【実録】ある地方都市で囁かれる「顔のない隣人」に関する取材ノート

sika3

第6話 File.06:現地調査・K市営団地への潜入

深夜二時十五分。
私はK市営団地の駐車場に車を停めた。
エンジンを切ると、雨音が車内を包み込んだ。ワイパーが止まり、フロントガラスに水滴が滲んで視界が歪む。
その向こうに、巨大なコンクリートの塊が聳え立っている。
4号棟だ。

明かりのついている部屋は少ない。まばらな光が、雨に濡れた外壁を鈍く照らしている。
遠くで犬の遠吠えが聞こえた気がしたが、すぐに雨音にかき消された。
私は深呼吸をして、機材の入ったバッグを肩にかけ、ポケットの中の催涙スプレーを握りしめた。
そして、もう片方のポケットにある、タグのついた鍵の感触を確かめる。
『304』。
冷たくて硬い金属片が、指先に食い込む。

車を降りると、湿気を帯びた生暖かい風が全身にまとわりついた。
この団地の空気は、どこか粘度が高い。
肺に入れるたびに、微細な泥の粒子が体内に蓄積されていくような錯覚に陥る。

駐車場から4号棟のエントランスまでは、徒歩で二分ほどだ。
植え込みの木々が風に揺れ、ざわざわと音を立てる。
その音が、まるで無数の人間が囁き合っているように聞こえるのは、私の神経が過敏になっているせいだろうか。

エントランスに入ると、そこには古びた集合ポストが並んでいた。
いくつかのポストからはチラシが溢れ出し、床に散乱している。
私は何気なく、304号室のポストに目をやった。
ガムテープで投函口が塞がれている。
『空室』とマジックで書かれたテープは劣化し、端が剥がれかけていた。
その隙間から、暗い箱の中が見えた。
空っぽだ。
しかし、ポストの底に、白くて小さなものが落ちているのが見えた。
人間の爪のように見えたが、確認する勇気はなかった。

エレベーターはあるが、私は階段を使うことにした。
密室に閉じ込められるリスクを避けるためと、各階の様子を確認するためだ。
かつてT氏が「歩き方がおかしくなった住人」を目撃した階段。
一段一段、靴音を忍ばせて登る。
コンクリートの階段には、雨漏りの染みが黒い模様を描いている。それが人の顔に見えて、視線を逸らす。

二階、三階。
踊り場に立つ。
目の前に伸びる開放廊下。
等間隔に並ぶ鉄製のドア。
深夜の団地の廊下は、異様なほど静かだった。
テレビの音も、話し声も、いびきさえも聞こえない。
数百人が住んでいるはずの場所なのに、生物の気配が希薄だ。
まるで、住人全員が息を止めて、侵入者である私をやり過ごそうとしているかのように。

私は304号室の前まで進んだ。
角部屋だ。
隣の305号室――かつてT氏が疑惑を抱いたMさん一家の部屋――は、真っ暗で静まり返っている。
そして、そのさらに隣、306号室。
依頼人T氏が住んでいた部屋だ。
表札は外されていた。ドアノブには埃が積もっている。
彼が失踪してから、誰も入っていないのだろうか。

私は304号室のドアの前に立った。
錆びついた鉄の扉。
ドアスコープは内側から何かで塗りつぶされているのか、黒く濁っている。
私は震える手で鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。

カチリ。
驚くほど滑らかに、鍵は回った。
錆びついているように見えたのは表面だけで、内部の機構は油が差されたばかりのようにスムーズだった。
誰かが定期的にメンテナンスしているのだ。

私はノブを回し、ゆっくりとドアを開けた。
ギィィィ……。
蝶番が低い悲鳴を上げる。
その音と共に、濃密な空気が廊下へと溢れ出してきた。

「お邪魔します……」
無人の部屋に向かって、小さく声をかける。
返事はない。
私は靴を脱がずに、土足のまま玄関に入った。
すぐにドアを閉め、内側からロックをかけるか迷ったが、逃走経路を確保するために鍵は開けたままにした。

懐中電灯をつける。
白い光の束が、闇を切り裂く。
そこは、変哲もない2DKの団地の一室だった。
カビの浮いた壁紙。変色した畳。
家具は何もない。

しかし、決定的な違和感があった。
「生活臭」だ。
空室特有の乾いた埃の臭いではない。
カレーのスパイシーな香りと、汗の臭い、そして湿った土の臭いが混じり合った、濃厚な生活の残り香が充満している。
さっきまで、ここに誰かがいた。
いや、今もどこかに隠れているのかもしれない。

私は慎重に奥へと進んだ。
ダイニングキッチン。
シンクを見る。
管理人の日誌にあった通りだ。蛇口からポタ、ポタと水が垂れている。
ステンレスのシンクには水滴が無数に付着しており、排水口には野菜の切れ端のようなものが引っかかっていた。
ニンジンとジャガイモの皮だ。
誰かがここで調理をした痕跡。

コンロの横に、壁掛け鏡が立てかけられていた。
Bさんの言葉を思い出す。
『マネビトを見分ける方法は鏡』。
私は鏡を覗き込まないように注意しながら、さらに奥の和室へと向かった。

六畳の和室。
懐中電灯の光が、壁一面を照らし出した瞬間、私は息を呑んだ。

壁という壁に、びっしりと文字が書かれていた。
マジックで直に書き殴られた文字、壁紙に貼られたメモ用紙、新聞の切り抜き。
それらが狂気的なコラージュとなって、部屋を埋め尽くしている。

近づいて読んでみる。

『おはようございます。おはようございます。おはようございます』
『今日はいい天気ですね。今日はいい天気ですね。今日は雨ですがいい天気ですね』
『ゴミは分別しましょう。燃えるゴミ。燃えないゴミ。燃やせない過去』
『笑うときは口角を30度上げる。目は三日月型に。歯茎は見せない』
『怒るときは眉間に皺を寄せる。声のトーンを2オクターブ下げる』

これらは、マニュアルだ。
「人間として振る舞うためのマニュアル」。
日常会話の定型文、感情表現の技術的な指示、団地のルールの暗記。
壁の至る所に貼られた「笑顔のポスター」や「モデルの切り抜き」には、目や口の部分に赤丸がつけられ、修正指示が書き込まれている。

『目はもっと小さく』
『この笑顔は不自然。やり直し』

そして、部屋の中央。
畳が擦り切れていた。
大勢の人間が、同じ場所を行ったり来たりしたような痕跡。
あるいは、車座になって座り込んでいた跡。

私は部屋の隅にある押入れに目を向けた。
襖が少しだけ開いている。
そこから、黒い泥のようなものがはみ出していた。
嫌な予感がした。
開けてはいけない気がする。だが、確認しなければならない。

私は意を決して、襖に手をかけた。
一気に開け放つ。

「うっ……」
強烈な腐臭と泥の臭いが鼻をついた。
押入れの中には、泥で固められた「塊」がいくつも転がっていた。
作りかけの粘土細工のようなものだ。
しかし、その形状はあまりにも人間に近かった。
手足のバランスが悪いもの、顔のパーツが中心に寄りすぎているもの、皮膚がドロドロに溶け崩れているもの。
それらは全て、失敗作の廃棄場だったのだ。

そして、その泥人形たちの間に、一冊の大学ノートが落ちていた。
見覚えがある。
T氏が持っていたものと同じ種類のノートだ。
私はそれを拾い上げた。
ページを開く。
泥で汚れた紙面に、見慣れた筆跡――T氏の字で、日記が綴られていた。
しかし、日付は彼が失踪した後のものだ。

『6月1日 練習は順調だ。だいぶ馴染んできた。』
『6月3日 足音がまだ大きいと言われた。もっと静かに、滑るように歩けと。』
『6月5日 鏡を見た。だいぶマシになった。でも、まだ右目が少し遅れる。』
『6月10日 名前を忘れてしまった。私は誰だったか? ああ、そうだ、私はTだ。306号室のTだ。それとも、これからTになるのか?』

記述は次第に混乱していく。
そして、最後のページ。

『6月15日 完成した。私はTだ。完璧なTだ。本物はもういらない。』
『明日、ライターが来る。彼を迎えに行こう。彼も新しい顔を欲しがっているはずだ。』

6月15日。
今日だ。

背後で、ピチャリ、という音がした。
水音だ。
シンクの水滴が落ちる音ではない。
もっと重たい、濡れた足が床を踏む音。

私は猛然と振り返り、懐中電灯を向けた。
ダイニングキッチンの入り口に、男が立っていた。

くたびれたポロシャツにチノパン。
T氏だった。
あの日、ファミレスで会った時と全く同じ服装。
しかし、決定的に違う点が一つあった。
彼は、びしょ濡れだった。
全身から泥水を滴らせ、床に黒い水溜まりを作っている。

「……Tさん?」
私が声をかけると、彼はビクリと反応し、ゆっくりと顔を上げた。
懐中電灯の光の中に、彼の顔が浮かび上がる。
整いすぎていた。
肌のシミ一つなく、皺の深さも左右対称。
まるで、CGで作られたマネキンのようだ。

「おはようございます、ライターさん」
彼の口が動いた。
声はT氏のものだったが、抑揚が平坦で、録音テープを再生しているかのようだった。
「お待ちしておりました。取材ですか? いい記事は書けそうですか?」

「Tさん、ここで何をしているんですか? あなたは失踪したんじゃ……」
「失踪? いいえ、私はここにいますよ。ずっとここにいました。生まれ変わるための準備をしていたんです」

彼は一歩、こちらへ近づいた。
ペタリ。
湿った足音が響く。

「あなたも、疲れましたでしょう? 他人の話を聞くのは疲れる。人の噂を集めるのも疲れる。いっそ、あなた自身が噂になればいい」
T氏は貼り付けたような笑顔を浮かべた。
口角が物理的にあり得ない角度まで吊り上がる。
「ここなら、なりたい自分になれますよ。泥は全てを受け入れてくれる。さあ、古い皮を脱いで」

彼は手を伸ばしてきた。
その指先が、小刻みに震えている。
いや、震えているのではない。
指の表面が波打っているのだ。
皮膚の下で、泥が蠢いているかのように。

「来るな!」
私はポケットから催涙スプレーを取り出し、彼の顔面に向けて噴射した。

プシュッ!
赤い霧が彼の顔を覆う。
普通なら激痛でのたうち回るはずだ。
しかし、T氏は瞬き一つしなかった。
噴射された液体は、彼の顔の表面で泥と混じり合い、茶色く濁って流れ落ちていくだけだった。
痛覚がないのだ。
あるいは、眼球そのものが偽物なのか。

「痛くありませんよ」
T氏は平然と言った。
「私たちは、もう痛みを感じないんです。便利でしょう?」

私は絶叫しそうになるのをこらえ、彼を押しのけて廊下へ走り出そうとした。
だが、T氏は意外なほど素早く私の腕を掴んだ。
その力は万力のようで、そして冷たかった。
人間の体温ではない。冷蔵庫から出したばかりの生肉のような冷たさ。

「離せ!」
私は持っていた懐中電灯で、彼の手首を殴りつけた。
ゴリッ、という鈍い感触。
骨が折れる音ではなく、粘土が潰れるような音がした。
彼の手首がぐにゃりと奇妙な方向に曲がる。
それでも、手の力は緩まない。

「一緒に練習しましょう。ライターさんの役、私がやりますから」
「ふざけるな!」

私は必死で抵抗し、足を蹴り上げた。
彼の膝関節にヒットする。
ガクンと体勢を崩した隙に、私は腕を引き抜き、玄関へと走った。

「逃げないで。まだ、馴染んでないのに」
背後から声が聞こえる。
それはT氏の声だけでなく、無数の声が重なったような響きだった。
男の声、女の声、老人の声、子供の声。
それらが一斉に、「逃げないで」「名前を教えて」「顔を貸して」と合唱している。

私は靴を履く暇もなく、玄関から飛び出した。
外の廊下は、激しい雨に打たれていた。
冷たい雨粒が頬を叩く。それが現実の感覚を引き戻してくれた。

私は階段を目指して走った。
だが、異変は304号室の中だけではなかった。
廊下に並ぶ他の部屋のドア。
305、306、307……。
それらのドアが、一斉に少しだけ開いていた。

チェーンロックがかかった数センチの隙間から、無数の目がこちらを覗いている。
上階からも、下階からも、視線を感じる。
団地全体が、目覚めていた。

「おはようございます」
「おはようございます」
「おはようございます」

囁くような挨拶が、雨音に混じって聞こえてくる。
どの声も感情がなく、ただ定型文を繰り返しているだけだ。
彼らは全員、あちら側の住人なのか?
K市営団地は、すでに「マネビト」たちに乗っ取られていたのか?

私は恐怖で足がもつれそうになりながらも、階段を駆け下りた。
ペタ、ペタ、ペタ、ペタ。
背後から、無数の足音が追いかけてくる。
振り返る余裕はない。

二階、一階。
エントランスへ飛び出す。
駐車場へ向かって全力疾走する。
雨で濡れたアスファルトで足を滑らせ、激しく転倒した。
手のひらを擦りむき、血が滲む。
痛みがある。私はまだ人間だ。

すぐに起き上がり、車にたどり着く。
鍵を開け、運転席に飛び込む。
ドアをロックし、震える手でエンジンをかける。

ヘッドライトが前方を照らし出す。
雨の中に、人影が立っていた。
エントランスの前に、数人の住人が立ち尽くしている。
その中に、T氏もいた。
彼は曲がった手首をぶら下げたまま、あの笑顔でこちらに手を振っていた。

「また来てくださいね。次は、ちゃんと準備しておきますから」
彼の口元がそう動いたのが見えた。

私は悲鳴を上げてアクセルを踏み込んだ。
タイヤが空転し、焦げ臭い匂いを撒き散らしながら、車は急発進した。
バックミラーを見る。
赤いテールランプの光の中に、彼らの姿が小さくなっていく。
彼らは追いかけてこない。
ただ、静かに見送っていた。
まるで、私が必ず戻ってくると知っているかのように。

団地を抜け、大通りに出るまで、私は呼吸をすることさえ忘れていた。
街灯の明るいコンビニが見えた時、ようやく路肩に車を停めた。
心臓が破裂しそうだ。
全身が冷たい汗と雨で濡れている。

「はぁ、はぁ、はぁ……」
ハンドルに突っ伏して、荒い息を吐く。
生きて帰れた。
それだけで十分だった。もう二度と、あそこには行かない。
記事にするのもやめよう。これは触れてはいけない闇だ。

そう思った時だった。
バッグの中で、スマートフォンが振動した。
着信ではない。
画面が勝手に点灯している。

私は恐る恐るスマホを取り出した。
画面には、ボイスレコーダーアプリが表示されていた。
録音中。
いつから?
録音時間は「02:15」から始まっている。
私が団地に到着した時刻だ。
勝手に起動していたのか?

そして、波形が動いていた。
私は車の中に一人だ。声など出していない。
それなのに、録音レベルのメーターが、規則正しく振れている。

スピーカーから、微かな音が流れてきた。

『……ザー……ザー……』
ノイズ。

『……みつけた』

男の声。
T氏の声ではない。
もっと低い、地を這うような声。
そして、それはスピーカーからではなく、スマホの「内部」から聞こえてくるようだった。

『……もってきたね』
『……あいつの、ノートを』
『……これで、つながった』

私はパニックになり、停止ボタンを連打した。
だが、アプリは反応しない。
画面がフリーズしている。
いや、画面の中の波形だけが生き物のように動き続けている。

『……おまえの、こえ』
『……いただき』

プツン。
唐突に録音は停止し、画面は暗転した。
スマホが再起動を始める。

静寂が戻った車内。
しかし、私は気づいてしまった。
助手席に置いてあったバッグ。
その口が開いている。
中から、あの「交流ノート」と、304号室で拾った「泥だらけのノート」が覗いている。

そして、そのノートの上に、茶色い泥の手形がついていた。
私の手ではない。もっと大きな、指の長い手形。
ついさっきついたばかりのような、湿った泥の跡。

私は、一人ではなかったのかもしれない。
あるいは、何かを連れてきてしまったのか。

バックミラーを見る。
後部座席には誰もいない。
だが、ミラーに映る自分の顔が、ひどく青白く、そしてどこか他人行儀に見えた。
私は自分の顔を両手で触った。
感触はある。
だが、鏡の中の私は、触られていることに気づいていないかのように、無表情でこちらを見つめ返していた。

私は恐怖で叫び出しそうになりながら、再び車を発進させた。
どこへ行けばいい?
自宅? いや、自宅はもう安全ではないかもしれない。
とにかく、光のある場所へ。人が大勢いる場所へ。

雨はまだ降り続いていた。
K市の夜は、終わらない。

(第6話 完)

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