【実録】ある地方都市で囁かれる「顔のない隣人」に関する取材ノート

sika3

第2話 File.02:公園の古老が語る「増える住人」の噂

K市在住の依頼人・T氏と駅前のファミリーレストランで面会してから、一週間が経過していた。
あの日以来、T氏との連絡は完全に途絶えている。
彼が教えてくれたメールアドレスに取材の進捗を報告しても、エラーメールが返ってくるだけだった。「宛先が見つかりません」という無機質な通知は、彼がアカウントごと削除したことを意味していた。
携帯電話の番号も聞いておくべきだったと後悔したが、あの切迫した状況下では、それも難しかっただろう。

私の手元には、T氏が置いていった一冊の大学ノートと、ICレコーダーが残されたままだ。
ノートの内容については、帰宅後に全て目を通した。
前半は、工場のシフトや夕飯の献立、購入した日用品の金額などが記された、几帳面すぎるほどの日記だった。
しかし、五月の中旬あたりから、記述の中に「305号室」という単語が頻出するようになる。

『5月14日 夜11時。305号室から壁を叩く音。リズムが一定。モールス信号?』
『5月17日 ベランダでMさんが空を見上げている。瞬きをしていない。30分経過。』
『5月20日 ゴミ捨て場でMさんの娘(サキちゃん)に会う。「おじちゃん、皮があまってるよ」と言われる。意味がわからない。私の服のサイズのことか?』

読み進めるにつれて、T氏の精神状態が徐々に摩耗していく様が手に取るようにわかった。
だが、私が注目したのは、彼が狂気に陥っていく過程ではなく、そこに記された事象の「具体性」だ。
妄想にしては、描写が細かすぎる。
特に、彼がノートの端に走り書きしていた団地の見取り図や、周辺地域のメモには、妙なリアリティがあった。

私は、T氏の証言の裏を取るため、再びK市へ向かうことにした。
今回の目的は、T氏が住んでいた団地周辺での聞き込みだ。
いきなり団地の住人に「隣人が入れ替わっているという噂を知っていますか」などと聞けば、不審者扱いされるのが落ちだ。
まずは外堀を埋めるべく、団地に隣接する「K中央公園」で、古くからこの地に住む人々の話を聞くことにした。

K中央公園は、団地群の南側に位置する広大な公園だ。
かつては調整池だった場所を埋め立てて作られたそうで、地面は所々湿り気を帯びており、植えられた桜や欅の木々は、どれも幹が太く、鬱蒼とした影を落としていた。

平日の午後一時過ぎ。
公園には、学校終わりの子供たちの姿はまだなく、ゲートボールを楽しむ老人たちのグループや、ベンチで将棋を指す高齢者たちの姿が目立った。
のどかな午後の風景に見える。しかし、私の目には、その背後にそびえ立つ巨大な団地群が、まるで墓標のように映っていた。

私は、藤棚の下にあるベンチで将棋を指している三人の老人たちに狙いを定めた。
彼らは見るからにこの土地の古株といった風貌で、日焼けした肌に深い皺が刻まれている。
将棋盤を囲んでいるのは、ハンチング帽を被った小柄な老人と、ジャージ姿の恰幅の良い老人。そして、脇で見物している白髪の老人の三人だ。

「こんにちは。いい手ですね」
私が声をかけると、見物していた白髪の老人が、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「……あんた、見ない顔だね」
警戒心を含んだ視線。私は名刺を差し出し、フリーのライターであることを明かした。
「実は、この地域の歴史や、昭和の頃の暮らしについて取材をしているんです。昔の団地の様子なんかを教えていただけないかと思いまして」

「怪談」や「事件」の取材だと言うと口を閉ざされることが多い。そのため、私はしばしば「地域の歴史探訪」という建前を使う。
「歴史」という言葉は、高齢者の自尊心をくすぐる魔法の言葉だ。
案の定、ジャージ姿の老人が盤面から目を離し、ふん、と鼻を鳴らした。
「歴史なんざ、そんな大層なもんはここにはねえよ。あるのは湿気とカビだけだ」
そう言いながらも、彼らは私の同席を拒否はしなかった。

私は自販機で買ったお茶を差し入れつつ、彼らの世間話に混ざった。
彼らは皆、K団地ができる前、あるいはできた直後からこの地に住んでいるという。
話題は、近所のスーパーの値上げの話から、最近の若者のマナー、そして健康不安へと移ろっていく。
場が温まってきた頃合いを見計らって、私は少しずつ話題を誘導した。

「そういえば、この団地には、何か変わった噂や言い伝えみたいなものはないんですか? 例えば、入ってはいけない場所があるとか」
私がそう尋ねると、将棋を指していたハンチング帽の老人が、パチンと駒を置く手を止めた。
一瞬、三人の間に沈黙が流れた。
風が吹いて、頭上の藤棚がカサカサと音を立てる。

「……兄ちゃん。そういう話は、面白半分で掘り返すもんじゃねえよ」
ハンチング帽の老人が、低い声で言った。
「別に幽霊が出るとか、そういう話じゃねえ。ただ、ここは『入りやすいが出にくい』場所なんだ」

「入りやすいが出にくい、ですか?」
「ああ。一度根を張っちまうと、ズブズブと沈んでいく。沼だった頃の記憶を土地が持ってるんだな」
老人は抽象的な表現ではぐらかそうとした。
しかし、私は食い下がった。
「実は、ある読者の方から、この団地で『人が変わったようになる』という話を聞いたんです。昨日まで普通だった人が、急に別人みたいになる、と」

その瞬間、ジャージ姿の老人が持っていた扇子が、地面に落ちた。
彼は慌ててそれを拾い上げ、バツが悪そうに私から視線を逸らした。
明らかに、何かに心当たりがある反応だった。

見物の白髪の老人――Sさんとしておこう――が、深いため息をついた。
彼は懐から煙草を取り出し、火をつけずに口にくわえた。
「……キツネだよ」
Sさんがポツリと漏らした。

「狐、ですか?」
「ああ。昔から言うだろう。人を化かすのは狐だってな。この辺りは昔、狐の嫁入りがよく見られたそうだ。だから、変なことが起きても、年寄りはみんな『狐に化かされた』って言って納得するんだ」

それは、よくある民俗学的な怪談のパターンだった。
開発によって住処を追われた動物霊の祟り。あるいは、土地の因縁。
だが、Sさんの目は笑っていなかった。彼は震える手で煙草を弄びながら、私の目を真っ直ぐに見た。

「でもな、兄ちゃん。俺たちは知ってるんだ。ありゃあ、狐なんかじゃねえ」
「……どういうことでしょうか」
「狐なら、せいぜい葉っぱを金に変えたり、道に迷わせたりするくらいだ。だが、ここの『アレ』は違う。もっとタチが悪い。人の皮を被って、生活そのものを乗っ取っちまうんだ」

Sさんの言葉に、ハンチング帽の老人が「おい、よせ」と制止しようとした。
だが、Sさんは止まらなかった。まるで、誰かに話したくてたまらなかった秘密を、ようやく吐き出せる相手を見つけたかのように。

「俺の隣の部屋にな、以前、若い夫婦が住んでたんだ。仲のいい夫婦だったよ。旦那さんは毎朝『行ってきます』と大きな声で言って出勤し、奥さんはベランダで洗濯物を干しながら鼻歌を歌ってた。よく回覧板を回しに行ったもんだ」
Sさんは遠くを見る目をした。
「それが、三年前の夏だ。ある日を境に、旦那さんの声が変わったんだ」

「声が変わった?」
「ああ。風邪をひいたとか、そういうのじゃねえ。発声の仕方が変わったんだ。腹から声を出さずに、喉の奥だけで喋るような、平べったい声にな。それに、歩き方もだ。足音がしねえんだよ。いつの間にか背後に立ってて、『Sさん、回覧板です』って」

T氏がメールに書いていた「ペタ、ペタという湿った足音」という記述が脳裏をよぎる。

「奥さんもおかしかった。あの奥さんはな、左利きだったんだ。いつも左手でペンを持ってサインしてた。でも、ある日見たら、右手で包丁を握って野菜を切ってたんだ。それも、恐ろしい速さでな。トントントントンって、リズムが全く乱れねえ。機械みたいに」

Sさんは唾を飲み込んだ。
「俺は怖くなって、ある時、旦那さんに鎌をかけてみたんだ。『お宅の田舎の青森から、今年もリンゴは届いたかい?』ってな。彼の実家は青森で、毎年冬になるとリンゴをお裾分けしてくれてたからな」
「旦那さんは、なんと?」
「奴は、あの貼り付けたような笑顔でこう言ったよ。『ええ、届きましたよ。とても甘くて美味しかったです』って」

Sさんの声が震えた。
「……その年は、記録的な冷害で、実家のリンゴ農園は全滅したって、前の週に泣きながら話してくれたばかりだったんだよ」

背筋が寒くなった。
記憶の欠落。あるいは共有の不完全さ。
それが意味するのは、その「旦那さん」が、本物ではなかったということだ。
では、本物はどこへ行ったのか?

「それで、そのご夫婦は今も?」
「いいや。半年くらいして、夜逃げみたいにいなくなったよ。引っ越しの挨拶もなしにな。でもな、おかしいんだ」
Sさんは声をさらに潜めた。
「引っ越しのトラックが来た様子もねえのに、部屋の中は空っぽになってた。家具も、家電も、服も、何一つ残ってなかった。まるで、最初から誰も住んでいなかったみたいにな」

「ただ、一つだけ残ってたもんがある」
ハンチング帽の老人が、横から口を挟んだ。彼は諦めたように将棋の駒を片付け始めていた。
「俺、管理組合の役員やってたから、鍵開けに立ち会ったんだよ。空っぽの部屋の、畳の上に、脱ぎ捨てられた『アレ』があったんだ」

「アレとは?」
「……人間の、皮みたいなもんだ」
「皮?」
「薄い、半透明の膜みたいなやつだ。人の形をしてた。足の先から頭のてっぺんまで、すっぽりと抜けたような。蛇の脱皮殻をもっと分厚くしたようなもんが、部屋の真ん中に転がってたんだよ」

老人は顔をしかめた。
「警察も呼んだが、結局『新手のゴム製品か何かだろう』ってことで処理された。DNA鑑定とかしたのかどうか知らねえが、事件性なしで終わりだ。K市じゃ、よくあることだからな」

よくあること。
その言葉の響きが、何よりも恐ろしかった。
この街では、人が消え、不可解な遺留物が残されることが「よくあること」として処理されているのか。

「いいか、兄ちゃん」
Sさんが私の腕を掴んだ。老人の手とは思えないほど力が強かった。
「この団地には『定員』があるんだ」
「定員……ですか?」
「ああ。器の数には限りがある。新しい水が入ってくりゃ、古い水は押し出される。だが、ここの水は淀んでて、外へ流れ出ねえ。だから、中で混ざり合って、別の何かに変質しちまうんだ。増えすぎた住人は、間引かれるか、あるいは『統合』される」

Sさんの言葉は抽象的で、哲学めいていた。
だが、その言葉の裏には、彼らが長年この土地で目撃してきた、言語化できない恐怖が積み重なっているように思えた。
「マネビト」という言葉が、私の頭の中に浮かんだ。第1話のノートの分析を進める中で、ネット検索で見つけた地元の都市伝説だ。
人に化けて、その生活を奪うもの。

「最近も、増えてる気がするんだよ」
ジャージ姿の老人が、公園の入り口の方を見ながら言った。
「ほら、あそこのベンチに座ってる親子連れ。あんな顔、先週までこの辺にいなかった」

私が振り返ると、五十メートルほど離れたベンチに、若い母親と男の子が座っていた。
彼らは会話もせず、ただ前を向いて座っている。
母親の手にはスマートフォンも本もなく、ただ膝の上に手を置いている。
男の子も、おもちゃで遊ぶわけでもなく、じっと虚空を見つめている。
一見すると、休憩しているだけの親子だ。
だが、言われてみれば、その静止画のような佇まいは異様だった。
微動だにしないのだ。

「……あれは、待ってるんだよ」
Sさんが耳元で囁いた。
「空くのを、な」

「空くのを?」
「誰かの器が空くのを、じっと待ってるんだ。あるいは、自分たちが入れる隙間をな。兄ちゃん、あんたも気をつけな。余所者は目立つ。隙を見せたら、スッと入り込まれるぞ」

Sさんはそう言うと、吸っていなかった煙草を地面に捨て、足で踏みつけた。
「もう行け。これ以上話すと、俺たちも目をつけられる」

老人たちは、急によそよそしい態度に戻り、将棋盤を片付け始めた。
これ以上の聞き込みは不可能だと悟り、私は礼を言ってその場を離れた。

公園を出る際、私は例の親子連れの近くを通った。
極力見ないようにしていたが、すれ違いざま、視界の端に彼らの姿が入った。
男の子が、私の方を見ていた。
首だけを、くるりと回して。

私は心臓が跳ね上がるのを感じたが、決して足を止めず、振り返りもしなかった。
T氏のノートにあった『首を真後ろに回した』という記述。
まさか、白昼堂々、公園でそんなものを見るとは思わなかった。
あれは見間違いだ。そう自分に言い聞かせた。
子供特有の柔軟性で、無理な体勢で振り返っただけだ。

だが、背中に突き刺さる視線の冷たさは、公園を出て駅に向かう道すがらも、ずっと消えなかった。
まるで、湿ったナメクジが背筋を這い上がってくるような不快感。

私は駅前の喫茶店に逃げ込み、震える手でメモを整理した。
老人たちの話は、T氏の体験談を補強する形となった。
「中身の入れ替わり」「湿った足音」「不自然な行動」「脱皮殻」。
これらは単なる個人の妄想ではなく、この地域で共有されている現象なのだ。

そして、もう一つ気になることがあった。
Sさんが言っていた「奥さんは左利きだった」という話。
これに関連する記述が、T氏のノートにもあったはずだ。

私はバッグからT氏のノートを取り出し、ページをめくった。
あった。

『5月22日 Mさんの奥さんが、コインランドリーで洗濯物を畳んでいるのを見た。彼女は器用に右手だけで畳んでいた。以前、ゴミ捨て場で会った時は、左手で箒を持っていたはずだが?』

コインランドリー。
次の調査場所はそこだ。
団地の住人が利用する、24時間営業のコインランドリー。
そこは、住人たちの生活の痕跡が集まる場所であり、夜間には無人となる密室だ。
何かが見つかるかもしれない。

私はノートを閉じ、冷めきったコーヒーを一気に飲み干した。
窓の外では、いつの間にか日が傾き、K市の街並みが長い影に覆われ始めていた。
夕暮れ時の団地は、昼間とは違う、異様な圧迫感を放っている。
窓の明かりが一つ、また一つと灯り始める。
その光の一つ一つに、人間のふりをした「何か」が潜んでいるとしたら。

私は、得体の知れない恐怖と、それ以上の好奇心に突き動かされるように、席を立った。
まだ引き返せる。そんな理性の声を無視して。

(第2話 完)

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