、そっと、琴音の膝に前足を置いた。
「にゃー」
(大丈夫だよ、お嬢ちゃん。)
「……猫ちゃんに言っても、仕方ないんだけどね」
琴音は弱く笑った。だが、その笑顔はすぐに曇った。
「でも……誰にも言えなくて。お母さんにも、部員にも……そしておばあちゃんにも。みんなに迷惑かけたくないから」
(……ああ、これは放っておけない)
その時、琴音が小さく呟いた。
「……もしね、猫ちゃんが衣装を見つけてくれたら、美味しいご飯をご馳走するね。高級猫缶とか……ちゅ〜るとか……」
(……乗った)
もちろん、ご飯だけじゃない。琴音の紫のオーラが、薄い青へと変わり始めていたからだ。
助けたい。この子の涙を止めたい。
佐藤は琴音の膝からそっと前足を下ろすと、琴音の眼の前にさっと乗り出して振り返った。エメラルドグリーンの瞳をまっすぐ琴音に向ける。
「にゃー!」
(任せろ、お嬢ちゃん。)
「えっ、猫ちゃん……?」
佐藤はもう走り出していた。向かう先は——肥後学園大学附属中学校。
猫又おじさんの、最初の“事件”が始まろうとしていた。
あっという間に十月。だけど、十月とは思えない暑さがまだ熊本の街には残っている。八月頃の粘っこい暑さではないが、いつまでも太陽のパワーが落ちない感覚。
いつからだろうか、秋が来るのがすっかり遅くなり、十一月になったら一気に秋が深まり、その頃になるとつるりと陽が落ちるようになる気がする。
加藤神社の境内に西日が差し込み、銀杏の黄色が燃えるように輝いていた。空気の暑さでは秋は感じにくくても、こういったところで秋は少し感じられる。あと三十分もすれば金峰山の先に夕日が沈み、あとは一気に暮れるだけだ。境内には秋が侵食し始めていた。石畳は乾いた落ち葉がチラホラと積もりはじめ、どこからかいきなり団子の甘い匂いが風に乗って流れてくる。
(……今年採れた芋なのかな。芋の甘い匂いって、こんなに幸せだったか。人間の頃は、コンビニの冷えた弁当ばっかりだったのに)
猫として新たに生を受けて実感する能力の高さのひとつに、鼻の良さがある。
御神木のウロで丸まっていた佐藤は、その甘い匂いに引っ張られるように顔を上げた。猫の鼻は正直で、そして残酷だ。焼きたての皮の香ばしさ、蒸した芋のほくほくした甘さ——城彩苑からここまで届くのか、と思うほど鮮明に漂ってくる。
だが、その匂いの奥に——もっと強い、別の何かが混じっていた。
湿った土の匂い。それも、少し塩っ気のある……涙の匂い。
そして、胸の奥がぎゅっと締めつけられるような、重苦しさ。
(……誰か、泣いてる?)
佐藤は御神木のウロからそっと出て、石畳を踏んだ。
匂いの元は、石造りの鳥居のそばに存在していた。鳥居に背中を預け、膝を抱えて座り込んでいる人影から漂っている。
まだそこにだけ澄み渡る夏の空が残っているような、気品ある瑠璃色のワンピース。優美に広がる白いセーラーカラーは、学びの舎にそよぐ清らかな風のよう。清楚な佇まいの中に、凛とした知性と未来への瑞々しさが感じられるセーラー服。佐藤にとっては懐かしく、そしていつも目にしていた肥後学園大学付属中学校の制服だ。
短く整えられた黒髪、眼鏡の奥の瞳は、涙で濡れて揺れている。知的な雰囲気が感じられる美少女とも言える顔立ち。そんな彼女の頬は涙で淡く赤みを帯び、どこか儚げだ。
少女は肩を震わせ、石段の一点を見つめたまま、小さく呟いた。
「……どうしよう……。私がしっかり確認していなかったから……みんなの努力が……」
その声は、風に消え入りそうに小さい。
佐藤の目には、少女の体を取り巻く紫色のオーラが見えた。半年間で覚えた色の中でも、もっとも重たい色。絶望と自責が混ざり合った、出口を探している色だ。
(……ただ事じゃないな)
猫又おじさんとしての、お節介おじさん心がムクムクと膨れてくる。
佐藤はそっと石段を上り、少女の足元へ近づいた。そして、ローファーのつま先に——ぽむ、と肉球を乗せた。
「……え?」
少女が顔を上げる。
エメラルドグリーンの猫の瞳と、涙で濡れた黒い瞳が、真っ直ぐに重なった。
「……猫ちゃん?」
「にゃーん」
(どうしたんだい、お嬢ちゃん。)
もちろん、少女にはただの鳴き声にしか聞こえない。だが、猫の瞳はまっすぐに少女を捉えている。それが不思議と、自分に語りかけているように感じ、少女は、胸の奥に溜め込んでいたものが、ふっとほどける感触があった。
「……聞いてくれるの?」
少女は涙を拭い、ぽつりぽつりと語り始めた。
――――――
少女の名前は、一ノ瀬琴音。十四歳、中学二年生。肥後学園大学附属中学校演劇部の部長だという。
三年生の卒部公演も含めて行われる演劇発表会が来週に迫っていた。熊本を舞台にした和装劇の出演者の衣装。より本物の方が舞台で映えると貸出を受け、部室で管理していたが、今日のお昼頃に跡形もなく消えたらしかった。
「おばあちゃんがね、和裁の先生をしているの。だから、知り合いの方から古い和装を特別に借りてね。それを部室においてたんだけど」
どうやら、部室の鍵は少女と先生だけが持っており、夜にはしっかりと施錠がされている。授業中も基本的には施錠しているが、発表会が間近に迫っていたため出入りも多く、朝に解錠したあとは鍵が開いてはいる状況だった。学校関係者以外は入ることがない。基本的に生徒が行き交うため、部室から大きな荷物を出すと目立つ。それなのに……朝から授業が終わるまでの間に、その部室から忽然と衣装がなくなった……。
衣装が無くなっていることに気がついた後、事を大きくせず、自分で分かる範囲を捜索したが見つからない。部員の成果を見せるための大事な衣装。もちろん、おばあちゃんの知り合いにも合わせる顔がない。
琴音は唇を噛んだ。
「私の管理が悪かったって……みんなに思われる。部長なのに……しっかりしなきゃいけないのに……」
(……中2で部長か。そりゃ、背負い込みすぎるだろ)
佐藤は少女に少し近寄り、そっと、琴音の膝に前足を置いた。
「にゃー」
(大丈夫だよ、お嬢ちゃん。)
「……猫ちゃんに言っても、仕方ないんだけどね」
琴音は弱く笑った。だが、その笑顔はすぐに曇った。
「でも……誰にも言えなくて。お母さんにも、部員にも……そしておばあちゃんにも。みんなに迷惑かけたくないから」
(……ああ、これは放っておけない)
その時、琴音が小さく呟いた。
「……もしね、猫ちゃんが衣装を見つけてくれたら、美味しいご飯をご馳走するね。高級猫缶とか……ちゅ〜るとか……」
(……乗った)
もちろん、ご飯だけじゃない。琴音の紫のオーラが、薄い青へと変わり始めていたからだ。
助けたい。この子の涙を止めたい。
佐藤は琴音の膝からそっと前足を下ろすと、琴音の眼の前にさっと乗り出して振り返った。エメラルドグリーンの瞳をまっすぐ琴音に向ける。
「にゃー!」
(任せろ、お嬢ちゃん。)
「えっ、猫ちゃん……?」
佐藤はもう走り出していた。向かう先は——肥後学園大学附属中学校。
猫又おじさんの、最初の“事件”が始まろうとしていた。
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