熊男とウサギ令嬢
第4話 くまはうさぎを見守る side 神崎 誠一
面紐を結び直す。竹刀を握ると、考えが静かになる。
煩悩は音を立てて消える――ふりをする。
花守紗が廊下の向こうでこちらを見たときだけ、心拍の数字が剣道場の時計みたいに正直になる。
視線を返さないようにする。
彼女に目を合わせれば怖がらせる。
自分は大きくて力が強くて、あんなか弱い存在に触れてはいけないのだ。
勝手に決めた礼儀。
自分の顔は怖い。声も低い。
近づけば、誰かが誤解する。
だからあのカワイイ存在の、紗からは距離を取る。
「あ、また神崎くん怖い顔してる」
何もしていない。
いや、何も考えていない。
それなのに、怖そうだとか、何を考えているのかわからないとか、見た目だけで判断されることが昔から多い。
だから何をしても、噂は想定内だ。
派閥の空気、生徒会副会長である幼馴染の園崎。
彼が何かと自分のために手を回してくれるのは助かる。
いかつい顔は、何もしなくても喧嘩を吹っ掛けられやすかったりする。
俺は争わない。空手、合気道、柔道、剣道。
あらゆることは一通りやっているが、それは自分を鍛え上げるもの。
人に向けるものではない。
ただ、人と争わない選択が、彼女を遠ざけることも知っている。
それでも
――婚約までは手を出さない、と決めている。
俺と紗の関係は微妙だ。
親同士の利害関係で婚約しているが、公にはされていない。
政治の世界で何かと戦う家である神崎家では、時期を見て芸事の家元のご令嬢である彼女との正式な婚約が発表される。
生まれたときから仮の婚約を結ばれていて、将来一緒になることもわかっている。
昼休みの終わり。
金具の緩んだ掲示板と、勢いよく開いたドアが同時に目に入る。
紗の位置、ドア角の軌道、
掲示パネルの落下速度。
身体が先に動く。
右手で彼女の手首を取り、左手でドアの角を払う。
パネルの落下音が背中で跳ね返る。
「動くな」
彼女の髪が頬に触れた。
息が甘く近い。
だめだ。ここで呼吸を乱すな。
人だかり。王子の声が聞こえた。
助かった。
みなの注目はそれる。
だが、それはそれで困る。
――離せばいい。
離して、説明すればいい。それがいちばん早い。
甘い香りが鼻孔をくすぐる。
男ばかりの生活では決して香らない、甘くて柔らかなにおい。
このにおいを知ると、頭がくらくらする。
腕のなかにすっぽり抱え込める、紗。
けれど俺は、説明より先に彼女の足元を見た。
破片がないか。転ばないか。
彼女が安全なら、それでいい。
まわりは園崎が入ったことで、結局なぜか園崎が紗を助けたという流れになったがーー
まあそれでいいだろう。
誤解はあとからいくらでも片付けられる。
誤解などどうでもいい。
俺にとって大切なのは、紗だけなのだから。
それから放課後。
めずらしく誰もいない校舎の階段裏で声をかけられた。
「神崎さん」
呼ばれて、胸が一瞬軽くなる。
「……なに」
「わたし、あなたのこと、こわくないよ」
顔を見ると、うるんだ瞳でこちらを見ている。
夕焼けに染まる彼女の顔。
きゅるんとした大きな目は、小動物みたいで、なでてとせがんでいるように思えてしまう。
そして震えるような手にそっと触れて、頭をなでて――。
自分を頭のなかでどんと殴った。
愚かだと思う。
こんな言葉ひとつで、理性の堤防がざわつくなんて。
「知ってる」
それしか言えない。触れない距離を守る。
いま手を出せば、俺は俺でなくなる。
今、大切なのは勉強、そして剣道。
将来のためにやらなくてはならないことが多い。
だが、いくら精神や肉体を鍛えたところで、彼女の前では単なる男でしかない。
自分がいかに愚かで未熟かを思い知らされる。
まだ、彼女にふさわしくはない。
帰宅すれば、書斎に父がいた。
そろそろ婚約のパーティーを開くべきかという話題が出ている。
「誠一。話は聞いた。園崎のご子息からな。お前の顔は確かに怖い」
「……知ってます」
「まあ、あちらのお嬢さんも異論はないそうだ。婚約は進める。条件は分かっているな」
父は淡々と言う。
政の段取り。俺はうなずく。
父は今、総理大臣の椅子にどうしても座りたいらしい。
そのための勢力争いが水面下で行われている。
「わかっています。自分は神崎のために生きると決めていますから」
「それは俺もそうだった。神崎に生まれたからにはそうなるんだ」
「でも彼女との婚約は、家だけではありません。俺が必要なのです」
「それで彼女は幸せなのだろうな?」
「幸せにします。かならず。それが神崎のためになりますので」
それから父の部屋を出る。
竹刀袋を肩にかける。
中庭で竹刀を振れば、もっと集中力が高まるだろう。
でも、やはり今日は思考が乱れる。
彼女のことを思い出すと、心が乱れる。
婚約が正式になるまで、手は出さない。
立派な男になってこそ、彼女にふさわしくなるのだから。
煩悩は音を立てて消える――ふりをする。
花守紗が廊下の向こうでこちらを見たときだけ、心拍の数字が剣道場の時計みたいに正直になる。
視線を返さないようにする。
彼女に目を合わせれば怖がらせる。
自分は大きくて力が強くて、あんなか弱い存在に触れてはいけないのだ。
勝手に決めた礼儀。
自分の顔は怖い。声も低い。
近づけば、誰かが誤解する。
だからあのカワイイ存在の、紗からは距離を取る。
「あ、また神崎くん怖い顔してる」
何もしていない。
いや、何も考えていない。
それなのに、怖そうだとか、何を考えているのかわからないとか、見た目だけで判断されることが昔から多い。
だから何をしても、噂は想定内だ。
派閥の空気、生徒会副会長である幼馴染の園崎。
彼が何かと自分のために手を回してくれるのは助かる。
いかつい顔は、何もしなくても喧嘩を吹っ掛けられやすかったりする。
俺は争わない。空手、合気道、柔道、剣道。
あらゆることは一通りやっているが、それは自分を鍛え上げるもの。
人に向けるものではない。
ただ、人と争わない選択が、彼女を遠ざけることも知っている。
それでも
――婚約までは手を出さない、と決めている。
俺と紗の関係は微妙だ。
親同士の利害関係で婚約しているが、公にはされていない。
政治の世界で何かと戦う家である神崎家では、時期を見て芸事の家元のご令嬢である彼女との正式な婚約が発表される。
生まれたときから仮の婚約を結ばれていて、将来一緒になることもわかっている。
昼休みの終わり。
金具の緩んだ掲示板と、勢いよく開いたドアが同時に目に入る。
紗の位置、ドア角の軌道、
掲示パネルの落下速度。
身体が先に動く。
右手で彼女の手首を取り、左手でドアの角を払う。
パネルの落下音が背中で跳ね返る。
「動くな」
彼女の髪が頬に触れた。
息が甘く近い。
だめだ。ここで呼吸を乱すな。
人だかり。王子の声が聞こえた。
助かった。
みなの注目はそれる。
だが、それはそれで困る。
――離せばいい。
離して、説明すればいい。それがいちばん早い。
甘い香りが鼻孔をくすぐる。
男ばかりの生活では決して香らない、甘くて柔らかなにおい。
このにおいを知ると、頭がくらくらする。
腕のなかにすっぽり抱え込める、紗。
けれど俺は、説明より先に彼女の足元を見た。
破片がないか。転ばないか。
彼女が安全なら、それでいい。
まわりは園崎が入ったことで、結局なぜか園崎が紗を助けたという流れになったがーー
まあそれでいいだろう。
誤解はあとからいくらでも片付けられる。
誤解などどうでもいい。
俺にとって大切なのは、紗だけなのだから。
それから放課後。
めずらしく誰もいない校舎の階段裏で声をかけられた。
「神崎さん」
呼ばれて、胸が一瞬軽くなる。
「……なに」
「わたし、あなたのこと、こわくないよ」
顔を見ると、うるんだ瞳でこちらを見ている。
夕焼けに染まる彼女の顔。
きゅるんとした大きな目は、小動物みたいで、なでてとせがんでいるように思えてしまう。
そして震えるような手にそっと触れて、頭をなでて――。
自分を頭のなかでどんと殴った。
愚かだと思う。
こんな言葉ひとつで、理性の堤防がざわつくなんて。
「知ってる」
それしか言えない。触れない距離を守る。
いま手を出せば、俺は俺でなくなる。
今、大切なのは勉強、そして剣道。
将来のためにやらなくてはならないことが多い。
だが、いくら精神や肉体を鍛えたところで、彼女の前では単なる男でしかない。
自分がいかに愚かで未熟かを思い知らされる。
まだ、彼女にふさわしくはない。
帰宅すれば、書斎に父がいた。
そろそろ婚約のパーティーを開くべきかという話題が出ている。
「誠一。話は聞いた。園崎のご子息からな。お前の顔は確かに怖い」
「……知ってます」
「まあ、あちらのお嬢さんも異論はないそうだ。婚約は進める。条件は分かっているな」
父は淡々と言う。
政の段取り。俺はうなずく。
父は今、総理大臣の椅子にどうしても座りたいらしい。
そのための勢力争いが水面下で行われている。
「わかっています。自分は神崎のために生きると決めていますから」
「それは俺もそうだった。神崎に生まれたからにはそうなるんだ」
「でも彼女との婚約は、家だけではありません。俺が必要なのです」
「それで彼女は幸せなのだろうな?」
「幸せにします。かならず。それが神崎のためになりますので」
それから父の部屋を出る。
竹刀袋を肩にかける。
中庭で竹刀を振れば、もっと集中力が高まるだろう。
でも、やはり今日は思考が乱れる。
彼女のことを思い出すと、心が乱れる。
婚約が正式になるまで、手は出さない。
立派な男になってこそ、彼女にふさわしくなるのだから。

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