ひょんなことから、猫又人生38才目がはじまりました

ノベルバユーザー627832

第1話 人生最後は善行で締めくくる

 五月の、雨の夜だった。
 梅雨入りには少し早い、そんな夜に、路面電車に轢かれた。
 いや、正確には「轢かれかけた」というべきか。いずれにせよ結果は同じで、佐藤和雄という三十七年の人生は、その夜あっさりと幕を閉じた。

 ただ、だ。

 それから先の話をするなら、オレはまだここにいる。熊本の、この街に。ちょっとばかり、形が変わってしまったけれど。

――――――

 五月に入った熊本は、暑い。

 雲一つない梅雨入り前の空は、眺めるだけなら爽やかなことこの上ないのだが、実際のところは全く正反対。金峰山の稜線に太陽が沈みかける時間帯になっても、街の空気はまるで綿のように重く、体にまとわりついてくる。風もない。ただ熱だけが、アスファルトからじわじわと立ち上がってくるような夕暮れだった。

(こんな時の外回りは損だよなあ……)

 そう心の中でごねながら、佐藤和雄は会社へと向かう古びた社用車のハンドルを握っていた。エアコンの効きが悪いせいで車内は蒸し風呂状態。汗が染みたシャツをパタパタと仰ぎながら、電車通りから一本入った問屋街の道を走る。運動もしていないのにこの体たらく。三十七歳という年齢を呪いたくなる。

 頭の片隅では、今日の報告をどうするかと考えていた。

 佐藤和雄、三十七歳。独身。食品商社「まるまん商事」の万年課長補佐。

 肥後学園大学附属の中高一貫校を卒業し、そのまま肥後学園大学商科部へエスカレーター進学。卒業後は迷わず地元就職を選んだ。それなりに順調、といえば順調な人生だ。ただし、本人の心持ちでいえば、「うだつの上がらない中年サラリーマン」という自嘲がいちばん近い。

 周囲の評価は決して悪くない。むしろ、佐藤に頼る人間は多かった。頭でっかちで行動の伴わない後輩社員のフォロー、理不尽な要望を振り回す上司との緩衝材、身内で管理職を固めた地方中小企業特有の空気の中で、「便利な肩書き」を押し付けられ、ひたすら会社に貢献し続ける日々。

 そして、その優しさと面倒見の良さのせいで、どうにも「便利に使われる側」で人生が止まってしまっている。

 彼女いない歴=年齢。ついでに言えば、その方面での経験もゼロだ。
 ただ、本人はそんなものかと、どこか達観したように受け入れていた。

 今日の外回りも、本来は後輩社員が担当するはずだった。しかし事前のアポ取りに不備があり、得意先からのクレームが来てしまった。「じゃあ佐藤さんが行ってよ」という話になるのは、もはやお決まりパターン。

 お相手は特別怒っているわけではなかった。むしろ正直なところ、話の通じない後輩社員より、一を言えば五は理解してくれる佐藤の方が話しやすいから、後輩のミスを口実に引き出しただけだった。

 そんな本音をそのまま報告するわけにもいかない。後輩の顔を立てつつ、上司が納得できる着地点を探す。これも、同じくお決まりコース。
 社用車を駐車スペースに収め、重い足を引きずるようにして会社へと入った。

――――――

 何がそんなにイライラしているのか分からない上司に、適度に丸めた報告をする。後輩社員に今後の対応を言い聞かせる。自分の残務を片付ける。気がつけばとっくに十九時を回っていた。

 窓の外は薄っすらと明るいものの、夜の気配が近づいているのが分かる。
 一人残って作業をしていたノートPCを閉じて、帰り支度を始める。いつものことだが、この時間がどこか物悲しく、そしてもっともウキウキとする。

(今日は何を食べるかな。久々にビールでも呑むか)

 そんなことをぼんやりと考えながら、会社の裏口から出て施錠し、通りへ出る。
 自宅はかつて夏目漱石が住んでいた地域の一角、内坪井近くのマンションだ。会社から歩いて三キロほど。市電のルートからは少し外れているため、少しだけ不便。バスもあるが、通町筋から熊本城の石垣沿いを抜けていく最短の道沿いは走っていない。微妙にバス停と離れているため、家賃の相応に安かった。

 ただ佐藤にとっては、その道は繁華街のネオンの眩しさが熊本城の石垣に染み込むようなミスマッチを感じながら歩ける道のため、案外嫌いではなかった。繁華街の賑やかさ、古い町並みの落ち着き、そして夕暮れの熊本城。うだつの上がらない自分には過ぎたぐらいの風情と思っている。この街は悪くないと思わせてくれる道だ。

 健康のため、という口実で、今日も歩いて帰っている。

 電車通りに出た頃、パラパラと雨粒が落ち始めた。
 昼間はあんなに晴れていたのに、どうやら通り雨がきているらしい。濡れたアスファルトにネオンが滲み、市電のブレーキ音が湿った空気にゆっくりと溶けていく。傘を差した人々が急ぎ足で行き交い、雨の匂いが、さっきまでの重い熱気を少しだけ洗い流してくれるようだった。
 佐藤は折りたたみ傘をバッグから取り出し、不快に濡れることを避けて、同じように足を速めた。

 今日のことを、少し振り返る。
 いつもどこか不機嫌な上司はいつものこととして、さて、何度言っても理解が進まない後輩社員のミスの尻拭いはどうしたらよかっただろうか。注意だけでは同じことを繰り返す。どこか彼に対する成長の閉塞感を感じる。

 いや、そういう風に誰かに対して諦めるように感じるのは、心身ともに、それなりにすり減っているからだろうか。

 市電の車両が通町筋のカーブを曲がり、銀色の車体に雨粒が細かく弾ける。その光景をぼんやり眺めながら、和雄は自分の人生がまるでこの雨のように、静かに、しかし確実に沈んでいくような気がしていた。

 佐藤は、ふと立ち止まる。
 濡れたアスファルトに映る自分の姿は、どこからどう見ても“疲れた中年”そのものに感じた。

(若い頃は、もっと違う未来を想像してたんだけどな)

 思い返すのは、学生時代の淡い記憶。肥後学園大学付属中学校の校舎。
 様々な学校行事でクラスメイトが一致団結して盛り上がった日々が思い浮かぶ。あの時の充実感は、学校を卒業後には体験していない。

(俺の人生、俺が必要としてくれる誰かは、いたのかな?)

 そんな思いが、胸の底から静かに染み上がってきた、その時だった。

「にゃ……にゃーん……!」

 傘を叩く雨音を裂くような、小さな悲鳴が聴こえた。
 思わず足が止まる。
 銀座通りと電車通りが交わる交差点近く。電車通りの中央に存在する、路面電車のレールとレールの間に、ずぶ濡れの黒い仔猫がいた。まだ生後数ヶ月ほどの小さな体。通り過ぎる車のヘッドライトに照らされ、小さな体を精一杯すくめて、震えている。ビロードのような漆黒の黒毛がびっしょりと濡れ、肌に張り付いている。

 どこで迷い込んだのか。どれだけそこにいるのか。

 信号が変わったら助けてあげよう――そう思いかけた次の瞬間、ぶおぉぉぉと低いモーター音が聴こえてきた。市役所前の停留所を出発した市電がスピードを上げて近づいてきた。

 運転手は気づいていない。

 佐藤の体は、考えるより先に動いていた。
 アスファルトを蹴り、雨を散らしながら、レールに飛び込む。
 ずぶ濡れの仔猫を両手で掬い上げ、反対のレールへ抜けようとした瞬間――濡れたレールに足を取られた。

 まずい。

 とっさに、仔猫を線路の外へと投げるように逃がした。
 直後、重く硬いものが全身を叩いた。
 轟音。衝撃。視界が白く染まる。
 遠くで誰かの悲鳴が聞こえた。救急車のサイレンが近づいてくる。

――猫は、助かったかな。

 雨音が遠ざかっていく。
 通町筋のネオンも、市電の走行音も、すべてが暗闇に溶けていく。

 それが、佐藤和雄としての最後の意識だった。

コメント

コメントを書く

「ファンタジー」の人気作品

書籍化作品