死んだはずのモブ令嬢ですが、嫌われムーブをしても王子の好感度が下がりません

森の木

第7話 王太子は、ずっと知っていた

婚礼の朝は、静かだった。

 独身として迎える最後の朝。
 そして、今日からはシンティアの夫として迎える最初の朝。

 鏡に映る自分を見つめ、クラウドは小さく息を吐いた。

(……よく、ここまで耐えたものだ)

 彼女が「私でいいのですか」と尋ねた日のことを、今でもはっきり覚えている。

 あの時、答えは最初から一つしかなかった。

 君がいい。
 それ以外は、考えたこともない。

 ――シンティアは、自分が演技をしているつもりだったのだろう。
 それは、初めて出会った頃からそうだった。

 王太子の婚約者選びは、感情論では済まされない。
 将来、王国を背負う立場だからこそ、候補となる令嬢の気質、家庭環境、周囲との関係性まで、王と王太子に共有され、長い時間をかけて吟味される。

 その結果として、シンティアが選ばれた。

 彼女は思慮深く、立ち振る舞いに破綻がない。
 あえて大げさに振る舞い、空気を壊そうとしても、本当に誰かを不快にする一線だけは、決して越えなかった。

 どうにか自分の関心から逃れようと、距離を取ろうとし、必死に逃げ道を探していたことも、すべて分かっていた。

 だが、クラウドには最初から見えていた。

 彼女は愚かではない。
 ただ、不器用で、お人好しで、素直すぎるだけだ。

 誰かを押しのけることができず、
 人の気持ちに寄り添い、友人を大切にする。

 だからこそ、目を離せなかった。

 王太子の婚約者として確実視されるたび、
 彼女の周囲では小さくも危険な出来事が起きていた。

 不思議なほど早く危険を察し、
 誰よりも先に、誰かを守ろうと動いていた。

 ――それが祝福だと気づいたのは、王家の記録を読んだ後だった。

(ああ……君は、最初から特別だったのだな)

 女神の加護。
 危険察知。
 そして、「幸せになるための選択を重ねる力」。

 それは王妃に必須の資質ではない。
 だが、人を思いやり、寄り添う力は、王太子妃にこそ必要なものだ。

 何より――
 彼女は、王太子である自分を、静かに癒していた。

 幼い頃は、少し怯えたような目でこちらを見ながらも、優しくすれば、きちんと応えた。

 柔らかな髪に触れるたび、それだけで心が落ち着く感覚は、他では得られなかった。

 扉の向こうに、気配がする。

 もう逃げ場がないと悟ったのか。
 それでも覚悟を決めた瞳で、シンティアがこちらへ来る。

(……可哀想に)

 初夜が怖いと、顔に書いてある。

(だが、安心してほしい)

 クラウドは、静かに微笑んだ。

 ――ずっと、待ってきた。
 これからも、待てる。

 彼女が泣くなら、抱きしめる。
 震えるなら、手を取る。
 逃げるなら、逃げ切れる距離だけは与える。

 それが、王太子としてではなく、夫として選んだ在り方だった。

「シンティア」

 名を呼ぶと、彼女が顔を上げる。

「……大丈夫だ。君が思っているより、私はずっと理性的だよ」

 ――今夜は、ね。

 心の中でそう付け足しながら。

 これからもずっと、彼女と共に生きる道を選べた。
 それが、クラウドにとってこの上もない幸福だった。

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