【実録】ある地方都市で囁かれる「顔のない隣人」に関する取材ノート

sika3

第4話 File.04:騒音トラブル・304号室への不可解な苦情

深夜のコインランドリー「ひまわり」から命からがら逃げ帰った私は、自宅のアパートで荒い息を整えていた。
手元には、店から持ち出してしまった「交流ノート」がある。
最後のページに書かれた、まだインクの乾いていない文字。
『ライターさん、ノートを持っていかないで。それは私たちの交換日記なのに』

このメッセージは、明らかに私に向けられたものだ。
あそこにいたのは私一人だったはずだ。それなのに、誰がいつ書いたのか。
背筋の震えが止まらなかったが、私はライターとしての性分を抑えきれず、持ち帰った資料の精査を始めた。

T氏から託された大学ノートとICレコーダー。
そして今回入手した交流ノート。
これらに共通して現れるキーワードがある。
「304号室」。

T氏のノートには、こう記されていた。
『304号室から壁を叩く音。リズムが一定。モールス信号?』

交流ノートにもあった。
『304号室がうるさい。壁を叩く音がする。まだ馴染んでないのがいる』

304号室。
K市営団地の4号棟、3階の角部屋。
私はT氏から預かったデータの中に、未開封のフォルダがあることを思い出した。
フォルダ名は「管理組合資料」。
T氏がどのようにして入手したのかは不明だが、団地のゴミ捨て場から拾ったか、あるいは掲示板の貼り紙を撮影したものかもしれない。
私は祈るような気持ちで、そのフォルダを開いた。

そこには、数年分の「管理組合議事録」と「管理人業務日誌」のスキャン画像が収められていた。
画質は粗いが、文字は判読できる。
私はそれらを時系列順に並べ替え、304号室に関する記述を抽出する作業に取り掛かった。

浮かび上がってきたのは、単なる近隣トラブルとは一線を画す、異常な「騒音」の記録だった。

***

【資料1:管理組合議事録(抜粋)】

日付:平成2X年6月15日
議題:近隣騒音に関する苦情について
内容:
4号棟の住人より、深夜の騒音に関する苦情が多数寄せられている。
特に3階フロアからの報告が多い。
騒音源として特定されたのは304号室。
苦情内容:「夜中に大勢の人間が話し合っているような声がする」「子供が走り回る音」「家具を引きずる音」
対応:
304号室は現在「空室」である(入居者募集中だが、過去10年間入居者はいない)。
管理人が確認に向かったが、施錠されており、室内は無人であった。
野良猫等が侵入した可能性を考慮し、ベランダ等の戸締まりを再確認することで対処とする。

日付:平成2X年8月20日
議題:304号室からの異臭および騒音について
内容:
再度、304号室に関する苦情が発生。
隣室の305号室(当時の入居者M氏ではない、前任の入居者)より、「壁の中から話し声が聞こえる」との訴えあり。
また、換気扇から「焦げたような臭い」「線香の臭い」が漂ってくるとの報告。
対応:
警察立ち会いのもと、鍵を開けて室内を確認。
室内は家具もなく、埃が積もっているのみ。火の気は一切なし。
305号室の住人に対し、神経過敏になっている可能性があるとして、やんわりと注意を促した。
備考:
305号室の住人は、翌月、理由を告げずに退去した。

***

記録を読む限り、304号室はずっと空室のままだ。
それなのに、話し声や生活音が絶えない。
典型的なポルターガイスト現象のようにも思えるが、私が気になったのは「話し声」の内容に関する記述だ。

T氏のフォルダには、手書きの「管理人業務日誌」の写真も混ざっていた。
これは公的な議事録には残せない、管理人の個人的な備忘録のようなものだろう。
乱雑な文字で書かれたその内容は、議事録よりも遥かに生々しい恐怖を伝えていた。

***

【資料2:管理人業務日誌(書き起こし)】

10月4日(金) 曇り
また304だ。
404の婆さんから電話。「下の階からラジオの音がうるさい」と。
行ってみたが、ドアの前では何も聞こえない。
念のため合鍵で中へ入る。
誰もいない。ガランとした2DK。
ただ、妙だ。空気が生暖かい。
誰かがさっきまでここにいたような、人いきれが残っている。
畳の上に、丸い窪みが三つあった。ちゃぶ台を置いていた跡か?
埃の上についた跡じゃない。畳そのものが、重みで凹んでいる。
気味が悪いので早々に退散した。

11月12日(火) 雨
深夜2時、警備会社からの連絡。304号室の火災報知器が作動したとのこと。
現場へ急行。誤作動かと思ったが、ドアの隙間からカレーの匂いがする。
鍵を開けて入ると、匂いはさらに強烈になった。
台所へ行く。コンロには何もない。ガスも閉栓してある。
でも、シンクの中が濡れていた。
水滴がついている。蛇口からポタ、ポタと水が垂れている。
誰かが使ったのか?
リビングの真ん中に、茶碗が一つ置かれていた。
中身は空だが、内側に黄色い汚れ。カレーだ。
箸が一膳、綺麗に揃えて置いてある。
……俺はこれを見なかったことにする。
茶碗をゴミ袋に入れて持ち帰った。誰が置いたのか想像したくない。
帰り際、玄関の靴箱を開けてみた。
泥だらけの運動靴が一足だけ入っていた。
サイズは26センチくらい。
俺の靴と同じサイズだ。
怖くなって、靴箱を閉めた。あの靴は、俺の予備の靴に似ていた気がする。

12月25日(水) 晴れ
今日はクリスマスだというのに、また苦情だ。
今度は「歌声」だという。
複数の男女が合唱しているような声。
曲は「ハッピーバースデー」だそうだ。誰の誕生日でもないのに。
確認には行かなかった。もうあの部屋には入りたくない。
廊下から耳を澄ませると、確かに聞こえた。
低い、抑揚のない声で。
「ハッピーバースデー、トゥー、ユー」
「ハッピーバースデー、トゥー、ユー」
「ハッピーバースデー、ディア、……」
名前の部分だけ、モゴモゴと濁って聞き取れない。
そして最後に。
「ハッピーバースデー、新しい、私」
そう聞こえた気がして、俺は逃げ帰った。
明日、辞表を出そうと思う。
次の管理人が誰になるか知らないが、引き継ぎノートには「304には関わるな」とだけ書いておく。

***

管理人の日誌は、そこで途切れていた。
彼は本当に辞めたのだろうか。それとも……。
日誌の最後の日付は、3年前のものだった。

私は机の上に並べた資料を呆然と見つめた。
304号室。
そこは、単なる幽霊屋敷ではない。
「何か」が生まれ、育ち、そして出ていく場所。
カレーの匂い、泥だらけの靴、誕生日の歌。
それらは全て「人間らしい生活」の模倣だ。
あそこで何かが、人間になるための練習をしているのだとしたら。

T氏の言葉が蘇る。
「304号室から壁を叩く音。モールス信号?」

私は、ICレコーダーを取り出した。
T氏から託されたものだ。まだ再生していなかったファイルが一つだけ残っている。
ファイル名は「202X0528_304_Wall」。
日付は、T氏が私にメールを送ってくる直前。
場所は、T氏の部屋(306号室)から、隣の305号室を挟んで、さらにその隣の304号室の音を拾おうとしたものか?
いや、構造上、306と304は隣接していない。
となると、T氏はわざわざ304号室の前の廊下か、あるいは上下の階に行って録音したのか?

私はヘッドホンを装着し、再生ボタンを押した。

『ザーーー……』
ホワイトノイズが続く。
『……トン、トン……』
微かな打撃音。壁を叩く音だ。
『トン、トン、トントン……トン……』
不規則なようでいて、一定の規則性を感じるリズム。
モールス信号だろうか?
私はかつて趣味で覚えたモールス符号を思い出しながら、メモ用紙に書き留めていく。

「・-・・」(L)
「・・」(I)
「-・-・」(C)
「・」(E)
「-・」(N)
「・・・」(S)
「・」(E)

LICENSE(ライセンス)。
免許? 許可?

音声は続く。
今度は打撃音が変わり、何かが壁を爪で引っ掻くような音になる。
『カリ……カリカリ……』
そして、くぐもった話し声が混じる。
壁の向こう側からの声だ。

『……こえは、これで、あってる?』
『……もうすこし、たかく』
『……こえは、これで、あってる?』
『……うん、にてきた』

男の声と、女の声。
いや、同じ人物が声色を変えて一人二役をやっているようにも聞こえる。
教育係と生徒?
それとも、自己対話?

『……つぎは、かおの、ちょうせい』
『……みぎめを、さげて』
『……こう?』
『……さげすぎ。それじゃ、にんげんじゃない』
『……むずかしい』

背筋が凍るような会話。
やはり、あそこは「製造工場」であり「訓練所」なのだ。

音声データの最後、唐突に音がクリアになった。
録音者が、壁に耳を密着させたのかもしれない。

『……ねえ』
声の主が、壁の向こうからこちら側に話しかけてきた。
『……そこできいてるの、だあれ?』

『……Tさん?』
『……それとも、つぎの、ひと?』

『……あけて』

ドン!!!

破裂音と共に、録音は終了していた。
最後の「ドン!」という音は、壁を内側から思い切り叩いた音だろう。
あるいは、録音していたT氏が、何かに襲われた音か。

私はヘッドホンを投げ捨てた。
部屋の静寂が恐ろしい。
自分のアパートの壁の向こうから、誰かが聞いているんじゃないかという妄想に取り憑かれる。

その時、玄関のチャイムが鳴った。
ピンポーン。
時計を見る。深夜三時。
こんな時間に誰だ?

私は息を殺して、ドアスコープを覗きに行った。
廊下の明かりの中に、誰もいない。
いや、足元に何かが置かれている。
封筒だ。

私はチェーンをかけたまま、少しだけドアを開け、封筒を引き寄せた。
茶封筒。差出人の名前はない。
切手も貼られていない。直接ポストに入れられたか、ドアの前に置かれたものだ。

封筒を開ける。
中に入っていたのは、一枚の紙切れと、古びた鍵だった。

紙切れには、ワープロ打ちの文字でこう書かれていた。

『取材許可証』
『場所:K市営団地 4号棟 304号室』
『日時:いつでも』
『備考:入室は自由ですが、退室は保証しません』

そして、同封されていた鍵。
タグが付いている。
『304』
手書きの文字。あの管理人日誌の筆跡に似ていた。
あるいは、T氏の筆跡にも見えた。
それとも、私の筆跡か?
見れば見るほど、自分の字に似ている気がしてくる。

私は鍵を握りしめた。
これは招待状だ。
彼らは知っている。私が嗅ぎ回っていることを。
そして、ここまで情報を与えれば、私が好奇心に負けて必ずやって来ると確信しているのだ。

罠だと分かっている。
行けば、私も「あちら側」に取り込まれるかもしれない。
コインランドリーの洗濯機で回され、泥だらけの服を着せられ、新しい顔を貼り付けられて、「おはようございます」と挨拶する隣人の一人になるかもしれない。

だが、ライターとしての業が、恐怖を上回ろうとしていた。
この鍵があれば、全ての謎の中心に入れる。
「空室」のはずの304号室。
そこで何が行われているのか。
管理人が見たカレーや、濡れたシンクの正体。
そして、失踪したT氏の行方。

私は決意した。
行くしかない。
ただし、準備は必要だ。
一人で行くのは自殺行為だ。だが、誰も巻き込むわけにはいかない。
私は、自分の行動をリアルタイムで記録し、クラウド上にアップロードする準備を整えることにした。
もし私が戻らなくても、この記録だけは世に残るように。

窓の外を見る。
夜明け前の空は、紫色に淀んでいる。
K市の方向から、低い雲が垂れ込めていた。
まるで、街全体が巨大な生き物のように、呼吸をしているかのようだ。

私は荷物をまとめた。
カメラ、ボイスレコーダー、予備のバッテリー、そして護身用の催涙スプレー。
最後に、あの「交流ノート」を机の引き出しにしまった。
もし私が帰ってこなかったら、誰かがこれを見つけてくれることを祈って。

「304号室、か」
口に出して言ってみる。
その響きだけで、部屋の温度が一度下がった気がした。
隣の部屋から、壁を叩くような音が聞こえた気がして、私はビクリと振り返った。
だが、そこには白い壁があるだけだった。
今のところは。

(第4話 完)

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