ひょんなことから、猫又人生38才目がはじまりました
第2話 転生って本当にあるんだ
雨音が遠ざかり、世界が静かになった。
痛みも、重さも、湿った空気もない。
気がつくと、白かった。
ただ、白い。
視界の端から端まで、どこまでも続く白。
床があるのか天井があるのか分からない、輪郭のない白さの中に、佐藤和雄はふわりと立っていた。いや、「立って」いるのかどうかも定かではない。ただそこにある、という感覚だけがある。
(……死んだ?)
痛みはなかった。体の感覚もよく分からない。あるのはただ、奇妙なほど穏やかな静けさだけだ。
手を見てみようとするが、その感覚もない。その白い空間に、ふわりと浮く存在なのだと認識できた。夢ではなさそうな現実感だけは強く感じる。
その現実感の理由のひとつが、場違いなほどの「生活感」が見えているからだった。
その白い空間に、ポツンと見えるのが丸いちゃぶ台。その上には湯気の立つ湯呑みと、小さな菓子皿に盛られたお菓子。丸い形で金色の包装紙、真ん中に「陣太鼓」と書かれたそのお菓子が二つ。そのうちひとつは包装が解かれ、そのちゃぶ台に座る白髪の老人が嬉しそうに頬張っていた。
白髪の老人と目が合う。深く刻まれたシワをより一層深め、ニコリと微笑んで手招きをした。
佐藤は、すーっとちゃぶ台に近づく。
「――やっと起きたかのう、佐藤和雄くん」
老人は、柔らかい声で語りかけてきた。白い着物に、緩い羽織。どこかの神社の宮司のようでもあり、近所の優しいおじいちゃんとも言える。
「……ここは、どこですか」
「ん〜まぁ、あっちとこっちの間、狭間になる場所じゃな。死んだもんが一度だけ立ち寄る、いわば休憩所みたいなもんじゃ」
佐藤は、すぐに理解をした。
「……俺、死んじまったんですね」
「いかにも。あの市電との衝撃でな」
老人は、陣太鼓の残りを口に入れ、お茶をすすりながらあっさりと言った。
「しかし、お主の行動は実に尊かった。あの仔猫は無傷で、今頃は優しい女子中学生に拾われて保護されておるよ」
「……そうですか。それなら、よかった」
それを聞いて、佐藤はふっと肩の力が抜けるのを感じた。無駄じゃなかった。胸の奥が、少しだけあたたかくなった。良かった。自分の人生に後悔は多かったが、最後の瞬間だけは、胸を張れる気がした。それだけで、なぜか十分なような気がした。
老人は、新しい陣太鼓に手を出そうか迷い手をしながら、ひとまずお茶に手を伸ばし、一拍置く。佐藤は、静かに次の言葉を待っていた。
「さて、ここからが本題じゃ」
老人は、急に真面目な顔になった。
「不平も言わず、周囲を助け続け、自分よりも相手を優先する。そのうえ最後は、自らの命を以て小さな命を救った。天国行きは確定じゃ。」
静かに諭すように声を届けてくれる。
「は、ありがとうございます」
なんとも間の抜けた返事だ、と佐藤自身も思った。
「ただ」と声は続いた。「せっかくじゃから、少し提案があるんじゃ」
「提案?」
「お主、本来の寿命ならあと五十年は生きれたんじゃ。天寿てやつじゃな。それを残してそのまま天国に行くのは少しもったいなくはないか?何かのために命を散らした者を、このまま無に課せすのは惜しいとも思うのじゃ」
佐藤は、言葉の意味を反芻する……。つまらない人生と感じていたが、九十才まで生きる予定だったのか。しかし、このまま……。
「ご、五十年も……?」
つい、言葉が出てしまう。
その言葉を老人はどう受け止めたのか、話は続いた。
「そうじゃ。そこでじゃな」
老人は、にやりと笑って言葉を切る。
「――お主が望むなら、もう少し下界でその寿命、使ってみんか。形は変わるがの」
「形が……変わる?」
「そうじゃ。猫として、じゃ」
沈黙。
佐藤は数秒、その言葉を咀嚼した。
「猫……として、五十年」
「そうじゃ。知恵も記憶もそのまんまに、熊本の街を自由に駆け巡ってみんか。せせこましい人間としての人生ではなくなるが、代わりに、日向ぼっこと、風の匂いと、自由がある猫としての猫生じゃ。」
佐藤は、思わず笑った。
「もちろん、断ってもいいんじゃぞ」
断っても構わない。でも。
佐藤は思った。人間としての三十七年を振り返ってみる。悪い人生ではなかった。ただ、なんとなく……なんとなく閉塞感があった。便利に使われて、誰かのために走り続けて、そして最後に路面電車に轢かれて終わり。
それはそれで悪くない幕引きだが。
(猫か。猫というのは、どんな感じなんだろうな)
今まで、猫を飼ったこともなく、身近にも猫と接する機会がなかった。そのため、なんとなくでしか、猫という生き物を捉えることが出来ない。
イメージとしては、人間に媚びず何者もに縛られない生き物。自由に街を歩き、好きな時に食べ、好きなだけ寝ている。たとえば熊本城の石垣の上からこの街の移りゆく姿を眺めながら眠りにつくとか、そういうことが出来るのだろうか。
(……まあ、いいか)
三十七年間、損な役回りばかりだった自分への、せめてものご褒美ではないか。
「……いいですね。猫生ってのも。」
「おお、乗ってくれるか!」
老人は嬉しそうに膝を叩いた。声が弾んでいるのが分かる。
「善は急げじゃ。早速手配をするかの。」
そういうと、老人は佐藤の前に手をかざす。何かが流れ込んでくる感じと、代わりに何かが抜ける感じがする。
「ほう、善行だけじゃなく、お主は純潔なんじゃな。こりゃ面白いのう」
「じゅ、純潔?!ち、ちげうし」
「なんも恥ずかしがることはあるまい。ほれ、準備は出来たぞ」
佐藤が自分の体を見ると、薄っすらと光っている気がする。フワッと浮いた感じとともに、どこかに吸い込まれていく感覚がする。
「それじゃあな、お主とはこれでお別れじゃ。次に会うのは五十年後かのう」
その言葉が聞こえ終わるかどうかで、佐藤の意識が薄れていく。
「あ、ひとつ言いわす……」
痛みも、重さも、湿った空気もない。
気がつくと、白かった。
ただ、白い。
視界の端から端まで、どこまでも続く白。
床があるのか天井があるのか分からない、輪郭のない白さの中に、佐藤和雄はふわりと立っていた。いや、「立って」いるのかどうかも定かではない。ただそこにある、という感覚だけがある。
(……死んだ?)
痛みはなかった。体の感覚もよく分からない。あるのはただ、奇妙なほど穏やかな静けさだけだ。
手を見てみようとするが、その感覚もない。その白い空間に、ふわりと浮く存在なのだと認識できた。夢ではなさそうな現実感だけは強く感じる。
その現実感の理由のひとつが、場違いなほどの「生活感」が見えているからだった。
その白い空間に、ポツンと見えるのが丸いちゃぶ台。その上には湯気の立つ湯呑みと、小さな菓子皿に盛られたお菓子。丸い形で金色の包装紙、真ん中に「陣太鼓」と書かれたそのお菓子が二つ。そのうちひとつは包装が解かれ、そのちゃぶ台に座る白髪の老人が嬉しそうに頬張っていた。
白髪の老人と目が合う。深く刻まれたシワをより一層深め、ニコリと微笑んで手招きをした。
佐藤は、すーっとちゃぶ台に近づく。
「――やっと起きたかのう、佐藤和雄くん」
老人は、柔らかい声で語りかけてきた。白い着物に、緩い羽織。どこかの神社の宮司のようでもあり、近所の優しいおじいちゃんとも言える。
「……ここは、どこですか」
「ん〜まぁ、あっちとこっちの間、狭間になる場所じゃな。死んだもんが一度だけ立ち寄る、いわば休憩所みたいなもんじゃ」
佐藤は、すぐに理解をした。
「……俺、死んじまったんですね」
「いかにも。あの市電との衝撃でな」
老人は、陣太鼓の残りを口に入れ、お茶をすすりながらあっさりと言った。
「しかし、お主の行動は実に尊かった。あの仔猫は無傷で、今頃は優しい女子中学生に拾われて保護されておるよ」
「……そうですか。それなら、よかった」
それを聞いて、佐藤はふっと肩の力が抜けるのを感じた。無駄じゃなかった。胸の奥が、少しだけあたたかくなった。良かった。自分の人生に後悔は多かったが、最後の瞬間だけは、胸を張れる気がした。それだけで、なぜか十分なような気がした。
老人は、新しい陣太鼓に手を出そうか迷い手をしながら、ひとまずお茶に手を伸ばし、一拍置く。佐藤は、静かに次の言葉を待っていた。
「さて、ここからが本題じゃ」
老人は、急に真面目な顔になった。
「不平も言わず、周囲を助け続け、自分よりも相手を優先する。そのうえ最後は、自らの命を以て小さな命を救った。天国行きは確定じゃ。」
静かに諭すように声を届けてくれる。
「は、ありがとうございます」
なんとも間の抜けた返事だ、と佐藤自身も思った。
「ただ」と声は続いた。「せっかくじゃから、少し提案があるんじゃ」
「提案?」
「お主、本来の寿命ならあと五十年は生きれたんじゃ。天寿てやつじゃな。それを残してそのまま天国に行くのは少しもったいなくはないか?何かのために命を散らした者を、このまま無に課せすのは惜しいとも思うのじゃ」
佐藤は、言葉の意味を反芻する……。つまらない人生と感じていたが、九十才まで生きる予定だったのか。しかし、このまま……。
「ご、五十年も……?」
つい、言葉が出てしまう。
その言葉を老人はどう受け止めたのか、話は続いた。
「そうじゃ。そこでじゃな」
老人は、にやりと笑って言葉を切る。
「――お主が望むなら、もう少し下界でその寿命、使ってみんか。形は変わるがの」
「形が……変わる?」
「そうじゃ。猫として、じゃ」
沈黙。
佐藤は数秒、その言葉を咀嚼した。
「猫……として、五十年」
「そうじゃ。知恵も記憶もそのまんまに、熊本の街を自由に駆け巡ってみんか。せせこましい人間としての人生ではなくなるが、代わりに、日向ぼっこと、風の匂いと、自由がある猫としての猫生じゃ。」
佐藤は、思わず笑った。
「もちろん、断ってもいいんじゃぞ」
断っても構わない。でも。
佐藤は思った。人間としての三十七年を振り返ってみる。悪い人生ではなかった。ただ、なんとなく……なんとなく閉塞感があった。便利に使われて、誰かのために走り続けて、そして最後に路面電車に轢かれて終わり。
それはそれで悪くない幕引きだが。
(猫か。猫というのは、どんな感じなんだろうな)
今まで、猫を飼ったこともなく、身近にも猫と接する機会がなかった。そのため、なんとなくでしか、猫という生き物を捉えることが出来ない。
イメージとしては、人間に媚びず何者もに縛られない生き物。自由に街を歩き、好きな時に食べ、好きなだけ寝ている。たとえば熊本城の石垣の上からこの街の移りゆく姿を眺めながら眠りにつくとか、そういうことが出来るのだろうか。
(……まあ、いいか)
三十七年間、損な役回りばかりだった自分への、せめてものご褒美ではないか。
「……いいですね。猫生ってのも。」
「おお、乗ってくれるか!」
老人は嬉しそうに膝を叩いた。声が弾んでいるのが分かる。
「善は急げじゃ。早速手配をするかの。」
そういうと、老人は佐藤の前に手をかざす。何かが流れ込んでくる感じと、代わりに何かが抜ける感じがする。
「ほう、善行だけじゃなく、お主は純潔なんじゃな。こりゃ面白いのう」
「じゅ、純潔?!ち、ちげうし」
「なんも恥ずかしがることはあるまい。ほれ、準備は出来たぞ」
佐藤が自分の体を見ると、薄っすらと光っている気がする。フワッと浮いた感じとともに、どこかに吸い込まれていく感覚がする。
「それじゃあな、お主とはこれでお別れじゃ。次に会うのは五十年後かのう」
その言葉が聞こえ終わるかどうかで、佐藤の意識が薄れていく。
「あ、ひとつ言いわす……」
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