熊男とウサギ令嬢
第3話 うさぎの憂鬱 2
事件は、昼休み終わりの廊下で起きた。
掲示板の上部の金具が、朝から緩んでいたのを覚えている。
そこへ、向こう側の教室のドアが勢いよく開いた。風圧が重なって、上の大きなパネルが外れる音。
「——!」
振り向くより早く、右手首をつかまれた。強い。
引き寄せられて、壁と彼の胸板の間に押し込まれる。その瞬間、肩越しにパネルが床に落ち、ガン——と派手に弾んだ。
続けざま、開きっぱなしのドアが戻り、わたしの背に当たるはずの角を、彼の手の甲が受け止める。
乾いた音。
近い。息が混ざる。
この距離は、紗にとっての衝撃。
でもうれしい。
こんなに近くに誠一がいる。
心臓が飛び出しそうなくらい、ドキドキしてしまう。
「動くな」
誠一の低い声が耳に落ちる。
視線をあげると、彼の首元が見え、その喉ぼとけがくっきりと浮かぶ。
とても男らしい。
紗はうなずいた。
(だめだ、これは……もう辛い……)
あまりのかっこよさに、目が潤んでしまう。
こんなことがあって、今日は何か厄日になるのか。
そんな不安まで浮かぶ。
「ちょっと、何してるの!」
振り返ると、小さな人だかり。
誠一の顔は、困ったように見える。
「花守さん、大丈夫? 手、離してあげて」
紗は言いたかった。
「わたしは平気です」って。
けれど、声は友人たちの空気に紛れた。
彼の表情は、いつもの“考えている顔”。
周囲には、たぶん“怒っている顔”に見える。
誠一がそっと手を離す。
パネルの破片を踏まないよう、わたしを先に通した。
「ん? 神崎どうした?」
そこから通る、さわやかな声。
神崎の低音とは真逆の、うっとりさせる甘い響き。
誰もが彼に振り向く。
生徒会副会長である園崎雅は、背も高く、誰にでも優しく、まさに王子様だ。
そんな園崎は、何かと神崎さんと縁があり、幼馴染の関係である。
みながふさわしくないというものの、園崎は誠実でまじめで嘘をつかない神崎さんを気に入っていて、何かと困ったことがあると助けにくる。
神崎さんのことを耳にして、近くに寄ったのだろう。王子の存在で、紗と神崎のことなど忘れられた。
「……ごめんなさい、ありがとう」
紗はようやく声を出せた。
今ならきっと伝わるから。
「大丈夫なら、それでいい」
“それでいい”の言い方が、ひどく丁寧で、やさしかった。
人が去ってから、階段裏の涼しい場所で、紗は彼の袖を摘んだ。
ずっと探していたのだ。
「神崎さん」
目の前に紗がいることに、彼は驚いている。
紗から誠一に話しかけることは、学校ではほとんどない。
「……なに」
「わたし、誠一さん。わたし、あなたのこと、こわいと思ったことがないよ?」
誠一の喉仏が、ひとつ動いた。
息が止まる。
「知ってる……」
それだけ。
触れない距離のまま、誠一は目を伏せた。
大事なものを、まだ包み直しているみたいに。
帰り道、耳たぶがまだ熱い。
(誠一さんと話せた。もう、今日はとてもいい日だな)
「ちょっと、何してるの!」
振り返ると、小さな人だかり。
誠一の顔は困ったように見える。
「花守さん、大丈夫? 手、離してあげて」
紗は言いたかった。
「私は平気です」って。
けれど、声は友人たちの空気に紛れた。
彼の表情は、いつもの“考えている顔”。
周囲には、たぶん“怒っている顔”に見える。
誠一がそっと手を離す。
パネルの破片を踏まないよう、私を先に通した。
「ん? 神崎どうした?」
そこから通る、さわやかなボイス。
神崎の低音とは真逆の、うっとりさせる甘い響き。
誰もが彼に振り向く。
生徒会副会長である園崎雅は、背も高く、誰にでも優しく、まさに王子様である。
そんな生徒会副会長は、何かと神崎さんと縁があり、幼馴染の関係である。
みながふさわしくないというものの、園崎は誠実でまじめで嘘をつかない神崎さんがお気に入りで、何かと困ったことがあると助けにくる。
神崎さんのことを耳にして、近くに寄ったのだろう。王子の存在で、紗と神崎のことなど忘れられた。
「……ごめんなさい、ありがとう」
紗はようやく声を出せた。
今ならきっと伝わるから。
「大丈夫なら、それでいい」
それでいい、の言い方が、ひどく丁寧で、やさしかった。
人が去ってから、階段裏の涼しい場所で、紗は彼の袖を摘んだ。
ずっと探していたのだ。
「神崎さん」
目の前に紗がいることに驚いている。
紗から誠一に話しかけることは、学校ではほぼないに等しい。
「……なに」
「わたし、誠一さん。わたし、あなたのこと、こわいと思ったことがないよ?」
誠一の喉仏が、ひとつ動いた。
息が止まる。
「知ってる……」
それだけ。触れない距離のまま、誠一は目を伏せた。大事なものを、まだ包み直しているみたいに。
帰り道、耳たぶがまだ熱い。
(誠一さんと話せた! もう、今日はとてもいい日だな)
掲示板の上部の金具が、朝から緩んでいたのを覚えている。
そこへ、向こう側の教室のドアが勢いよく開いた。風圧が重なって、上の大きなパネルが外れる音。
「——!」
振り向くより早く、右手首をつかまれた。強い。
引き寄せられて、壁と彼の胸板の間に押し込まれる。その瞬間、肩越しにパネルが床に落ち、ガン——と派手に弾んだ。
続けざま、開きっぱなしのドアが戻り、わたしの背に当たるはずの角を、彼の手の甲が受け止める。
乾いた音。
近い。息が混ざる。
この距離は、紗にとっての衝撃。
でもうれしい。
こんなに近くに誠一がいる。
心臓が飛び出しそうなくらい、ドキドキしてしまう。
「動くな」
誠一の低い声が耳に落ちる。
視線をあげると、彼の首元が見え、その喉ぼとけがくっきりと浮かぶ。
とても男らしい。
紗はうなずいた。
(だめだ、これは……もう辛い……)
あまりのかっこよさに、目が潤んでしまう。
こんなことがあって、今日は何か厄日になるのか。
そんな不安まで浮かぶ。
「ちょっと、何してるの!」
振り返ると、小さな人だかり。
誠一の顔は、困ったように見える。
「花守さん、大丈夫? 手、離してあげて」
紗は言いたかった。
「わたしは平気です」って。
けれど、声は友人たちの空気に紛れた。
彼の表情は、いつもの“考えている顔”。
周囲には、たぶん“怒っている顔”に見える。
誠一がそっと手を離す。
パネルの破片を踏まないよう、わたしを先に通した。
「ん? 神崎どうした?」
そこから通る、さわやかな声。
神崎の低音とは真逆の、うっとりさせる甘い響き。
誰もが彼に振り向く。
生徒会副会長である園崎雅は、背も高く、誰にでも優しく、まさに王子様だ。
そんな園崎は、何かと神崎さんと縁があり、幼馴染の関係である。
みながふさわしくないというものの、園崎は誠実でまじめで嘘をつかない神崎さんを気に入っていて、何かと困ったことがあると助けにくる。
神崎さんのことを耳にして、近くに寄ったのだろう。王子の存在で、紗と神崎のことなど忘れられた。
「……ごめんなさい、ありがとう」
紗はようやく声を出せた。
今ならきっと伝わるから。
「大丈夫なら、それでいい」
“それでいい”の言い方が、ひどく丁寧で、やさしかった。
人が去ってから、階段裏の涼しい場所で、紗は彼の袖を摘んだ。
ずっと探していたのだ。
「神崎さん」
目の前に紗がいることに、彼は驚いている。
紗から誠一に話しかけることは、学校ではほとんどない。
「……なに」
「わたし、誠一さん。わたし、あなたのこと、こわいと思ったことがないよ?」
誠一の喉仏が、ひとつ動いた。
息が止まる。
「知ってる……」
それだけ。
触れない距離のまま、誠一は目を伏せた。
大事なものを、まだ包み直しているみたいに。
帰り道、耳たぶがまだ熱い。
(誠一さんと話せた。もう、今日はとてもいい日だな)
「ちょっと、何してるの!」
振り返ると、小さな人だかり。
誠一の顔は困ったように見える。
「花守さん、大丈夫? 手、離してあげて」
紗は言いたかった。
「私は平気です」って。
けれど、声は友人たちの空気に紛れた。
彼の表情は、いつもの“考えている顔”。
周囲には、たぶん“怒っている顔”に見える。
誠一がそっと手を離す。
パネルの破片を踏まないよう、私を先に通した。
「ん? 神崎どうした?」
そこから通る、さわやかなボイス。
神崎の低音とは真逆の、うっとりさせる甘い響き。
誰もが彼に振り向く。
生徒会副会長である園崎雅は、背も高く、誰にでも優しく、まさに王子様である。
そんな生徒会副会長は、何かと神崎さんと縁があり、幼馴染の関係である。
みながふさわしくないというものの、園崎は誠実でまじめで嘘をつかない神崎さんがお気に入りで、何かと困ったことがあると助けにくる。
神崎さんのことを耳にして、近くに寄ったのだろう。王子の存在で、紗と神崎のことなど忘れられた。
「……ごめんなさい、ありがとう」
紗はようやく声を出せた。
今ならきっと伝わるから。
「大丈夫なら、それでいい」
それでいい、の言い方が、ひどく丁寧で、やさしかった。
人が去ってから、階段裏の涼しい場所で、紗は彼の袖を摘んだ。
ずっと探していたのだ。
「神崎さん」
目の前に紗がいることに驚いている。
紗から誠一に話しかけることは、学校ではほぼないに等しい。
「……なに」
「わたし、誠一さん。わたし、あなたのこと、こわいと思ったことがないよ?」
誠一の喉仏が、ひとつ動いた。
息が止まる。
「知ってる……」
それだけ。触れない距離のまま、誠一は目を伏せた。大事なものを、まだ包み直しているみたいに。
帰り道、耳たぶがまだ熱い。
(誠一さんと話せた! もう、今日はとてもいい日だな)

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