【実録】ある地方都市で囁かれる「顔のない隣人」に関する取材ノート

sika3

第1話 File.01:K市からの奇妙な依頼メール

これは、私が数年前に経験した、ある取材に関する記録である。
特定を避けるため、地名や人物名はすべて仮名とさせていただく。また、一部の音声データやメモの内容については、読者の精神的な負担を考慮し、要約して記載することをお断りしておく。

私は主に実話怪談や都市伝説、オカルトに類する記事を専門とするフリーライターだ。
仕事柄、読者からの体験談や相談メールを受け取ることが多い。その九割は、既知の都市伝説の焼き直しや、精神的な不調からくる妄想、あるいは単なる悪戯である。
しかし、残りの一割、いや、ほんの数パーセントに、説明のつかない「本物」が混じっていることがある。

この一連の記録の発端となったのは、202X年5月中旬、梅雨入りを控えた湿度の高い日に届いた一通のメールだった。
件名には【近隣トラブル、あるいはストーカー被害についての相談】と記されていた。
一見すると、私の専門外である法律相談や警察案件のように思える。だが、本文を読み進めるうちに、背筋に冷たいものが走るのを抑えられなかった。

以下に、そのメールの全文を掲載する。

――――――――――――――――
差出人:T(仮名)
件名:近隣トラブル、あるいはストーカー被害についての相談
宛先:取材受付窓口

突然のご連絡、失礼いたします。
以前、カクヨムに掲載されていた「山間部の廃村における神隠し」の記事を拝読し、あなた様なら私の話を真剣に聞いてくださるのではないかと思い、メールを差し上げました。

私は現在、北関東のK市にある県営団地に住んでいます。
築40年を超える古い団地ですが、家賃の安さと緑の多さが気に入り、独り身の私にとっては過ごしやすい場所でした。これまでは。

相談というのは、隣の部屋に住む一家についてです。
305号室のMさん一家(夫婦と小学生の娘の三人暮らし)なのですが、一ヶ月ほど前から様子がおかしいのです。

具体的になにがおかしいのかと問われると、非常に答えづらいのですが……。
端的に言えば、「中身が入れ替わっている」気がするのです。

顔も、声も、服装も、以前のMさん一家と同じです。
挨拶をすれば挨拶を返してくれます。ゴミ出しのルールも守っています。
ですが、決定的に何かが違うのです。

例えば、歩き方です。
あの一家は全員、以前よりも歩く時の膝の使い方がぎこちなくなり、廊下を歩く音が「ペタ、ペタ」という湿った音に変わりました。
また、以前は毎週末になるとカレーの匂いが漂ってきていたのですが、ここ最近は、なんというか、古い油と薬品を混ぜて煮込んだような、異様な臭気が換気扇から漏れてくるのです。

私がこれを警察に相談できない理由は、決定的な被害がないからです。
ただ「雰囲気が変わった」というだけで通報すれば、私が異常者扱いされてしまうでしょう。
ですが、一昨日の夜、私は見てしまったのです。

ベランダ越しに、Mさん一家が「練習」している姿を。

もしご興味を持っていただけたなら、一度お会いして詳しくお話しさせていただけないでしょうか。
手元に、私が記録したメモと、ボイスレコーダーのデータがあります。
これをお渡ししたいのです。私はもう、この部屋に居続けることが限界に近づいています。

どうか、よろしくお願いいたします。
――――――――――――――――

「練習」という言葉が、妙に引っかかった。
私はすぐに返信を打ち、週末にK市へ向かう約束を取り付けた。

K市は、都心から電車で一時間半ほどの距離にある地方都市だ。
駅前こそチェーンの居酒屋やビジネスホテルが立ち並び、それなりの賑わいを見せているが、車で十分も走れば、シャッターの下りた商店街と、高度経済成長期に建てられた巨大な団地群が広がる、典型的なベッドタウンの成れの果てである。

指定された待ち合わせ場所は、団地から徒歩圏内にあるファミリーレストランだった。
到着したのは午後二時過ぎ。店内は昼のピークを過ぎ、まばらな客入りだった。
ドリンクバーに近いボックス席に、その男、T氏は座っていた。

年齢は四十代半ばだろうか。くたびれたポロシャツにチノパンという出立ち。
極めて平凡な中年男性に見えるが、その顔色は土気色で、目の下には濃い隈が刻まれていた。
テーブルの上には、手つかずのアイスコーヒーと、分厚い大学ノートが一冊置かれている。

「はじめまして、ライターの私です」
私が声をかけると、T氏は弾かれたように顔を上げ、すがるような目で私を見た。
「ああ、来て……来てくれたんですね。よかった」
その声は掠れており、小刻みに震えていた。

私は向かいの席に座り、まずは世間話で彼の緊張をほぐそうと試みた。
この団地にはいつから住んでいるのか、仕事は何をしているのか。
T氏は地元の工場に勤務しており、この団地には五年ほど住んでいるという。
独身で、人付き合いはそれほど得意ではないが、近隣住民とのトラブルはこれまで一度もなかったそうだ。

「それで、メールにあった隣人の件ですが」
私が本題を切り出すと、T氏は周囲を警戒するように一度店内を見回してから、声を潜めて話し始めた。

「信じてもらえないかもしれません。でも、嘘じゃないんです」
「ええ、疑ったりはしませんよ。そのためにここに来たんですから」
「……ありがとうございます。あの、Mさん一家のことなんですがね。一ヶ月前、ちょうど連休が明けた頃からなんです。急に、愛想が良くなったんですよ」

T氏の話によると、305号室のM氏(夫)は、元々無口で気難しい性格だったらしい。
廊下ですれ違っても会釈程度で、ゴミ捨て場の掃除当番の時なども不平不満を漏らすようなタイプだった。
それが、ある日を境に、満面の笑みで挨拶をしてくるようになったという。

「笑顔なんです。でもね、目が笑っていないとか、そういうレベルの話じゃないんです。顔の筋肉の動きがおかしいんですよ。口角だけが吊り上がって、他のパーツが微動だにしない。まるで、福笑いのお面を貼り付けたみたいな顔で、『おはようございます、Tさん』って」

「それは、何か良いことがあって機嫌が良かったとか、そういうことではなく?」
「違います。だって、深夜の二時ですよ」
「え?」
「深夜の二時に、ゴミ捨て場で会ったんです。私が夜勤明けで帰ってきた時でした。Mさんが、指定袋に入れたゴミを出しに来ていた。こんな時間に珍しいなと思って声をかけようとしたら、向こうが先に振り向いて、あの笑顔で『おはようございます』って」

深夜二時の「おはようございます」。
確かに奇妙だが、言い間違いという可能性もある。私はメモを取りながら先を促した。

「それだけなら、私もただの不気味な体験で済ませたと思います。でも、ゴミ袋の中身が気になってしまって。半透明の袋越しに見えたんです。大量の、泥だらけの服が」
「泥だらけの服、ですか」
「ええ。子供服も、女性用の服も、Mさんの作業着も。全部、泥と……何か黒い染みで汚れていて。その時は深く考えないようにして部屋に戻りました。でも、それからなんです。隣から聞こえる音が変わったのは」

T氏はアイスコーヒーを一口飲み、震える手で口元を拭った。

「壁越しに、話し声が聞こえるんです。団地の壁は薄いですから、大きな声を出せば隣に聞こえます。でも、その会話の内容が変なんです。まるで、台本を読み合わせているみたいに」

「台本?」
「ええ。『ただいま』『おかえり』『今日の夕飯はなに?』『カレーよ』……そんなありふれた会話を、何度も何度も繰り返しているんです。イントネーションを変えたり、声の高さを変えたりして。夜中の三時まで、ずっとですよ。しかも、三人の声色が、時々入れ替わるんです」

「入れ替わるというのは?」
「父親の声で『今日の夕飯はなに?』と言ったかと思えば、次は子供の声で、まったく同じ抑揚で『今日の夕飯はなに?』と言う。まるで、誰かの声をサンプリングして、別の人間が真似して練習しているみたいに」

私は背筋が寒くなるのを感じた。
メールにあった「練習」という言葉の意味が、少しずつ輪郭を帯びてくる。

「そして、一昨日の夜のことです」
T氏は声をさらに低くし、テーブルの上に身を乗り出した。
「その夜は蒸し暑くて、私は窓を少し開けていました。隣のベランダとの間には仕切り板がありますが、下の方に隙間があります。そこから、隣のベランダの様子がなんとなく分かるんです」

深夜一時過ぎ。隣のベランダから、裸足でコンクリートの上を歩く音がした。
ペタ、ペタ、ペタ。
T氏は息を潜めて、カーテンの隙間から外を窺った。
街灯の薄明かりの中に、Mさん一家の三人が立っていたという。

「三人とも、パジャマ姿で、直立不動で並んでいました。ベランダの手すりに向かって、一列に。何をしているんだろうと思ったら、Mさんが小さな声で言ったんです。『いち、に、さん』って」

「体操でもしていたんですか?」
「いいえ。Mさんの合図に合わせて、三人同時に、首を真後ろに回したんです」

私はペンの動きを止めた。
「……真後ろ、ですか?」

「人間ができる範囲の『振り返る』じゃありません。身体は正面を向いたまま、首だけが、ゴリッ、バキッという音を立てて、百八十度回転したんです。そして、三つの顔が、背後の窓ガラスに映る自分たちの姿を見つめました」

T氏の瞳孔が開いている。彼はその時の光景を、今まさに目の前で見ているかのように語った。

「そして、三人同時に言いました。『まだ、なじんでない』と」

店内にはBGMのジャズが流れているはずだが、私の耳には届かなくなっていた。
空調の音がやけに大きく聞こえる。
T氏の話は、明らかに常軌を逸していた。精神的な疾患による幻覚か、あるいは極度の疲労が見せた悪夢か。
普通ならそう判断して席を立つところだ。
しかし、彼がテーブルに置いた大学ノート、その表紙の端に付着している赤黒い汚れが、私の理性を不安にさせた。

「それで、私は怖くなって、実家に逃げようと思ったんです。昨日の朝、荷物をまとめて玄関を出ました。すると、Mさんの奥さんが廊下を掃除していたんです」
「……何か言われましたか?」
「ええ。奥さんは、あの貼り付けたような笑顔で、私にこう言いました。『Tさん、どこかへ行かれるんですか? 遠くへ行くなら、お留守番をしておきましょうか?』って」

T氏はガタガタと震え出した。
「彼女は、知っていたんです。私が、誰にも言っていないはずの実家の場所も、私が隠しておいた合鍵の場所も。だって、彼女の手には、私の部屋の合鍵が握られていたんですから」

私は息を呑んだ。
合鍵の場所を知っている? それはつまり、不法侵入があったということか。

「私は何も答えずに走って逃げました。そのまま、この近くのネットカフェに泊まって、あなたを待っていたんです。もう、あの部屋には戻れません。でも、警察に行っても信じてもらえない。鍵を盗まれた証拠もない。だから……」

T氏は大学ノートを私の方へ押しやった。

「これを受け取ってください。私がこの一ヶ月間、隣の部屋の様子を記録した日記と、壁越しに録音した音声データの入ったICレコーダーです。もし私に何かあったら、これを世に出してください」

「Tさん、落ち着いてください。まずは警察に相談を……」
「警察はダメだ!」
T氏が叫び、店内の数人がこちらを見た。彼はハッとして口をつぐみ、小声で早口に続けた。
「交番のお巡りさんも、この前見かけた時、歩き方がおかしくなっていたんです。ペタ、ペタって。もう、この街は侵食されているのかもしれない」

彼は席を立ち上がった。
「私は、遠くの親戚の家に行きます。関東を出ます。これは、あなたに託します。決して、夜中にこれを聞かないでください。再生するなら、昼間の、人が多い場所で」

それだけ言い残して、T氏は逃げるように店を出て行ってしまった。
会計伝票と、古びた大学ノート、そして黒いICレコーダーを残して。

私はしばらくの間、呆然とその場に座り込んでいた。
窓の外を見ると、いつの間にか雨が降り始めていた。K市の空は、重苦しい鉛色に覆われている。

手元に残されたICレコーダー。
T氏の切迫した様子は演技には見えなかった。
だが、「首が百八十度回転した」という話はどうしても現実味がない。
彼自身が精神的に追い詰められ、認知が歪んでいた可能性が高い。

私はとりあえず、T氏から託されたノートを開いてみることにした。
最初のページには、几帳面な文字で日付と天気が記されている。
内容は淡々とした生活の記録と、隣人への些細な違和感の記述。
だが、ページをめくるごとに、文字は乱れ、筆圧は強くなり、内容は支離滅裂になっていく。

そして、最後のページ。
そこには、ボールペンが紙を突き破るほどの強さで、大きな文字が書き殴られていた。

『みつかった』
『みつかった』
『かおをおぼえられた』
『つぎはわたしだ』

そして、その乱暴な文字の下に、明らかに筆跡の違う、細くて繊細な文字で、一文だけ添えられていた。

『取材、ご苦労様です。お待ちしておりました』

私はノートを閉じた。
心臓が早鐘を打っている。
この「お待ちしておりました」は、誰が書いたものだ?
T氏か? それとも、T氏が恐れていた「隣人」か?
あるいは、T氏自身が、既に「隣人」になっていたのか?

ふと、窓ガラスに映る自分の顔を見た。
疲れた中年男の顔。いつもの私だ。
だが、その背後に映る店内の客の一人が、こちらを凝視していることに気づいた。
遠くの席に座る、女性客。
彼女は、ドリンクバーのグラスを持ったまま、微動だにせず、私の背中越しに、窓ガラスに映る私の目を見つめている。
その口元が、不自然に吊り上がっているように見えたのは、雨に濡れたガラスの歪みのせいだろうか。

私は逃げるように席を立ち、会計を済ませて店を出た。
雨脚は強まっていた。
駅へ向かう道中、誰かにつけられているような気配を感じて、何度も振り返った。
しかし、そこには雨に煙る団地群のシルエットがあるだけだった。

帰りの電車の中で、私は決意した。
この件は、単なる妄想話ではないかもしれない。
K市で、何かが起きている。
そして私は、知らず知らずのうちに、その「何か」に招き入れられてしまったのかもしれない。

私はバッグの中のICレコーダーを握りしめた。
T氏の忠告通り、今はまだ再生しないでおこう。
まずは、ノートに書かれている内容を精査し、T氏が証言した場所――公園やコインランドリーについて、裏取りをすることから始めよう。

これは、K市というありふれた地方都市の日常に潜む、底知れぬ闇への入り口だった。
私はまだ、その深さを知らなかった。

(第1話 完)

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